九
「英雄…」
当然のようにそう言った言葉を、斎藤は静かになぞった。酒のせいで赤い顔をした老人は、少し慌てたように言葉を足す。
「いけねぇ、つい口が滑っちまった。でもお前さんは新選組のこと嫌いじゃあねぇよな? もし嫌いだったら先に言っといてくれ。俺は好きだからよ、酔うとつるっと言っちまう。まあどれもこれも、トシの祖父さんに聞いた話ばかりさ」
「嫌いじゃない」
嫌うわけがないのだと、胸の奥に思いが膨れ上がる。盃を持ったままの手の甲を膝の上に乗せて、斎藤はさざ波立つ透明な酒を見下ろしていた。老人は土方の祖父に話を聞いたと言うが、斎藤は師匠のハジメから聞いている。
たった七年にも満たない短い年月の間の、あまりにも激しいその在り方。穏やかだった時期など無いに等しく、振り返ってみれば、あっという間に消えてしまったようなもの。そんな時の流れの中、彼らが何をどんなふうに思い、生きていたか、斎藤はその内側から知っているのだ。少なくとも、土方トシゾウと、斎藤ハジメのことは。
「新選組。…嫌いじゃ、ないですよ」
言葉に自然と力が籠る。一瞬だが、酒が零れるほど手が震えた。酒に酔って、ほんのちょっと話に出す。そんなことすら躊躇わねばならないような理由なんて、本当は無い筈なのに。
その時、宿の女将が部屋に入ってきた。袂で包むようにして、大きな酒徳利を抱えている。
「もう全部飲んじまう頃かと思ってさ。兄さんは嫌いな訳ないよねぇ。嫌いだったらあの人のこと、土方さん、なんて呼ばないものね」
にっこり笑って女将は言って、亭主の隣に腰を下ろした。女房の言葉を聞いた老人も、そういやそうだったと嬉しそうに膝を打っている。
「何を話してたんだい? やっぱりトシさんのこと? あたしも話したくて、混ざりに来たんだよ」
ふふ、と楽しげに笑う彼女の顔を見て、斎藤は嬉しくなった。宿の元店主の老人に、速飛脚の若者、まだ小さいおみよも、そしてこの女将も、土方のことが大好きなんだと分かる。そして重ねて催促しなくても、話してくれるという。
「何から話そうかねぇ。トシさん自身のことは聞いてるだろうし、おみっちゃんの話は? もう聞いたかい?」
女将さんが、まずは一口酒をあおってそう聞いた。
「まだなんも話してねぇよ、イイ感じに酒が回って、これからってとこだったんだ」
あれもこれも自分が話したかったんだと、老人は口を尖らせている。
「おみっちゃん、っていうのは?」
「お道。おみよの母親だよ。表で茶屋の客引きしてるの、見たろ?」
「あぁ、土方さんと話してたあの子の」
「そうそう。おみっちゃん、悪い男にひっかかっちまってねぇ」
女将は自分の盃に、自分で酒を注いでまた呷る。思い出しているのだろうその目の中に、小さな怒りが揺れて見えた。
「おみよを身ごもった時、旦那になる筈のそいつに告げたら、急に冷たくされて、あんまりだって泣いて縋りついたんだよ。…そしたら『うるせぇっ』って怒鳴られて、突き飛ばされそうになってさ。あたしも見てたし他の客もいて、びっくりして止めに入る寸前に」
茶屋の一番隅に居た土方が、立ち上がりもせずにその男を黙らせたのだという。
「湯飲みをこう、たんっ、と置いて、目線ひとつ、さね」
女将は、ほう…っ、と息をつく。
「美男ってぇのは、ちょっと凄んだだけで迫力があるもんだ。それっきりそいつは此処に顔出さない。追っ払って悪かったかい、ってトシさん聞いたけど、お道だってほっとしたように首を横に振ってたよ。それからお道はトシにほの字さ。無理もないさね、イイ男だもの。あたしだって、もうちょっと若かったら」
「お、おいおいっ」
「冗談だってば、あんた、そんな顔おしでないよぉ。あとねぇ、それからねぇ」
