六
本当だったら?
自分で、そう思った?
こいつ、一体何を言っているんだ?
まさか生まれ変わりのことを、か?
ぐるぐると土方の頭の中を考えが巡る。馬鹿げていると思うのに、笑って跳ね付けることが出来ない。斎藤の言葉を訝しく思うものを、土方は何故か問い返すことが出来ないでいる。
郷里の英雄の名を貰った土方サイゾウという名前。その英雄と共にあったという、斎藤一を思わせる斎藤ひとの名前。それ以上考えようとすると、心が眩むような気がして、冷たい床の上についている片手を握る。手の中で、くしゃ、と紙が音を立てた。二人で一包ずつ飲んだ、石田散薬の紙。
あぁ、そういやもう、あまり痛くねぇ。
「…ほらな、よく効くだろう。やっぱり石田散薬だな」
用法通りに燗酒で、しかもすぐに飲んだのも良かったのだろう。土方は斎藤の左の足に、無造作に手を伸ばした。ぐっ、と足首を捕まえて引っ張り、腫れが引いているのを見て、芯から嬉しそうな目をする。
「こいつを誰から買った? 折り方を見りゃぁ俺のと分かる。どっかの商家でか、この辺だったら宿屋とか?」
斎藤はそれには答えなかった。視線を逸らして、さぁ、と曖昧に言葉を濁し、風呂が立ててあるなどと言ってくる。実は土方は部類の風呂好きで、しかも夕べ体を拭いても居ないものだから、その言葉には抗えなかった。
「風呂? 風呂って、湯を張ってあるのか?」
「稽古をしたら汗をかく。朝餉の用意のついでに立てておいてもらったんで、もう火も落ちて少し経つ頃だ。すっかり冷めてしまわないうちに、使って下さい」
手拭いやら着替えも用意してあると聞いて、土方はすぐに腰を上げる。それこそ、逃げでもするように。
「なら、甘えるよ。湯はなるべく汚さねぇようにするが」
「…気にしないでいいです。夕べ寝た部屋の、渡り廊下をさらにずっと奥へ行った、離れ屋の方ですから」
借りた面や胴当てなどを、几帳面に置き直してから、土方は急ぎ道場を出て行く。その背中を見て、斎藤は笑いそうになってしまう。ひとつひとつ、あまりに『聞いていた通り』だったからだ。
強がりで負けず嫌い。
剣は強くて酒には弱くて。
豪快なところと、
几帳面なところがあって。
沢庵が好き。
きれい好きで風呂好き。
そして、ほんの時々、
臆病になる。
土方の足音が遠ざかって行ったあと、斎藤はまだ少し痛む足を庇いながら、神棚へと向き直った。直ぐな目をして彼はじっと見上げる。嬉しいような、少し悔しいような、不安なような、複雑な感情を持て余しながら、此処に居ない人に話しかけるのだ。
「…全部、一さんの言った通りだ。嘘みたいだ」
あの人は、
本当に"居た"のだ。
今の、この世に。
斎藤は道場の端に置いてある踏み台を、引きずるようにして持ってきて、まだ少し痛む足指を構わずに、それへ足を乗せた。
乗らねば届かぬ場所に手を伸べるためだ。神棚の奥へと、大切にしまってあるもの。手に取るのは、数年ぶりになる。幾重にも紙に包み、布でくるんで守っているそれは、写真、であった。
台から降りて、床に丁寧に座し、布や紙を一つずつ開けば『その人』は、しづかに、其処に居た。斎藤は息を詰めるような想いで『その人』を見る。初めて目にした時の感情を思い出し、慄くような気持ちで。そして震える息をひとつ吐くと、元の通りに紙に包んで布にくるんで、同じ場所にしまい込む。
もう一度踏み台に乗り、それを奥へとしまい終えたその時だった。閉じていた道場の戸が、ガタリと音を立てて開いて、そこに現れた人は、声を荒げて彼を叱った。
「何してんだ!?!」
寧ろその声に驚き、ひとは台から転げ落ちそうになった。踏ん張る筈の足が痛んで、堪え切れずに、落ちる。その寸前の体を、熱い手が支えたのだ。
