十
夜が明け切らぬ頃、何やら家の何処かで音がして、その物音が斎藤を目覚めさせた。彼は起き上がり、音のする方へと耳を澄ませる。どうやら音は台所から聞こえてくるようだった。
まさか泥棒か、と一瞬思うも、どうにもそんな感じがしない。炊事をしているような音なのだ。道場の生徒の家から、ちょくちょく台所仕事をしに来てくれる女衆が居るには居るが、今日はその日ではなかった筈だ。斎藤は一応、刀掛けから刀を持って、気配を殺しそこへと向かった。近付いていくと、ついつい漏れたような声が聞こえたのである。
「あっつっ」
「何してるんですか? 土方さんっ」
竈へ向かって体を屈めて、火吹竹でもって風を拭き入れているのは、尻っ端折りをした土方であった。
「あ? 見りゃ分かんだろ。飯ぃ炊くんだよ」
「そっ、そんなの俺が」
「お前ぇは怪我人だろうが。それに、ただ飯喰らいなんだから、手伝いぐらいさせろ」
言うだけ言って、また竈へと向き直り、土方は頬を膨らませて火力を強めている。
「俺がやりますってっ」
「ならそこに大根の葉っぱ出してあるから、お前ぇは味噌汁だ。あと、芋が萎びてきてっから、夜は煮っころがしにするか。あ、菜っ葉は多くても全部茹でとけ。それも夜喰おう」
土方は竈の前に陣取って火を見ながら、当たり前のようにそんなことを言っている。どうやら晩飯まで作る気でいるらしかった。斎藤はもう仕方なく、さっと顔を洗ってくると、土方の隣で小鍋に味噌汁を作り始める。
「…お前ぇ、いつからひとりで住んでんだ?」
夕餉にするしわしわの芋を、今から幾つか選びながら土方は聞いた。
「四年、にはまだならないです」
「ふーん。その前は」
「師匠と一緒に、この道場に住んでました」
「もっと前は?」
なんでそんなに聞くんだろう、と斎藤は思っていたが、話すのは別に嫌ではない。土方が自分に興味を持ってくれるのは、素直に嬉しかった。
「五才、くらいから山向こうの町道場で、やっぱり師匠に剣術を習ってたんです。家は少し離れてましたけど、歩いて通って。とにかく師匠に習いたかったので」
「…師匠、ってのは、今は?」
そう問われた時、初めてひとは躊躇った。何の複雑なこともない。言ってはならないことでもないけれど、相手が土方だから。
「……土方さん」
「んん?」
「宿で、言いましたけど、話、聞いては貰えないですか? 俺が今まであんたに、言わないで来たこと。その…師匠のこととか」
彼がそう言うと、土方は飯釜の蓋に添えていた手で、がば、と蓋を開けた。いつの間にか、もう飯が炊けていたらしい。白い湯気がもうもうと上がって、すぐ隣に居る互いの顔が見えなくなる。
「熱いうちに食べねぇと。飯を粗末にゃ出来ねぇ」
「…そうですね、食べましょう」
斎藤は二人分の茶碗と汁椀を出してきて、飯と汁がそれぞれへ盛り付けられる。菜は漬物だけだ。あまり食べると、朝一番からの鍛錬に差し障る。朝飯が済んだ頃、道場に生徒がぽつぽつと現れ始めた。
昨日とその前、急に休みにしたことを、足指に巻いた包帯を見せながら皆に説明し、今日は前に座ったままで指導する旨を、斎藤は短い言葉で詫びていた。
「それから、今日からこの、サイゾウさんが鍛錬に加わります。ええと…その、ずっと余所で習っていた人で、彼だけみんなとは違う指導になるので」
「同じでいい」
「え」
素振りだの、基本の基本みたいなことは、彼は嫌だろうと思い、迷っていた斎藤の言葉を土方は遮った。
「同じで構わない。基本からで。素振りもやる」
「でも」
「今日から、よろしくお願いします、斎藤先生。みんなも」
身なりなんかは自分たちとそれほど違わないのに、仕草や見目がえらく違って見える土方を、それまで生徒たちは怪訝そうに見ていたのだ。けれどもその挨拶を聞いて、皆はほっとしたように気を緩める。
「分かりました。でも、サイゾウさん。打ち合いは俺の足が治るまで、待っていて下さい」
生徒たちの誰かと彼では、実力に差があり過ぎるからである。その日、土方は嫌がることなく、皆と一緒にひたすら地味な素振りや、基本の基本でしかない型をやった。ただの素振りと型も、一刻も続けていたら汗をかく。
土方の額にふき出した汗が、少し長めの前髪を伝い、胴着の襟を濡らす様は、男にしては随分色っぽい。白い肌が際立って見える。うっかりそれへ見惚れて、竹刀が手からすっぽ抜けたり、素振りの竹刀ですぐ前に居る別の生徒の頭を、打ってしまったりするものがいて、素振りは度々中断された。
「そこっ、よそ見しない!」
などと、寺子屋の先生が子供に言うような言葉が、斎藤の口から再三飛び出す始末であった。
「今日は此処まで」
