鳥の声が引っ切り無しに降る、日差しの淡い山中。
「あれはトラノオ。イブキ…トラノオだったかな。解毒作用。これが生えていれば近くに、センレン草もあるかもしれない。生態が似ているけど、そちらは喉の炎症によく用いられるそうで…」
山を歩く途中で、化野はぽつぽつと薬草の話をしている。十日ほども滞在した医家の家では、主に何を学んだのかと、ギンコが尋ねたからだった。
「あそこに咲いてる黄色い花はね、イワオトギリ。傷の薬だ。それから他に傷の薬と言えば、スズメノカラクサ。ゴマ粒みたいな小さな種子は、よく干してから煎じると腫れにも効く。毒草のニセカラクサとの見分け方が少し難しくて、葉の付き方が」
よく喋る。少し前を歩きながら、ギンコは内心でそう思い、咎めることなく聞いていた。声の響きや間の取り方、間違えて言ってしまった時に、暫しつっかえつっかえになるさまが、随分、似ている気がすると。
寡黙かお喋りかどちらだったかと思えば、やはりよく喋る方だった。ギンコが相槌すら放り出し、眠くて目を閉じ気味になっていたとしても、平気でどんどん喋って、しまいには脱線して、眠りかけているギンコに、おい、なんの話だったかと聞いたりしたことも。
「……ふ…」
前を歩むまま、小さく笑ったその気配を、どうやったら気付けるかなんて、ギンコは知らない。
「今、笑った? ギンコ」
「いや…」
「笑っただろ。確かによくつっかえるけど、覚えたてのを思い出しながらなんだよ」
勘弁してよ、と少し拗ねたような声。だから振り向いた時、まだ少しギンコは笑っていた。その顔を、姿を見た途端、化野は歩くのをやめて、呆けたようにギンコのその顔を眺めてしまう。
「…ギンコ」
「どうした?」
「なん、でもないけど…。なんでもないよ」
「おかしな奴だな。ぼうっとしてまた転ぶなよ」
揶揄するように笑う。きっとギンコは笑っている気など無い。ほんの淡く、頬だけが微かに緩むような、微かな。
「ギ、ン。…あ…っつ、」
言われる傍から躓いて、転びかける化野に、また振り向いたギンコの、今度は目元まで笑った横顔。風に揺れて、一瞬翻った前髪の下の、閉じた瞼と白い睫。
ギンコは、きれいだ…。
また笑われてしまわないように、慎重に斜面を登りながら、紛いようもない想いを抱いて、化野はまたギンコが振り向いてくれないかと、木漏れ日の当たる白い髪を見ている。
髪も、綺麗だ。こうして後ろを歩きながら見ている、歩きどおしの後ろ姿。足の運びさえ、たどたどしさの一片もなく綺麗だと。
登り切った少し広い日当たりに、丁度良く一本の木があって、その下には、用意されたような大岩がある。ギンコは先にそこへついて、背から木箱を下ろし、吹き渡っている風を浴びながら遠い山脈の重なりを眺めた。
化野は疲れた風を装い、岩までは行かずに立ち止まり、少し離れたところからギンコを見ている。隣まで行ったら、そんなあからさまに見つめることは出来ない。
「いい風だね、ギンコ」
「…あぁ」
きれいだね、ギンコは。
言えない言葉が、唇にのってしまいそうな気がして、小さく息を飲む。見惚れてしまった目を逸らすのが、酷く難しい。もぎ離すようにして、化野は俯いた。
忘れていたのに、今更のようにまた思い出す。膿んで腫れていた傷口を、ギンコは唇で吸ってくれた。その唇の感触どころか、吸われる寸前に肌に髪が触れた感触さえ、変にはっきりと覚えている。そんなことを思ったら、今度はギンコの唇へと、視線がいってしまう。
そうしていつの間にか、当のギンコがじっと化野を見ていて、ふい、とその視線は逸らされた。
