七
「……び…っくりした…」
斎藤は風呂へと向かいながら、己の顔が熱いのを自覚していた。顔どころではなく、全身熱い。土方の、着物のはだけた胸元。ずっと奥まで見えていて、目にした途端、反射で目を逸らしてしまった。
どうかしている、そう思う。彼に言われた通りだ。女の胸を見たわけでもあるまいに、あんな。でも、自分がそうなる理由を、斎藤はずっと前から知っているのだ。
「しょうがない。あの人は、ずっと、俺が…」
風呂場の戸を開けた時、湯ではなくて水を使おうと斎藤は決めていた。彼が使った湯になど、平気で入れる気がしない。張ったままの湯を抜きながら、冷たい水を浴びて汗を流し、ついでに風呂場をきれいに整えた。毎日のように湯を張るのは現実的ではないが、綺麗好きな土方のこと、水を浴びるぐらいはしたいだろう。
あの人が、居たいと思う家にしておきたい。居心地が悪いなんて思われたくない。此処に居て貰うのは、俺の我儘だ。いつまで居てくれるか、分からないけれど。
風呂場を掃除し、土方が体を拭く布は新しいものを用意し、今日のように出し忘れないよう、着物と帯も出しておいた。そういえば、自分の着物を着て貰って、嫌では無かったろうかと今更思う。でもあの人のためにと、わざわざ買いそろえたりしたら、きっと嫌がる。
考えながら掃除していたので、随分時間が掛かってしまった。急いで戻った道場に、けれども土方の姿はなかったのだ。ただ、隅の方にきちんと整えて置かれた竹刀や防具が目に入る。いったい何処へと、夕べ土方の寝た部屋へ行き、縁側を見て庭も見渡し、だんだん斎藤は不安になった。
「土方さん…っ」
つい、名前が口を突いて出る。何処にも姿が見当たらなくて、やっと気付いたのだ。部屋にあの人の、薬箱が無かった。そういえば玄関に、彼の草鞋も無かったのではあるまいか。空っぽの道場に立ち尽くして斎藤は思うのだ。
もしかして、見たのか。
神棚においたあの写真。見てしまったから動揺して、此処を去ったのではないのか。だってあの人はまだ、自分のことを知らない。全部が全部、祖父の思い込みだと思っている。
体の力が抜けて、座り込みそうになった時、やっとそれが斎藤の目に触れた。道場の奥に片付けられた踏み台の上の、小さな紙切れ。手を伸べ、見ると、それは土方から彼への手紙であった。ごく短い、言葉。
帰る
また来る
さいぞう
また来る、とあるのを見て少しはほっとした。でもどうしていきなり帰ったのかは、結局分からなかった。斎藤は唇を噛んで暫し考え、心を決めるとすぐに支度をした。
支度している間ずっと気が急いていて、門からすぐに走り出した。近所のおかみさんとすれ違って、どこへいくのかと問われ、出掛けてきます、とだけはやっと言った。幸い、土方が行った方角は分かる。帰るとあるからには石田村の方へ行くのだろう。街を出てその方角なら、暫く分かれ道は無い筈だ。
追い付くことだけ考えて走り出した斎藤は、ただただ、先へと進んでいくのだった。
一方、いつもの旅姿に戻り、斎藤の家を出た土方である。特に急いで歩こうとしなくとも、旅慣れた彼の足は速い。街を抜けるなどあっという間、次々旅人を追い抜きながら街道を進み、途中の茶屋では立ったままで茶を啜った。そして夕前には、もう峠の手前まで辿り着く。
「トシさんじゃない。商売はどうだったのぉ?」
「…ったく。トシじゃねぇって言ってるだろ」
「あはは、ごめんねぇ、癖になっちゃってるんだよ」
行きに声をかけてきた女が、早速彼の姿を見つけて寄ってきた。土方は女をちらりと見て、こんなことを言う。
「おみよはどうした?」
その女はまだ若いが、流れ者に騙されて産んだ子がいる。みよと言って、何度も会ううち土方にもなついてしまっていた。まだ小さいが、物怖じしないいい子だ。
「みよなら茶屋の裏で手伝ってるよ。いい子だろ、褒めてやっておくれな」
「へぇ、五歳だったか? 立派なもんだ」