女将の話は尽きない。途切れたと思ったら今度は元店主が、つまみを齧りながら話し出す。
「そこの木刀が、トシのもんだって話は言ってなかったよな」
老人が指差す方を見れば、部屋の隅に一本の木刀が立てかけられてある。
「あれが?」
「そうだよ、ありゃあトシがまだ七、八歳のころだっけか。盗み目当てのごろつきが、客の振りして此処に泊まっていてよぉ」
「あぁ、あんときゃほんとに助かったよねぇ、この子はただもんじゃないって、みんなして思ったもんさぁ」
それから、何刻話を聞いていたろうか、いよいよ酒も尽き、酔いつぶれる寸前の旦那を引きずるようにして、女将が部屋を出て行く時、斎藤はいつの間にか傍らに引き寄せていた刀を握って、笑みながらこう言った。
「…もしかしたら少し、表が騒がしくなるかもしれないですが、朝まで部屋から出ないでくれますか。女衆には特にそう言って下さい」
聞くなり、それまでふら付いていた体をしゃんとして、女将は深く頷いた。旦那の顔をぴしゃぴしゃ叩いて起こし、言われたことを耳打ちすると、斎藤へと目で頷いて、店の者たちにも言いに行くようだった。
一人になった斎藤は、刀を腰に差し、それからさっき話を聞いた木刀を手に取ると、音もなく廊下へ出て庭へと足を下ろす。此処に草鞋があるのは幸いだった。店の前の一本道へと出て、不穏な気配を感じる方に向き、影の中へ屈んで息を殺す。
生い茂る木々の向こうから、いくつかの黒い形が現れるのは、すぐあとのことだった。
「なんだ、おめぇはっ」
ぴかりと光る小さな刃物がひとつ、あとのものは粗末な木刀。人数はたったの三人と見て取ると、斎藤はゆっくりと立ち上がった。
「こっちはただの客だ。あんたらは客ですらないようだが?」
「うるせぇっ、命が惜しかったらすっこんでなっ、若造ッ」
いかにも悪党が言いそうな言葉が飛んできて、斎藤は笑う。出てくるなと女将たちに言う必要もなかったかもしれない。かたはすぐにつくだろう。そう思う彼の思考の奥で、少し遠くなっていた師の言葉が聞こえた。
驕るな、ひと。
驕れば強さは身から削がれる。
もっと強くなりたいんだろう?
「…なりたいですよ、勿論。…土方さん、あんたの木刀、ちょっと借ります」
斎藤は身を低くしたまま、まずは右奥の男の得物を叩き落した。痺れた腕を押さえたそいつを見たまま、深く引いた木刀の柄で、後ろから襲おうとしている別の男の腹を抉った。気を殺しても居ない悪漢のことなど、振り向いて見なくとも居場所が分かる。
呻いて無防備になった二人目の得物も、あっさり落として遠くへ蹴飛ばすと、残る相手はもうたった一人だ。
「あんたが頭かい?」
「…くそぉっ」
問いには答えず、男は匕首を振り回す。数歩下がって、斎藤は手の中にあった木刀を手から離した。木刀だと勝てないと思ったわけではかった。土方の大事なそれに、万が一でも刃物の傷を残したくなかったからだった。
腰から鞘ごと抜いたままの自分の刀。中は木刀だと言っていたそれは、そうとは思えない重さと鋭さで、相手の首筋へと吸い込まれたのだった。
あとはただ、半月に近い遠い月が、しんと彼を見下ろしていた。
「えいっ、えいっ」
「えいっ、えいっ」
「やあっ、とうっ」
「こう、こうかいっ、先生っ」
次の日の昼過ぎ、土方が宿に戻ると、なにやら店の前がそんなふうに騒がしかった。遠くから見ても分かったが、宿と茶屋の男たちが、みんなして竹刀やらを振り回している。
「何やってんだ? お前ら」
近付いて行って聞いた土方だったが、誰かがそれに答える前に、彼らの奥に座っていた斎藤が、勢い良く立ち上がって彼を呼んだのだ。
「土方さんっ」
「…先生ってのはおめぇのことか? おめぇあれほど足を使うなと言ったのに、何でこいつらに稽古なんか付けてんだ?」