「…っぶねぇ。落ちたらどうすんだ?!」
両腕で守るように支えられて、両足はしっかりと床に届くも、怪我をしている指が痛んで、斎藤は無意識に顔を顰めている。
「すみ、ません…」
「いや。俺もでかい声出して、かえって悪かったが、いくら薬が効いてたってな、多少は怪我を庇うもんだろう」
「…いえ、俺が」
言い掛けて、斎藤は唐突に視線を逸らした。ついで土方の腕の中から無理やり逃げ出し、踏み台に痛む足をぶつけてしまう。
「い…ッ!」
「馬鹿、お前ッ」
「だい、大丈夫です。その…土方さん、帯」
「あ?」
足の痛さよりも、支えられ気遣われたことなどよりも、もっと、斎藤を狼狽させるものが、目の前に。
「あぁ、帯だけなかったんで、出して貰おうと思って聞きに来たとこだったんだ。…にしても、お前な。野郎の胸元なんざ見て、そんな顔してんじゃねえ、おぼこい娘じゃあるまいし」
土方は、はだけた着物を片手で雑に合わせると、半分笑った顔をして、もう一方の手で濡れた前髪を掻き上げた。
「い、今、出してきます」
「いいって! 場所だけ言ってくれ。怪我人に世話ぁさせるほどお偉かねぇや」
「出して、きます」
今度は斎藤の方が土方の傍から逃げた。でも逃げた直後に、出してきた帯を貸しに戻って来なければならない。微妙に目を逸らしたままで差し出すと、土方はそれを受け取り、着物を整えながらこう言った。
「さっき、何してた?」
「え?」
「え、じゃねぇ。神棚の上のもんを取りてぇなら俺が取ってやる」
「…いえ、もう。用が済んだ後なので」
濁す言葉を聞き流さずに、土方は今度は、別の意味で同じ問いを放つ。
「痛む足に無理を強いてまで、かい? 何がある? 其処に」
「……」
「黙っていられちゃかえって気になる。居ねぇ時に勝手に見るかもしれねぇぜ? いいのかい?」
すると斎藤は、踏み台にすとんと腰を下ろして、斜め下から土方の目を覗き込んだ。どこか不敵な目だ、と土方は思ったのだ。その目の奥に、笑みが揺れている気がする。
「土方さんは、そんなことはしない。……俺も、湯を使ってきます」
踏み台を其処にそのままに、斎藤は道場を出て行った。残された土方は、ほんの少しの間その踏み台を睨み据え、結局何もせずに、借りた防具やらその踏み台やらを隅の方に片付けるのだった。
時は遡る。
斎藤ひとが見ていた、その、写真のことである。
その頃、幼少のひとは既に、師、斎藤一に剣術を習い始めていた。それは冬のことであった。まだ明け切らぬ早朝、通いのひとが道場に来る前に、一を訪ねてきたものがあった。
「随分と、久しい」
白い息を吐きながら、一が言うと、老いてなお立派な体躯のその男は、その場に膝をつき、頭を垂れたのである。震えるように暫し跪いたままでいて、止せとも、顔を上げてくれとも言われず、男は終いには、自分で顔を上げ、ひたと一の目を見て言ったのだ。
「家に行ったら、此処だと聞いた。勝手だが、お前さんになら、斬られていいかと思ってきたんだ」
「とは…何故?」
一の言葉は極短い。比べれば男は饒舌であった。懐から何かを取り出し、小さく小さく畳んだそれを、震える指でゆっくりと彼は開いた。一の目はそれへと吸い寄せられて、差し出されたそれを、手に取った。
「箱館で撮ったホトガラだ。一度撮れば同じものを何枚でもと聞いたから、一晩頭を下げて頼み込んで、こっそりこの一枚を手に入れた。せめて『形見』に、と」
「………」
一は何も言わなかった。形見、という言葉が、道場の冷たい床の上に、ぽとんと、落ちて、そのまますう、と其処へ吸い込まれていった気がした。気付いたら彼の手には、刀掛けに在った刀が握られている。
