十
一
さぁ、と風が庭に吹いていた。落ちた枯れ葉が土方の足元で一旦留まり、その後は何処へともなく吹き飛ばされていく。師匠、師匠と何度も言う斎藤に、なんでか少し苛ついた。その感情の意味も分からないうちに、また分からないことを言われたのだ。
師匠は、もう、あんたに会えない。
もう? もうってなんだ? 前に会っているということか? それとも会いたがっていたということか? 俺の知らないあいつの師匠が、なんでそんなに、俺に? それに、名を借りてもじって、斎藤ひととつけたと前に言ってた。そこから分かることなんて、ひとつじゃないか。考える必要もないくらいだ。
つまり、あいつの師匠の名は
「斎藤せんせぇー」
いきなりそんな声がして、土方の体はびくりと震えた。声のした方へ顔を向けると、朝、道場で一緒に習っていた男が、庭に入ってきた。
「おっ、居た居た、あんたぁ」
又六だ。さっき竹刀で頭を打たれた、生徒の中で一番年かさの男。見れば額が赤紫になって、かなり腫れてしまっている。
「診てくれっか、これぇ。いやぁ酷ぇ塩梅になっちまって、なんとか出来っかねぇ」
「…あぁ、随分になってんな」
詰めていた息を吐いた土方は、障子の陰になっていた薬箱へ手を伸べて引っ張った。
「色はどうにもなんねぇよ。こりゃ内側でちっと血が出てんのさ」
「なんねぇかぁ、参ったな」
又六を縁側に座らせると、土方は畳んださらしに薬をさっと塗布し、それを額にそっと押し付けてやった。
「しばらくこうして押さえてな。あとは家帰ってからでいいから、これを飲むといい。腫れてんのが引くからよ」
「おう、助かったよ。えぇっと、いくらだい?」
「いい。道場で負った分はとらねえ」
又六はあからさまにほっとした顔をする。なりから言って貧乏百姓だ。自由になる金などそんなには無いのだろう。
「いやぁ、助かる。あんたぁここの道場のお抱え薬屋ってことかい?」
「まぁ、そうだ。剣術を教えてもらうのと引き換えっていうかな。怪我なんざしねえのが一番いいだろうけど、道場はそうもいかねぇだろ」
うん、うん、と又六は笑顔で頻りと頷いたあと、額を押さえた布を少し剥いでみて、いててて、と控えめに痛がった。
「みんなあんまし上手くなんねぇからなぁ。俺なんか、先代の先生ん時から居るけど、習いたてのやつらとどっこいだもんな。でも竹刀に慣れとくと咄嗟の時に役立つって、先代も、今も斎藤先生も言うからよ。え、え?」
綺麗な顔が間近からじっと自分を見ていて、又六はちょっとまごついている。
「…あんた、先代の道場主を知ってんのかい?」
「あぁ、知ってるよ。今じゃその頃から居るのは俺ぐらいだけどな。前の先生はそりゃ怖かった。いや、怒鳴られたりとか、乱暴なことされたりってんじゃねぇんだ、とにかく無口だったからよ」
又六の言うのは、間違いなく斎藤の師匠のことだ。随分背の高い老人で、滅多に喋らない。竹刀一本を手にして、眼差しと、己の仕草で指導をしたという。すっ、と視線をやって、その生徒が気付くとその目の前へ行って、丁寧に正しい方法を見せてくれるのだと。
「無表情で無口ってのが、なんでか怖ぇんだ。そんときから今の先生も道場にいてな? 殆ど喋んない先生の代わりに、ちょっと言葉を添えてくれっから、その通りにすると格段に良くなったのが自分でも分かるんだ。あとなぁ」
土方が黙っていると、又六はどんどん喋った。きっと話好きなのだろう。昔の話が出来ることが、楽しくてたまらないように見えた。
「ほんとかどうかわかんねえけど、先代は随分凄い人だったって。こりゃ噂だが若い頃、京の」
話がそちらへと転がりかけた時、土方が突然立ち上がったのだ。又六はびっくりして言葉を止めた。
「どっ、どしたい?」
立ち上がった土方の視線の先、出先から帰ってきた斎藤が、庭へと入ってきたところだった。斎藤は青い顔をしているように見えた。夕焼けの無い空の薄暗さのせいで、そう見えるのかもしれなかったが、脇に抱えた風呂敷包が、力の抜けたその腕から、今にもずり落ちそうになっていた。
言いたいのか。言いたくないのか。
知って欲しいのか、欲しくないのか。
繕い屋で受け取った風呂敷包みを抱えたまま、斎藤は項垂れて帰路を歩いていた。心がどうにも定まらない。少し前まで、もうすべてを言ってしまおうとしていた自分が、今は信じられない気持ちでいる。
言ったら、どうなる?
あの人に信じて貰えるのか?
信じて貰えたとして、
どう思われる?
