小皿の上には沢庵が一枚。土方の前には、その小皿が二枚ある。ひとつは斎藤の沢庵だ。

「いいのか」
「えぇ。よかったら」
「俺ぁはここの沢庵が好きなんだ」

 また、ぼり、と音を立てて土方が沢庵を齧る。茶碗の中にはまだひとくち分の飯があって、すべて食べ終えたら、彼は斎藤に詫びるという。

「土方さん」
「んあ?」

 咀嚼しながらの返事に、斎藤は真摯な言葉を返す。

「お詫びは、いいです。なんのお詫びか分からないですが、俺の方がいろいろと身勝手だった。強引に引き止めたり、無理に剣術を教えようとしたり。こんなところまで、追い掛けて、きたり」

 土方は飯を噛んで飲み下し、そして最後の沢庵へと箸を伸ばした。此処は山と山との境の小さな宿屋だ。他にはあまり客がいないのか、静かだった。残り一枚の沢庵が土方の口の中に消え、咀嚼する音もやがては途切れる。

「詫びると言ったら、詫びる」

 膳の上に箸をきちりと揃えた土方が、首だけを横へと向け、斎藤を見て言った。

「俺は、お前の居ない隙に、神棚の上のものを勝手に見ようとした。結局見なかったけどな。お前、俺を信用してくれてたんだろう。…悪かった」

 頭こそ下げなかったが、土方は芯から詫びていた。言い終えると、叱責を待つように軽く瞼を伏せ気味にする。引き結んだ唇を、頬に触れている髪を、斎藤は見つめていた。じっと見つめて、それから箸を持ったままの手を膝の上に下ろし、彼は短く息をついた。

「あんたが、何処かに行ってしまったと気付いた時、正直、見たのかもしれないと思いました。もしかしたら、と。でも、俺のせいだと思った。あんたが知りたいと思っていることを隠して、話すまでは居て貰えるんじゃないかって、どこかで思ってたんだ」

 自分ももう、食べ終えていることを今更気付いて、斎藤は膳の上にそっと箸を置き、畳に両の拳をついて、体の向きを変えた。真っ直ぐ、体ごと土方の方を向いたのである。

「だから。話します、土方さん。待って貰っていたこと、全部」

 土方は聞きたがっていたのだから、喜んでもらえるだろうと斎藤は思っていた。けれど土方の反応は、彼の想像と真逆だった。

「…いらねぇ」
「な、何故です?」
「少なくとも、今はいらねぇ。居心地がよくねぇよ」

 何処か怒ったように土方は言ったが、もしも本当に怒っているのなら、それはきっと自分自身にだ。信頼してくれている相手を裏切った。見ていないからいいだろうと、ずるいことしようとした。大袈裟なぐらい、彼は恥じているのだ。何もしていないふりをして、平気で傍にはいられないと思うぐらいに。

 土方は素早く立ち上がって、傍らに置かれた薬箱を左肩で背負うと、廊下へと出て大きな声で呼ばわる。

「ねぇさん、馳走になったっ。ありがとうよ。世話かけたついでに頼みがあるんだ」

 すぐにやってきた女将は、屈んで器用に膳を重ねながら、小首をかしげて土方を見た。

「頼みって?」
「俺はもう行くが、こいつは此処に残るから、一泊か二泊世話を頼みたい。怪我してんのに無理して来たんで、すぐ帰るのは無理だ。少なくとも一日は静かにしてねぇと傷が膿んじまうから」
「土方さんっ」

 置いて行かないでくれ、と斎藤は言おうとした。土方が黙って帰ろうとしている理由も聞いていない。けれども強い目で見据えられて、言葉が止まってしまう。辛うじて言えたのは、子供の我儘のような言葉だけだった。

「…お、俺が嫌になったんですか…?」
「何、言ってんだ。なんでそんな」
「だって…ッ」

 中味の在るような無いようなやりとりを聞いて、女将が堪え切れずにくすくすと笑い出す。袖を口元にあてて、少々濃い化粧をした顔を隠すと、無理でも笑い終えて彼女は言うのだ。

「いちんちでもふつかでも、トシさんがとんぼ返りしてくるまでうちに居たらいいよ、今、空いてるから構いやしないし、この人鬼足だから、そんな待たせやしないって。ねぇ、トシさん」
「トシじゃねえ」
「あら、また間違えた」

 そうしてまたくすくすと笑いながら、ふたつ重ねの膳を軽々持って、女将は台所へと戻っていく。残された土方は、部屋に背中を向けて廊下に居たが、薬箱を背負うその背に、斎藤は必死の声で聞いてくる。

「とんぼ帰り、してきてくれるんですかっ? 土方さん!」
「……手紙に書いただろうが。"また、来る"」

 くるり、と土方が斎藤の方へ体を向ける。それでも顔は他所へ向けたまま、土方はぶつぶつと、まるで文句を言うような口調で言った。

「おめぇ、俺に剣術教えてくれるんだろう。でも、俺ぁは薬売りもしてぇから、道具一式持って来ようと思ってんだよ。丸一日あれば余裕で行って戻ってくる」
「……わ、わかり、ました」