土方はわざわざ店の裏へまわって、そこで洗い物をしていたおみよにそっと近付くと、頭の上にちょん、と何かをのせた。茶屋で貰った小さな干菓子を紙に包んだものである。
「えらいな、おみよ。あとで食いな。お前さんのしかないから、こっそりな」
「あっ、としーっ」
「だから、トシじゃねえって。なんだよ、おみよまで」
すると、少し離れた場所で薪割りしていたじいさんが、声を立てて笑った。前は宿屋の主人だった老人で、土方のことは子供の頃から知っている。
「はははっ、諦めなよ。別にトシでいいじゃねえか。ここにゃ咎めるもんなんかいねぇんだ。それよっかなあ、ちょっとこの薪、割ってくんねえか? 硬くってちいとも割れねぇんだよ。手にマメが出来た」
そんなことを言いながら、じいさんはサイゾウの方へと、手斧を差し出している。目の前には、割らねばならない木が山積みだ。
「若い衆にやらせりゃいいだろ、なんでじいさんが薪割りなんか」
「だってよ、やけに忙しかったもんで若いのはみんな疲れちまってんだよ、だから明日使う分は俺がやるからって言っちまった」
「って。見え張っといて俺に丸投げすんのかよ。じいさん、俺だってこれから峠を越すんだぜ?」
「そう言わねぇで、やっとくれよ、トシぃ」
ちら、と見れば本当に手のひらにマメが出来ている。土方は溜息をひとつ吐き、面倒くさそうにしながら手斧を振り上げた。聞いていて心地いいほどの音がして、次々薪が割れていき、ほんのちょっとの間に仕事は終わってしまった。
「おぉ、おぉ、ありがとうよ。さすが剣術好きなだけあるなぁ」
「剣術と薪割り一緒にすんな。別に好きじゃねぇよ」
「そうかえ? だけどよ、お前の祖父さんが言ってた話じゃ、おめぇはこーんな小せぇ頃から」
「……黙ってくれ、爺さん」
低い声で、土方は言った。それだけで、ぎくりとするほど迫力がある。彼は地面に片膝付いて屈んでいたが、その姿勢のまま、視線だけで表通りの方を見ていた。
「あいつら、なんだ? ここらじゃ見たことねぇな」
「あぁ…。最近よく見かけるんだが、柄が悪いんでみんな心配してんのさ。もしかして峠向こうで噂されてたっていう、物取りなんじゃねぇかってよ。トシ、お前さんも気ぃつけてなぁ」
からん、と薪の一本を放り出し、土方は言う。
「俺のことより、宿や茶屋の女たちに気ぃつけててやれよ? 物取りってなぁ、金品を巻き上げるだけじゃねぇんだ、女にも手ぇ出す」
「わかってるさ、みんなにもよく言ってあるよ」
「おみよ、お前も気を付けるんだぞ」
幼いみよが神妙な顔で頷くのを見ながら、土方は裏手から宿の方へ行く。軽く何か食べさせて貰ったら、泊まらずに進むつもりだった。急ぐ理由は大してないが、じっとしていたくない気分だったからだ。もやもやと、胸にわだかまるものを土方は持て余している。
急に出て行って、
あいつはどう思ったろう。
手紙は書いてきたが。
呆れただろうか。
それとも、落胆したろうか。
普通、宿のものしか通らない裏口から、宿屋の中へ入った途端、土方は自分をひたと見据える目と会ったのである。
「斎藤っ、おめぇなんで」
「…それは俺が言いたい。土方さん、何故だ」
何故何も言わず、いきなり出て行った。そう、強い眼差しが土方に問うている。つかつかと近付いて、斎藤はその手で土方の腕を掴んだ。容易には振り解けない力だった。問われた土方は、呼吸一つする間黙っていたが、何かに気付いた顔をして、逆に斎藤の顔を間近からじろりと睨んだのだ。
「来い」
己の腕を掴んでいる斎藤の手首を、逆に捕らえて、土方は宿の奥へと入っていく。
「女将さん、悪いが、ちょっと庭を貸してくれ」
「土方さんっ、俺の聞いたことにっ」
「黙れ」
底冷えのするような声だった。
「だ、黙れって、何」
「うるせぇ」