皆は師範の彼の言葉で、ぐったりと床に尻をついた。斎藤は道場隅の水桶の柄杓を手に取っていたが、同時に動いた土方が、さっき額を叩かれたものの傍へと行って、床に膝を付き打身の様子を見ている姿が視野の端に入っていた。だから斎藤は、わざわざ竹筒に水を汲んで彼へと持って行く。
「どうぞ、サイゾウさん」
「あぁ」
「又六さん。頭、少し冷やしますか?」
「先生、いんやぁこれくらい」
白い指で又六の頭に触れていた土方が、自分の葛籠の中味を思い出しながら言った。
「腫れが引かないようだったら、膏薬を出すから言ってくれ」
「へぇ?」
「薬屋なんだ。薬屋が剣術を習ってたらおかしいか」
すると周りで皆が笑う。
「みんな百姓、よくて商人だぁ。強くなりてぇのに、そんなん関係ねぇさぁ。俺らだって、守りてぇもんはあるんだもんな。てぇか、あんたぁ随分美男だねぇ。よそ見しねぇのが難しいや」
少し休んだ後、皆はそれぞれに与太話などしながら帰っていく。これから田畑の世話をするものが大半だ。生徒の一人が持ってきた差し入れで、斎藤と土方は小腹を満たす。
「詰まらなくなかったですか…?」
縁側に並んで座って、斎藤が心配そうに聞くと、土方は額や頬にまとわりつく、まだ湿っている髪を払いながら、ちょっとばかり視線を横に逃がした。
「まぁ、あんまし、面白くはなかったかな」
聞いた斎藤はおろおろとして、明日は何か別な、もっとやりがいのあるものを考えるから、と言った。土方はそれを聞いて、少し困ったように笑うのだ。何もしていない右手が、右膝の上と両膝の間とを行ったり来たりしている。
「道場で、皆と居る時はあれでいい。足が治ったら、またこの間みたいなのを教えてくれるんだろう? 少しずつで構わねぇからさ。それを褒美と思って、地味な鍛錬だってやれるだけやるさ」
だって、お前ぇはそうやって、
そんなに強くなったんだろう。
言わない言葉を喉奥に飲んで、また土方は視線を逃がしている。斎藤はと言えば、土方の言葉に胸が詰まるようで、声が中々出てこない。ようやっと何か言ったと思ったら、昨日宿からこっちへ向かっている途中に言ったのと、そっくりそのままの言葉だけだった。
「嬉しいです」
本当に嬉しい。だからこれ以上を望むのは贅沢なのかもしれない。彼と、自分と、もっと近付きたいと思う気持ちは、表に出さずに秘めておくべきなのか。もう教えたいことを、土方は聞いてくれない。
「…夕餉の芋の煮っころがしは、俺に任せて下さい。美味いのを作りますよ。師匠にもよく褒めてもらったんだ」
何の気なしに斎藤が言うと、土方は急に立ち上がって彼に背中を向けたのだ。
「ったく。師匠、師匠だな、お前ぇは。もう居ねぇのによ」
言ってしまってから、失言したと気付いたらしい。焦ったように振り向いて、土方は酷く真顔の斎藤と目が合ってしまうのだ。
「……居ないですよ。えぇ、この世の何処にも、師匠は居ないです」
妙な言い方をする斎藤に、今度は土方が狼狽する番だった。死んだのだろうと、何処かで察していたというのに、言わなくともいいことを言った。けれども土方が何かを言う前に、斎藤がぽつんと呟いた。随分小さな声で、丁度吹いてきた風の音にも負けてしまうような。
「だから師匠は、もう、あんたに会えない」
「俺、に…?」
不自然なくらい強く、土方を凝視していた斎藤の目が、ふい、と軽く逸らされる。その時、彼の中には様々な感情が揺れ動いていた。
師匠は。
ハジメさんは、この人に会えない。
俺は、会えた。
そして、こうして傍に居られる。
これからだって、傍に。
「斎藤?」
「何でもないです。あぁ、そうだ。繕いを頼んでた着物を、取りに行かなきゃならないんだった。すみませんが、留守を頼みます。誰か来たら、夕までには戻るとでも言っておいて下さい」
身支度もそこそこに斎藤は外へ出て、少し遠くにある大通りへと歩いて行く。用があるのは嘘ではない。だが、ついさっき、ほんの一瞬でぐちゃぐちゃになった頭の中は、そう簡単には晴れなかった。悲しいような、切ないような、それでいてほっとしたような。同時に斎藤は、ほっとしてしまった自分を、酷いと思っている。
ハジメさん。
教えてくれた土方トシゾウは、
ハジメさんのものだったんでしょうけど。
じゃあ?
今、俺と一緒に居てくれるあの人は?
俺のものに、していいんですか?
気付いたら、彼は橋の袂に立っていた。彼がほんの数日前に、土方と出会った場所だった。
ひと。
お前も、会ったら分かる。
いつだかそう言ったハジメの言葉を、斎藤は思い出す。立ち止まった彼の視野を邪魔するように、柳の枝が揺れていた。
続