 あまりのことに、斎藤は感情が追いつかない。これこそ望んでいたことだし、何より嬉しい筈なのに、腑抜けたように返すしか出来なかった。

「とにかく、安静にしとけよ」

 膝立ちになり、ぼうっとしている斎藤を、ちらりと見やると今度こそ土方は行ってしまおうとする。あとほんの少しでも引き止めたくて、斎藤は頭の中からとにかく何か言葉を引っ張り出した。 

「あっ、あのっ」
「…なんだよ、まだ何か」
「その。…あ、神棚の上のもの、結局見なかったのは、どうして」

 そう聞いた途端に、背中を向けている土方の肩の線が、急に尖ったように思えた。

「…ったからだよ……」
「え」

 あまりに声が小さくて聞き取れない。聞き返すと、怒鳴られた。

「手が届かなかったからだ! 踏み台に乗って背伸びしてもっ。俺ぁはお前ぇより、随分背が小せぇからっ」

 それきり、どす、どす、と廊下を踏み鳴らし、土方は行ってしまった。表の方から女将さんの、トシさんってばうちの廊下踏み抜かないどくれよぉ、という、朗らかな声が聞こえていた。
  
「あぁ、そうか。背…。でも…。え…」

 ひとりになってなお、斎藤はぼんやりしていた。
 
 剣術を、
 習ってくれるって?
 そしたら俺の道場で…。
 あの人は俺と、
 一緒に居てくれるんだ。
 これから先も。
 
 あんまりぼんやりしているから、廊下から誰かが覗いていることに、しばらく気付かなかった。やっと気付いた時には、人数が三人にまで増えている。さっき裏で土方と話をしていた元店主の老人とおみよ、そしてもう一人、速飛脚のかっこうをした若者だった。音がしそうなほどばっちりと目が合って、その若者は斎藤に聞いてきた。

「あっ、あー。トシさんから頼まれたから、家がどの辺か教えてくださいっ。こういうわけで留守にするんだって、あんたが伝えたい人に俺が言いに行きますっ」

 にこにこと笑う朗らかな男だった。元々四つん這いで覗いていたのを、這うようにして勝手に部屋に入ってくる。ならばとばかりに、元店主やおみよも入ってきて、斎藤の両側や向かいに陣を取った。

「トシさんとはトモダチなんですかっ?」
「い、いえ、その、俺は道場を、やっているので」
「おっ、そんならトシの薬の納め先ってことかいっ?」
「ええ、まぁ、そのような」
「どうしてわざわざここまでっ?」
「それは…」

 そもそもが口下手な斎藤のこと、押されるようにしてしどろもどろに応えていたら、興味津々な顔をして、おみよがこう言ったのだ。

「おにいさんも、トシのこと好きなの?」
「ぐ…ッ!」

 何か飲み食いしているわけでもないのに、斎藤は咽そうになった。

「あたしもトシ好きだよ、ほめてくれるし、おみやげくれるし、やさしいもん」
「おみよちゃん、抜け駆けだ、俺もトシさん大好きですよ」
「あたしの方がもっと好きだもんっ」
「なぁにやりあってるんだ二人とも。まぁ、俺も好きだし、ここにゃトシを好きじゃないヤツなんか、きっといねぇからなぁ」




 夜、である。土方がとっくのとうに石田村についている頃、庭の井戸の方を向いて、斎藤は宿の廊下に腰を下ろしていた。其処は確かに廊下だが、あんまり幅がなくて部屋からすぐだから、縁側のように思えて庭を眺めて休むのに丁度いい。

 彼の隣には、宿の老人が座って、湯飲みを両手で包んでいる。客用の湯飲みが斎藤の傍にもあり、中味はどちらも酒だった。

「悪いねぇ、付き合って貰って、客に付き合って飲むって言やぁ、うちのも文句は言わねぇから」
「奥方が?」
「いいや、奥方っていうほど上品なもんじゃねぇが、中々美人だろぉ?」

 既にほろ酔いの老人が惚気る。

「随分若ぇきれいな嫁を貰ったんで、羨ましがられたもんだよ」

 へへ、と照れるのを横目に、斎藤はようやく思い当たった。

「…もしかして、女将さん、ですか?」
「おうよ」
「女将さん。若く、見えます」

 娘か、或いは息子の嫁、ぐらいの年に見えるから、斎藤は思わずそう言った。ちょっと濃い化粧だとは思っていたが、いったい女将はいくつなのか。良く問われると見えて、老人はこっそりと指を立てた。五と、二。九つも離れてんだ、と自慢する。

「ま、今だって四十かそこらにしか見えねぇもんで、女将はトシとどうとか、なんて馬鹿ぁいうやつがいたりするけどな。俺もお藤も、トシがこぉんな頃から知ってるんだしよ。ねぇよって話さぁ」
「……」

 斎藤は思わず、酒の徳利を取った。老人の湯飲みになみなみと注いでやり、彼は身を乗り出すようにして言ったのである。

「し、知りたい」
「へ? お藤のことをかい?」
「そうじゃなくて、土方さんのっ、昔のことをです」

 老人は酒をぐっと飲み、随分と嬉しそうに顔中で笑った。

「おみよじゃねぇけど、お前さんも、随分と惚れ込んだねぇ。いやなに、変な意味じゃぁねぇんだ。男が男に惚れるってぇのは、昔からあるもんさ。こいつはまだまだ、大きな声じゃあ言えねぇが、新選組の二人の英雄、こんどういさみと、ひじかたとしぞうのようにな」














時差邂逅