男は、行儀のいい犬か何かのように、膝を折り床に両手をついたまま、顔だけを上げ首を伸ばすように、じっと一を見ていた。目の前には刀を握った手がある。自分ほどではなくとも、既に老いた手が握る一刀を、その男の首が、欲していた。
斬ってくれ。
殺してくれ。
『あの人』の傍にずっと居ながら、
守ることも出来ず、追うことも出来ず、
おめおめと、今日の今までを生きてきた、
この命を、一思いに断って欲しい。
斬られていい、と男は言ったが、本当はそうではない。この男はずっと、断罪して欲しかったのだ。一は、跪き首を差し出す男を見下ろし、手にした刀の柄に指をかける。その瞬間、ふうっ、と笑みすら浮かべた男の口元を見て、それよりももっと深く、彼も笑んだのだった。
「…廃刀令がある。これも中味は木刀だ。あんたの首は斬れない。…斬ろうとも思わない」
「嘘だ。俺だってお前さんのことは調べてきた。刀の持てる地位の筈だ。持っていられる地位に居て、お前さんが刀を手放すなんて有り得ない」
微かな吐息のような音をさせて、鞘から一寸、一は刀を抜いた。其処には白い光があった。キンっ、と、今度は鋭く硬い音と共に、彼の刀は鞘の中に姿を消す。
「斬る意思が俺にあるとして。あんたを斬ったら俺は牢屋だ。やりたいことがあるから、それは困る」
そう言って一は刀を刀掛けに戻しに行った。既に懐にしまってあった写真を取り出して、男の目の前にそれを見せる。
「…俺に譲って、後悔しないのか」
「譲るも何も『あの人』は…。それに、俺も流石にそう長くはない。土の中に埋めてしまうとか、ましてや、俺の体と一緒に燃やすなんて、とってもできねえからなぁ」
お前さんが持つのが一番いい。そう思った、と、言って、やっとほっとしたように男は顔中で笑っている。そして、さっき入ってきた道場の戸を、男は開いた。雪がどっと吹き込んできて、一度閉じた目を開けると、其処には子供がひとり、壁を背にして立っていた。七、八才ほどだろうか。片手に竹刀を持っている。
「…よく似てる。孫、かい?」
振り向いて男が言うと、一が首を横に振った。
「いいや、随分と遠縁だ。剣に取り憑かれたようでな。だから、もう三年、教えている。顔もそうだが、そういうところも、剣の癖までどこか似ているから、面白い」
それを聞くと、納得がいったように男は頷いて、そうして雪の降り頻る中、少し背を丸めるようにして、帰って行ったのだった。
「随分外で待っていたな、寒かったろう」
一が言うと、子供は一つ頷いて。
「でも稽古を始めたらすぐ熱い。だから、いい」
「そうか」
頭や肩の雪を自分で払い落して、何も言われない内から、一心に竹刀を振り始めた。素振りを五百回。それから、決まった型の流れを百回。それが済んでから、ようやっと師匠の一が教えてくれる。真剣でもって人と対峙する時の形を。
「ひと」
と、一は声を掛けた。素振り百回を数えたあとである。
「はいっ」
「さっきの男は、俺の昔の仲間でな。島田魁、と言うんだ」
「島田、カイ?」
目を細めて、一は微かに笑んでいたけれど、その声は少し震えてはいなかったか。
「自分の、命より大事な宝を、俺に渡しに来た。今日からは俺の宝だ。…それをいつか俺からお前に、渡すかな」
ひとは首を傾げて、不思議そうに聞いた。
「宝物なのに、ですか?」
「…だからこそだ。その時、わかる」
窓の外は、雪。雪の中に立つ誰かの幻を、一はじっと思い浮べている。ひとの素振りの声が五百を数え終えて、彼が声をかけるまで、一はどこか、遠い国にいるような眼差しをしていた。
続