廊下ではなく、廊下の脇の庭を通りながら、土方は短く言った。どう聞いても怒っている声だ。斎藤は引きずられるようにして、奥へと連れて行かれた。庭の奥には井戸があり、土方はやっと斎藤の手を離すと、何も言わずに井戸から水を汲み上げた。そしてそれを地面に置くと、彼はその横にどかりと腰を下ろしたのだ。
「言った筈だぜ、傷を庇え、って」
言われて斎藤は足首を取られた。昼間に道場でされたように、また、ぐい、と引かれ、いきなりのことに尻もちをついた。乱暴にみえて丁寧な手つきで土方は彼の草鞋を脱がせ、足袋を剥ぎ取る。その親指部分は、土に汚れた茶色と、血の赤とでまだらに汚れていた。
斎藤は土方が怒っている理由に気付いて、伏し目がちにしている土方の目元を見ながら、ぽつんと言う。
「気付きませんでした…」
「……こんなになってんのにか。どんだけ急いできたんだ。足袋に穴が開いて酷くなってる。傷口ん中に砂やら泥やら入って、このままだと膿むぜ」
土方はついさっき汲み上げた桶の水を手のひらに掬い、口に含んでから地面に吐き出した。それをもう一度繰り返す。二度繰り返したのは口を漱ぐためだ。それが済むと彼は、まるで土下座でもするように頭を低く下げたのだ。斎藤の足首は、ずっと強く押さえつけられたままだった。
「なっ、何するんですか!?」
斎藤は驚いてそう聞いたが、直後、足指を口に含まれて身を震わせた。刺すような痛みがあったが、そんなことはどうでもよかった。熱くて柔らかなものが、彼の傷に触れている。それが傷口の上と内部を数回、ゆっくりと行き来する。ずっと逃げようとしていた齋藤の足首には、うっすらと痣が残った。
言葉を失うような方法で傷の中の汚れを取り払われ、そのあともしつこいぐらいに水で漱がれ、膏薬をたっぷり塗られ、細く裂いたさらしで親指と、その他の指もぐるぐると覆われた。
「…気が、遠くなるかと思いました」
「そんな痛かったか?」
あんなに怒っていた土方は、強張った顔をしている斎藤を見て、ほんの少し目元で笑った。
「傷口の奥まで触ったからな、そりゃ痛かっただろうよ」
「違う」
「違うって? じゃあなんでだ?」
「…言えません」
そんなやりとりをしていたら、二人分の茶と軽い食事が、廊下を通って運ばれてきた。庭に座り込んでいる二人を見ても、何も言わずに彼女は笑う。そうは居ない出来た女将だと斎藤でも思った。
「トシさん、じゃなくってサイゾウさん。と、お連れさんも、ちょっとしたものしかないけど食べてったらと思ってさ。そこの部屋空いてるし」
さっき土方が、女将さん、と呼んでいた女だった。若く見えるが若作りなだけで、よく見れば土方よりも随分上の年である。
「悪いな、女将さん。馳走になる。薬、なんか減ったのあるか? あったら今日の礼にただで持ってくるよ。今は打身の薬しかなくてな」
「まだ大丈夫さ。ちょっと前に置いてってくれたばかりじゃないか」
女は軽いものと茶だけを、部屋に置いて戻っていく。斎藤は少し躊躇ったのち、腰の剣を抜いてそれを杖替わりに、開け放たれた部屋へと入る。土方は先に入って、さっさと飯を口に運んでいた。咀嚼の口を殆ど休めず、彼は言った。
「喰い終えたら、詫びを言う」
「……急に居なくなったことを、ですか」
「いいや、別のことだ」
沢庵を齧る、ぼり、という音が聞こえた。等間隔の咀嚼音を聞きながら、斎藤もまずは沢庵を齧った。
「俺も、話したいことがあります」
「…へぇ、そうかい」
また、ぼり、と土方は沢庵を齧って、次はやっと飯を口に入れた。残り一枚になった沢庵は、最後の最後に食べるのだろう。そんなことまで聞いていた通りで、斎藤は笑いが込み上げて仕方なかった。
話そう。と、斎藤は思っている。何を何処まで話せるものか、口を開かなければ、きっと彼にも分からない。残り一枚の沢庵ののった自分の小皿を、斎藤は土方の方へと滑らせた。無表情にしていようとして、失敗している土方の顔を見て、彼は小さく吹き出した。
続