考え事をしているせいか、かえって歩む足は速かったのだろう。気付けばもう道場が目の前で、どうしたらいいのか、何も決まっていない。どんよりと雲の立ち込めた薄暗がり、浮かない気持ちで門を過ぎ、庭に足を踏み照れた途端、その声は聞こえてきたのだった。
一番古くからの生徒の、又六の声だった。
「先代は随分凄い人だったって。こりゃ噂だが若い頃、京の」
心臓が、重く鳴った。それは明らかに師匠のハジメのことだった。言わないでくれと思った。言うのなら俺の口から、ちゃんと、と。だけれど制止する言葉が、喉に閊えて。
「どっ、どしたい?」
だが、又六の言葉は、斎藤が何も言わなくとも止まっていた。土方は斎藤の視野の中に居て、立って彼の方を見ていた。又六が、遅れてひょいと斎藤の方を見る。
「お、先生、今よ、この額の」
「又六さん、おかみさんが、帰りが遅いって呼んでましたよ」
「わっ、こりゃいけねぇ、どやされっちまう」
ありがとうよ、と額のさらしを押さえたままで言って、又六は庭から表の通りへと出て行った。
「なんてえ顔をしてんだよ」
土方は縁側に腰を落として、軽く首を傾げて斎藤にそう聞いた。うっすら笑んでいるその顔を見た斎藤は、なんだかほっとして手にしていた風呂敷包みを落としてしまった。焦って拾って、土方の隣に座り、結び目を解いて中を見せた。
「前から繕いに出してた道着です。上は藍で下は黒。引っ掛けてかぎ裂き作っただけで、それは直してもらったし、そんなに古くないですから、よかったら土方さんにと思って」
「あぁ悪ぃな、使わせて貰うかな」
「土方さん」
「んん?」
深い色をした道着の上に、片手のひらを乗せたまま、斎藤は少し下を向いている。
「し、知りたいですか、俺の、師匠のこと」
問えば土方は空への方へ顔を上げて、ただただずっと灰色をしているだけの夕空を見る。
「つったってなぁ。こう言っちゃなんだが、聞かないでももう色々、分かっちまったって」
斎心道場の名前と、斎藤ひとの名前、その由来。随分無口な隊士だったんだ、と、祖父の太吉から聞いたこともある。あぁ、飽きるほど何度も何度も聞いた。目立たずけれども影のように、必ず土方トシゾウに寄り添い、共に居た姿が羨ましかったと、繰り返し。
「で? おめぇは、斎藤。その師匠の…」
生まれ変わりだ、って、言うのかい?
其処までは声にならなかった。言葉にする気もなかった。そんなものは意味が分からない。何年も剣術を教わっていた師匠の、生まれ変わり? 斎藤が? ただ、俺のと似た話もあるもんだと、少し笑いが込み上げる。
「おめぇは」
「ひ、ひじっ、土方さん…っ」
土方が何かを言おうとしたのを、斎藤は遮った。だけれど遮られても、土方は言い止めなかった。
「おめぇはさ、斎藤ひと、だろう?」
あぁ、と斎藤は思う。何が嬉しいか分からないのに、嬉しくて。何度も何度もこの人は、こうやって、こんな気持ちを自分にくれるのだと思った。会ったら分かる、と、言われた意味がひしひしと、自分の中へと沁みている。
土方はふらりと立ち上がって、道場へと歩いた。斎藤はそのあとをついて行った。磁石に引かれるような気持ちだった。きっとこれは、生涯そうなのだろうと、静かに思う。
道場へと入り、神棚の前に立ち止まった土方の言葉が、痛くない刃が刺さるように、すぅぅと深く、斎藤の胸へと入ってきた。
「そんで、おめぇの師匠は、斎藤一、なんだな」
月の見えない、星の見えない夜が来るのだろうに、これから、藍に澄んだ夜が来るように思う。空の代わりに心が澄んでいるのかもしれない。それはきっと、土方も斎藤も思っていることだった。
「…すげぇ人に習ってたなぁ、斎藤。ちっと、羨ましい」
はい、と言いたい声が、どうしても音にならなくて、もうこの世に居ない師匠の、何も言わない顔を、斎藤は思い浮べていた。
夕餉の芋の煮っころがしは会心の出来だった。美味い美味いと土方も沢山食べてくれ、斎藤の食べる分が少なくなってしまったくらいだった。
夕餉が済んで片付けも終わり、繕い屋から戻ってきた道着を、土方が体に当ててみた。凄く似合って彼も気に入ったふうで、斎藤はまた嬉しくなった。そして、そろそろ寝るか、と土方が言った。その後のことである。
「なっ、どっ、なんでですかっ、土方さん」
「だから、俺ぁはただ飯ぐらいの居候だろ、あんな立派な客間で寝さして貰う理由がねえよ」
「だっ、だからって、なんで?」
部屋の入口で斎藤と押し問答している土方は、布団一式枕までを両手で抱えて立っている。
「なんで、って。おめえの寝てるこの部屋、充分二人で寝られるじゃねぇか」
言いながら、布団ごと土方は斎藤の寝部屋に入ってこようとする。
「だっ、駄目です、此処は」
「なんで?」
「なんででもっ」
土方と向かい合った格好で、斎藤は逆側から土方の抱えている布団の塊に腕をまわす。一式とはいえ煎餅布団だ、そんなに大きな塊ではなく、ぐい、と無理に押し返そうとすると、斎藤の顔が土方のそれと近くなる。実際、前髪が触れた。
「なんで駄目なんだ、いびきか歯ぎしりか? 俺なんざ静かなもんだぜ? あっ、お前ぇの方が?」
そんなことを言っている土方の、間近い顔が怖いぐらい美男で、その上距離が近過ぎて、斎藤の唇に土方の息がかかる。慄いて、思わず一歩下がった途端に押し切られてしまった。
「あぁあっ」
「なんでそんな絶望したみたいな声だしてんだよ。ほんとにいびきがうるさかったら、また考えりゃいいだろう」
もう為すすべもない部屋の主を放って、土方は斎藤の布団の隣に、いそいそと自分の布団を敷いているのだった。
続

