「素振りしてきます」
「なんでだよ」

 早口で言って、部屋を出て行こうとした斎藤の手首を、土方が掴んで引き留めた。廊下へと出て行く障子に手が届かず、斎藤はじたばたしてしまう。そうするうちに足払いを掛けられて、彼は布団の上に押し倒されていた。

「なっ、な…っ」

 狼狽して、とにかく逃げて壁の方へ寝返り打って、芋虫のように体を丸めた斎藤に、土方はなんでか自慢気に言ったのだ。

「上手えもんだろう。俺はこういうのが得意なんだ。神社の祭りの奉納相撲なんか、よくこうやってデカいのを転ばしたもんさ」

 斎藤はと言えば、そんな話を聞いている余裕なんかない。こんな狭い部屋ですぐ横に布団を並べ、そこで土方が眠ってしまうなんて、なにがなんでも避けたいのだ。何か理由を付けて部屋の外へ出たかったが、混乱した頭にはいい案が浮かびそうになかった。

 そもそも、こんなに慌てふためいた自分の姿が、いったい土方にはどう見えているのか。恐る恐る振り向いて見たら、彼はもう夜具の中に納まって、掛け布団の上に腕を出していた。その両袖がめくれて、白い肘までが見えている。

「なぁ、斎藤」
「……な、んですか」

 平素の声を出すだけで斎藤は必死だというのに、土方はやたらと満足気で、声に笑みまで滲んでいた。いつの間にか行灯が灯されていて、部屋の中はぼんやりと明るい。

「こういうのが、俺には懐かしいんだ」
「懐かしい?」

 土方は言うのだ。斎藤の心臓はまだばくばくしていたが、それでも彼の話を聞きたいと思ってしまう。宿屋や茶屋の人々に色々話を聞いたけれど、土方自身から彼の昔語りを、斎藤はもっと聞いてみたかった。

「俺が子供の頃はな、うちには両親と俺と祖父さんと、母方の妹の夫婦が住んでたんだ。薬屋だけじゃ食えねぇから、畑を借りてみんなで世話をしてたし、薬草摘みの時期なんかは、更に大勢が寝泊まりしてる時期もあったよ。だからこうやって布団と布団をくっつけて、誰かの息遣いを聞きながら横になってるのが懐かしい。詰まらねぇか、こんな話」
「…いえ」

 斎藤が短く言うと、土方は静かな声で言葉を続ける。

「まぁ、そういうのはでも、俺が子供の頃だけだったけどな」

 土方の両親は彼がまだ十一の頃に、流行り病でいっぺんに死んだのだという。叔母夫婦は余所へと越していき、土方は祖父と二人暮らしになった。石田散薬を売るのだけは絶対に続けると祖父は言ったし、二人ならば薬売りだけでなんとか食っていけたのだ。

「そっから先は、淋しくなっちまった家にはあんまり戻らねぇで、祖父さんと二人、行商ばっかしてたよ。狭い家なのに、なんだかがらんとしてて、出歩いてる方が気が楽だった。あの宿屋にはその頃からしょっちゅう泊ってたんだ。年がいって祖父さんが死んでからも、よく入り浸った。気のいい奴らばっかりで、俺の名のこともとやかく言わないでいてくれて、もう二番目の家みてぇなもんだ」

 あぁ、だから、と斎藤は思う。土方が彼らを家族のように思っていたから、彼らも土方を大事に思った。淋しさも苦労も、ずっと見てきたのだ。そっと見ると、彼の端正な横顔は、真っ直ぐ天井を向いたまま微かに笑んでいた。

「…もっと」
「え?」

 ついさっきまでの、どうにもできない動悸が今は随分と静まっていて、斎藤は土方を真似るように仰向けになって天井を見た。この家はこの人の、三番目の家になれるだろうか。家族のように気を許す相手に、自分はなれるだろうか。

「もっと聞きたいです、土方さんのこと」

 あんたのことが知りたい、と気持ちを込めて言ったのに、土方はそれへ頷いてくれず、逆に問い返してくる。

「俺ばっか喋ってるじゃねぇか。そんならお前ぇはどうなんだ? お前ぇの家族は?」
「俺ですか。俺も、両親はもう居ないです」
「病気でかい?」

 二十歳にもなっていれば、親がもうこの世に居ないことなんか珍しくない。病で、火事で、天変地異で、多くのものが命を落とす。だから土方は何気なく聞いたのだ。問われるなり斎藤は軽く唇を噛んだ。とうに過ぎ去ったことだけれど、未だに悔やむのをやめられないでいるからだった。

「…父は役所勤めだったんです。忙しくて、大きな鞄に大事な書類を詰めて持ち帰って、家でも遅くまで仕事をしていました。母も一緒に起きていて手伝いをしてたんです。いつもぱんぱんに膨らんでた父の鞄に、役所の金でも詰まっていると思われたんでしょう。ある夜、押し込みに入られて、両親も使用人も、俺以外、全部」

 その夜の強い風の音を、斎藤は忘れられない。細く長く聞こえたり、ごうごうと太く響いていたあの風の音の中に、父や母の悲鳴が混じっていたのかもしれなかった。父の書斎から離れた部屋で寝起きしていた斎藤は、それをただ風がうるさいとだけ思って、剣の稽古の疲れのせいで深く眠って、朝まで目を覚まさなかった。