「実は夕べ」
言い掛けた斎藤を遮って、女将が言葉で割って入った。
「夕べ夜盗が来たんだ。それを兄さんがひとりで伸してくれてねぇ。そんでもって色々物騒だから、男衆みんなに、ちょっとだけ教えてもらうことにしたんだよ」
足を庇わず捕り物などして、怒ってしまったろうかと斎藤は土方を気にかけている。
「その…。財布も持ってこなかったので、宿賃の代わりにと」
「夜盗って、あいつらか…」
昼に見掛けたやつらがやはり、と土方は思い、それを放って里へ戻ったことを、今更のように少し悔いた。悔いながら、ちりり、と小さな悔しさが頭の隅に生まれる。ごろつきは三人だった。きっと斎藤はひとりでそれに対峙し、誰の助けも必要としなかったのだろう。
「土方さん」
「足は痛まねぇのか。そんならいいけどな。もし痛ぇってんなら、おめえのことなんか放って俺だけ先に行くぜ?」
「そんな、意地悪を言わないで下さい。歩けます、俺」
途端に心細いような顔をする斎藤に、女将はさっそく吹き出しそうになっている。
「そんな怒った目ぇしないどくれな、トシさんっ、そろそろ寄るだろうと思って弁当を作っておいたんだよ、ほらっ、二人分」
「トシじゃぁ…。まぁ、いいや。いつも悪いな、女将さん。あぁ、男衆らの稽古はいいけど、年寄りはやめとけよ、爺さん。今にも腰をやっちまいそうじゃねえか。ほら、腰痛の膏薬」
放るようにそれを渡すと、土方は休みもせずにまた歩き出そうとしている。既に旅支度を終えていた斎藤は、女将さんから弁当を受け取り、皆に会釈をすると、土方の横に並んで一緒に歩く。
「足はもう大丈夫です」
「見りゃわかる」
「これ、土方さんのものだと聞きました」
斎藤が背中に負った木刀を、土方はちらと見て、はぁっ、と憂鬱そうに溜息をつく。
「気ぃ許した途端、みんな口が軽いからな。…何を聞いた?」
「…ええと、いろいろ」
一言で答えられる量ではない。何しろ、夜盗退治の後、朝まで寝た時間以外、ずっと話を聞いていた。土方のこと、その祖父のこと、祖父が話したという、新選組の逸話まで。
「それ、寄越しな」
「え?」
「俺の木刀だ、俺が持つ。稽古に使うだろうから、持ってくつもりだったんだ。これについてはどんな話を聞いたんだ? ガキの頃の俺が、わがまま言って、欲しい欲しいってねだった話かい?」
「いえ」
ねだった、のは聞いた。だがそれは話の終わりのところだ。それは、まだ八歳かこそらだった土方が、客の中に泥棒が混じっているのに気付いて、金庫の場所を変え男衆みんなで一晩それを守った話だった。
宿の主人がお礼に何か欲しいものを、と言った時、土方はこの木刀を欲しがったのだという、祖父が彼に与えた軽くて短い竹刀なんかじゃ、強くなれないから、と。
ひと目で泥棒を見抜いて、すべきことを気付いたまだ幼い土方のことを、斎藤が素直に、凄い、と言うと、彼は本気で煩そうに視線を逸らし、手にした木刀を片手で振った。
「今じゃ重いとは思わねぇけどな、あんときゃまだガキだったのに、ろくに振れもしねえこいつを貰って、どうするつもりだったんだかな。強ぇ得物を持ちゃあ、すぐ強くなれるとでも思ってたのか」
土方はそのあとも結局、地味な稽古に何度も飽いて、剣術を諦めてしまった。体が育ったら渡すからと、預かってくれていた木刀は、だからずっと宿にあって、土方の目の届くところにいつもあったと言うのに。
「土方さん、やってくれるんですよね? 剣術」
念押すように斎藤は言い、土方はよく見なければ分からないぐらいほんの少し、顎を引いた。
「嬉しいです。嬉しい」
笑って言った斎藤の顔を見て、土方はひと言。
「餌ぁ貰った犬みてぇだな」
と、あんまりなことを言うのだった。
続

