一瞬呆けた斎藤は、手当の道具を持ってくると言って駆け出していった。残された土方は道場の真ん中でまた仰向けになって、話に聞いた祖父の姿を思っている。祖父はこの話を彼にする時、決まって涙ぐんでよれよれの声になった。それを思い出す、たった今耳元で聞くように。



 おらぁよ、
 声が枯れるまで泣き喚いたさぁ。

 ギャクゾクだかトガビトだか、
 冗談じゃねぇ。

 兄貴がどんなに立派なサムライで、
 曲がったことが大っ嫌いで、
 強くって優しくってすげぇかってこと、
 ひでぇこと言うやつら全員に、
 でっけぇ声で言ってやりたかった…。
 
 多摩郡石田村。サイゾウの故郷で親の太一の故郷で、祖父の太吉の故郷だ。石田村だけじゃなくてその周りの里だって、竹を通したように真っ直ぐな土方歳三を知っていて、逆賊などと言うのが濡れ衣だと分かっていた。

 でも、庇えばお咎めに遭う。里まるごとでお上に逆らうのかって、きっと言われてはずれものになる。悔しくて悔しくて憤ろしくて、震えがくるほど苦しかったけれど、口を閉ざしてそんなものなど知らないと言った。姓も隠して、別の名を名乗ったりまでもしていたのだ。

 だが、そんな中、太吉だけは違っていた。京へと経つ前の歳三に、直接薬売りを教わり受け継いでいた太吉は、皆が姓を隠し縁を伏せて、何も知らないと首を振っているその時に、逆に土方の名を名乗りたいと言ったのだ。

 無論里の者たちは皆止めた。そんなことをしていたら咎められる、下手をすれば投獄だってされる。 それでも名乗ると言い張る太吉は、歳三の生家に呼ばれ、奥の間へ通されて言われたのだという。

 太吉よ、そんなに想ってくれるなら、
 この姓はあんたに分けてやる。
 でも、けして外の人間には聞かせるな。
 一番危ねぇ今だけでいいから、この名は綿に包んで、
 立派な箱に入れて、守るつもりでいておくれ。
 そら、この箱だよ。見覚えがあるだろう?

 そう言って、奥の奥から薬の行商道具一式を取り出して、古びたそれを太吉に貸し与えた。歳三がずっと行商に使っていたものだった。
 


 逆賊、新選組。
 咎人、土方歳三。
 
 サイゾウが口の中でその言葉を転がすと、臓腑がじわりと捻じれるような心地がする。会ったことなどない。こんなのは祖父や父親からのただの洗脳だ。だけれどきっと、本当に「違う」のだろうと、彼とてずっと信じている。でなければあんなに、郷里や近隣のすべてから、慕われ続けるわけがない。

 誇れ、って? 
 あぁ、きっと言われなくたって俺は、
 この名に誇りを持っている。

 だからこそ、ただの薬屋で、剣と遠すぎる場所にいる自分に腹が立つ。なら身を入れて習えと周りに言われた。すぐに飽きるな、投げ出すな。一番何度もそれを言った祖父はけれど、時々変に嬉しそうにして、言ったものだった。

 でもなぁ、嘘っこみてぇに、
 そんなとこもそっくりだ。
 おめぇは歳の兄貴にそんな似てて、
 やっぱり生まれ変わりに違いねぇ。
 こんな嬉しいことはねぇよ。

「はは…。生まれ変わり…? 年寄りの夢物語にみんなして乗っかって、おかしな家さ」

 ごとん…ッ!!

 大きな音がして、道場の床が振動するほどで、土方はびっくりして飛び起きた。途端に突かれた胸が痛んで呻いたが、その声に重なるようにして、斎藤も蹲って呻いていた。

 床に転がっているのは酒の徳利。落としたが幸いにして割れてはいない。けれどもそれを足の上に落とした斎藤はただでは済まず、両手で己の左の足を押さえている。

「い…っ、つ…」
「馬鹿何やってんだよっ。…こりゃ酒か?」

 手当の道具を持ってくるんじゃなかったのかと、訝る土方の目に映った、ひとつふたつの薬包紙。

「…石田散薬か? それ。ふ…丁度二つあるじゃねぇか。俺のとお前ぇのと。用意がいいヤツだな」

 斎藤の傍まで行って、徳利に手を伸べると、ちゃんと燗まで付けてある。くっくっ、と土方は笑いながら、言い慣れた口上を諳んじた。

「さて、これなるは石田散薬。これを一日一包み、燗酒と一緒にぐいっと飲みゃあ、打ち身に切り傷、くじきに至るも、たちどころにぴたっと治る、ってね。…て。なんだ? 随分古いな、いつから持ってんだ?」

 薄茶色く色を変えた薬包紙を不思議そうに、土方は矯めつ眇めつ。

「でもこりゃ、俺の折り方に見えるが…」
「…貸して下さいっ。あんたも、飲んで」

 言い終えるなり斎藤は、一包分の散薬を口に含み、徳利から直接酒を飲んだ。己の口を付けた徳利を今度は土方に押し付け、見ている前で土方が飲むと、一瞬見てすぐに視線を外した。