「その時もう何年も、師匠に剣術を習っていたのに、何の役にも立てられなくて、あんまり不甲斐なくて、しばらく竹刀を握ることが出来ませんでした」
「……そりゃあ」

 不幸だったなと言葉にすることが、土方には出来なかった。辛いことを話させてしまったと詫びるのも、何か違うと思えた。

「幾つの頃だい」
「十三」
「でも、お前ぇはちゃんと剣の道へ戻ったんだな」
「それからしばらく後、師匠が此処で剣術道場を開いて、住み込みで自分を手伝えと俺に言ってくれたんです。守りたいものはこれから先もきっと出来る。竹刀に触れるのが嫌なら、自分の剣を貸してやるから、ちゃんと前を向いていろ、と」

 部屋の隅の刀掛けに、斎藤の刀がきちんと乗っていた。中味は木刀と聞いているそれが、本当は木刀などではないことを、土方はとっくに気付いていた。

「それ、お前ぇがいつも腰に差してる、あれかい?」
「…そうです。嘘をついていてすみません。簡単には抜けないように、鞘と柄を目立たない糸で幾重にも縛ってますけど、中味は真剣です。師匠の形見だ」
「木刀かそうじゃないかなんて、持っているのをみりゃあすぐ分かる。大事なもんなんだろうなって思ってた。それで? 守りてぇもんは出来たのか」

 するりとなされた問いに、斎藤は首を横へと倒して、土方の方を真っ直ぐに見た。自然と唇に笑みが乗った。今更、師匠に深く感謝したい気持ちだった。

「えぇ、土方さん。出来ましたよ、大事なもの」
「だよな、お前ぇの目を見りゃわかる。やっぱり羨ましい。比べて俺はただただ強くなりてぇだけだ。別に何を守るわけでもねえ。強いて言えば、薬屋だからって舐められるのが嫌だ」

 それを聞いた斎藤は内心で思っている。土方さんはもう充分に強いのに、自分でそれを知らなすぎる。知らないでいるから周りが勝手にそう思うのだろうか。この人は強いんだってことを、そういうやつらに見せてやりたい。まるで自分のことのように、見返したいと思った。

「土方さん、俺が」

 あんたを強くしたい、と言い掛けた斎藤に土方は気付いていない。

「俺は本当はこんな色が白いのも、こんな顔なのも嫌なんだぜ。こんなんで強いわけねぇって、はなから決めてかかられるのがよ」

 言いながら、がばり、いきなり布団を跳ねのけて、土方は白い夜着の胸を大きくはだけた。着ている着物より白い素肌を間近で見てしまい、斎藤は目がちかちかしてしまう。

「や、やっぱり素振りしてきます」

 壁の方に激しく寝返り打って起き上がると、斎藤は土方から顔をそむけたまま廊下へ出て行こうとする。それを見た土方は、はだけた着物を整えもせず、彼に付いてきた。

「そんなら俺も行く。お前ぇと同じことをしてりゃ、お前ぇみたいに強くなれるんだろう、付き合わせろ」
「…えぇ…?」

 結局、斎藤は土方に背中を向け、目を閉じて素振りをすることになった。精神統一の鍛錬だ、これは、と何度も彼は唱えていた。




 狭い中庭で辛うじて距離を取り、いったい何時間素振りをしていたのだろう。あんまり斎藤が平気そうな顔をしているから、土方も意地を張って竹刀を振り続けた。そろそろ空が白むという頃、どうにも指が痺れて、彼はとうとう竹刀を取り落とす。
 
「くっそぉ。持っていられねぇ」
「少し冷やした方がいいです。自分で出来ますか」

 他所を向いて、変わらず竹刀を振りながら斎藤が言った。

「そのぐらい出来るっ」

 台所へ行った土方は、汲み置きの水に布を浸して手首や指を冷やした。十も年下の若い斎藤に、自分はまったく追い付いていないのだと、今更のように悔しくて、彼は渡り廊下に腰を下ろし、そのまま仰向けに寝転がる。はだけた夜着だけのなりをして、そんな恰好、斎藤が見たらどう思うのか。

 でもすぐに追い付いてやる、と斎藤の涼しい顔を思い出しながら呟くと、熱を持った右の手のひらで顔を覆った。

「あー、あったけぇ」

 朝の冷えた空気の中、己の手のひらの温みが気持ちいい。どっと疲れが来て、土方はそのままで眠ってしまうのだった。

 そして彼は夢を見た。

『あんたも大変だ』

 夢で、誰かが自分に言っていた。川の匂い、流れる水の音。時折視野を遮るのは、風に揺れている柳の葉。夢の中でも彼は、少し前まで竹刀を振っていたのだ。試合った相手は、太吉だった。

 あぁ、これはあの夢の続きだ。

 夢の自分と重なっている、別の思考でそう思う。そうだ、これは数日前に見たあの夢。自分が土方トシゾウになっていて、若い頃の祖父の太吉を打ち負かしていた。

 じゃあ今、自分に話しかけたのは誰なんだ。夢の中の自分の視野は、夜が明けたばかりの淡い空の青。気だるげに彼は言った。

『斎藤か…』

 斎藤? 斎藤ハジメか。昔々のことを見ている夢だから、ひとじゃないのは分かっている。でも声が、随分よく似ていた気がして、土方の胸が変に鳴った。

『おめぇは昔から、妙なとこに出てきやがる』

 風は吹くのだ。柳の葉が、乱れ乱れて揺れていた。川面には淡い光が跳ねて、そして目の前の男が自分を、土方トシゾウを見ている。間近な顔がはっきりと見えた時、一息に帳が払われるように、夢は消えていた。


















時差邂逅