「これで、痛みも引く」
「そうだろうが。血が出てるぜ? 足の指」

 左足の親指、爪の端の方が割れていて、それゆえ血まで滲んでいる。斉藤はそれを見て、手拭いに歯を立てて裂くと、それを指に巻いて血止めをし、あっという間に患部を覆ってしまった。

「慣れたもんだ」
「…小さい頃から、随分荒い稽古を付けられてた。手当の方法もその時に。でもこれじゃあもう、今日の稽古は無理だな。昼からの人たちに、休みになるって言付けてきます」

 台所のあるらしき方向から、びっくりしたような女の声がした。朝餉の片付けに着てくれた隣家のもの、とやらだろう。やがて、誰の声もしなくなり、歩き難そうにした斎藤が戻ってくる。

「聞いていいですか」

 立ったままの斎藤に、隣へ座れと言う代わりに、土方は床をとんとんと叩いてやる。斎藤はどかりと土方の傍に座り、さっきの徳利を引き寄せて、ぐい、と煽った。そして言ったのだ。

「土方という名前のこと、郷里の英雄の名だとあんたは言った。その名を、なんであんたが名乗っているか、聞きたい」

 問われた土方はじろりと斎藤を見据え、口元に微かな笑いを乗せて言い返した。

「俺からの問いには答えずにいて、それは都合がいいんじゃねぇか?」

 ぐ、と斎藤は言葉に詰まる。けれど一瞬後にこう言った。

「なら、お互いに名前の話をする。というのでは」
「喰えねぇヤツだな。…俺ぁの話は、長いぜ? 道場じゃなくてどっかに場所移して」
「ここがいい」

 斎藤はちら、と神棚の方を見てそう言い放つ。土方は訳のわからないままため息ついて、それでもゆっくりと話し始めたのである。前置かれた通り、土方の話は長かった。

 郷里は多摩郡石田村、父も祖父も石田散薬の行商人。祖父の太吉は、かの土方歳三に直接売り方を習っていて、ずっと小さい子供の頃から、歳三を慕いくっついてまわっていたと聞く。片方の目にはデカい傷があり見えない。太吉をそんな目に遭わせたならず者達を、当時、歳三がこてんぱんに伸して仇を打ったそうだ。

 土方歳三はやがて京に上り、石田村には滅多に戻らなくなったが、北の地で命を落とす前に、一度戻った。その時に、歳三の親族と歳三が話しているのを、太吉は聞いてしまったというのだ。

 新選組は今や逆賊と呼ばれている。
 俺ぁも今じゃ咎人なんだそうだぜ。
 訳が分からねぇ世の中だが、
 筋の通らぬことに従うのは嫌だ。
 先に死んだ奴らが怒る。
 
 聞いた太吉は、食らい付くようにして歳三に懇願した。連れていってくれ。剣術も習ってる、足手まといにゃならねぇ。腕を試してくれ。そんでちょっとでも役に立つってわかったら、何処までも一緒に行かしてくれ。

 結局祖父は置いていかれて、皆が新選組との繋がりを隠してこっそり暮らす中、歳三に教えられた通りの方法で、一人で石田散薬を作り売り歩いた。その気持ちを汲んで、土方歳三の生まれた家が、その名を分けてくれると言った。ただ、名乗って大丈夫になる時代までは秘めていて欲しい、と。

 そんな祖父の太吉は、子が出来ても孫が出来ても、頭のおかしいぐらいに歳三贔屓。サイゾウが生まれた時、赤子の顔見た途端、憧れたひとに似て見えるだのなんだの大騒ぎ。英雄の名を貰おうってんで、父まで喜んでとうとう同じ名を付けた。読みだけでも変えさせたのは、祖母だそうだ。

 なぁ、中々面白い話だろう。

 土方はそこまで話して、仰向けになって、ふ、と目を閉じた。今朝見ていた夢を思い出すためだった。見ている間ずっと自分は歳三だった。弟分の太吉の想いを分かっていながら、突っぱねて打ちのめして置き去りにしたが、心では太吉の言葉を喜んで、だから余計に苦しんで。

「生まれ変わり」

 ぽつん、と言ったのは斎藤だった。いつしか彼はきちんと正座して、真っ直ぐに土方のことを見ていた。

「馬鹿おめぇ、足に悪ぃ…っ」

 身を起こし気遣う土方に、斎藤の激しい声がぶつかってきた。
 
「平気です! 平気だから言って下さい。さっき言ってたのは、土方トシゾウの、ってことですか?」
「な訳がねぇだろうっ?! 俺のじいさんのっ、年寄りの戯言だ!」
「もし、戯れ事ではなくて本当だったら…?」

 言い放つ土方の頬に、そうっと、斎藤が触れた。そしてやっと聞こえるか聞こえないかの声で呟く。

「…俺は自分でそう思った。もし生まれ変わりなら、いろんなことが全部…」
「おめぇ、何」

 だが、土方がそう言った時には、斎藤の手は離れていた。

「何でもない。じゃあ、今度は俺の名前についてを。簡単です。此処の道場主だった人の古い名を借りて、少しもじってつけただけ。そしてそれが気に入っていて、本当の名のように、思っているだけのこと」

 斎藤は、にこりと笑った。

「だから、貴方に『斎藤』と呼ばれるのが嬉しいんです、土方さん。貴方もそうなら、いいんですけど」














時差邂逅