「そうちょくちょく休んでもいられねぇんだ。ちゃんとここへきて休めよ。脚は大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ…」
仮病なんて、駄目だ。そう思いつつ、痛むと言えば、また腫れてきたと言えば、触れて貰えるのかと考えてしまいそうだ。けれど本当は、触れて貰うよりも、ふれたいのだ、とも。
「化野」
「…え…っ」
「薬草を」
「薬草?」
背から下ろしていた木箱から、幾つか抽斗を抜き取り、岩の上にそれを並べて、ギンコはその中から幾つかの薬包紙を化野へと差し出す。
「いろいろ学んできたんだろ? 常備しているこの三つの薬、薬草がここらに生えてる筈だから、少し休んだらそれを探してみろ。合ってたら、次はその煎じ方と用法を」
「う。わ、わかったよ」
焦った顔になった化野が、すぐにその三つの薬包紙を開き、色合いや匂いで確かめて、道から逸れたところへ分け入っていく。ちゃんと生えている木や、日当たりなども確認し、足元の枯れ葉を拾ったりして思案している。これは本当に、いい師に学んだようだとギンコは頷いた。
少しずつ遠くなる背を眺めて、ギンコは静かに息をつく。案外と負けず嫌いだった化野。このくらいできるだろう、などと、そんな空気を言葉の端に滲ませれば、よしやってやろうみていろよと、言わんばかりの顔になったものだった。
そんなことまで、よく似ているよ。
似ている理由も分からないのに、気付けばこうして試すようなことをして、罪悪感なのかなんなのか、居心地の悪さに、ギンコの身は焦げるようだ。似ているお前だから、こうすれば一時でも離れるだろうとも思った。
そこかしこに触れてくる視線の強さ、なぞるような眼差しを、その上から更になぞるように肌の上に感じてしまう。触れられたいと、心のどこかで。
ごく、とギンコは息を飲んだ。風が冷たいのが悪いのだ。温もりが欲しくなる。冬になるたび、あいつの里を避けていたのまで、思い出して苦しくなる。あぁ、今はどの季節にあの里に行っても、もうあいつは。
あの里に響く波の音も潮の香りも、人々の営みも変わりはしないのに、あいつだけがいない、あの風景。がらんとした縁側が思い浮かんで、息が出来なくなってくる。
知らぬ間にギンコは膝を抱え、体を丸めて蹲っていた。四肢をー縮込めた格好が、まるで心細くて堪らない子供のよう。きつく目を閉じれは閉じるほど、波の音と潮の香りを思い出し、あいつのあたたかな声が、耳に。
「ギンコ…」
求めていた通りに名を呼ばれ、ふ、と顔を上げたギンコの目は、うっすらと濡れて揺れていて。
けれど、間近で重なった視線を、もぎ離すように逸らしたのは化野の方だった。赤く染まった首筋が、どういう意味の動揺なのかを、真っ直ぐにギンコに知らしめる。
「薬草、見つけたのか?」
平気な振りが出来るのは、その分ギンコが大人だからだけれど、薄氷を踏むように、実はそれは危うい。
「…あ、うん、これ。確かこの本にも載って」
荷の中から慌てて引き出した一冊の本を、ギンコの目の前でぱらぱらと化野は捲った。探し当てて広げると、書き入れられた細かな文字が見える。薬草の実物を模写したらしい絵と。
「ほら、ここに」
「……。あくまで手本は見ないで、確信できるようじゃなきゃまだまだ、だ」
伸ばされたギンコの手が、開いた本を静かに閉じさせる。その指が震えているのを、目敏く気付いた化野が、不思議そうに眺めていた。視線がギンコの顔を覗き込む寸前に、ギンコは横を向いて素っ気なく言った。
「まぁ、合ってるけどな、三種とも全部。そろそろ日が落ちる。風が冷たいから久しぶりに安宿でも取るつもりだ。悪かったな。急に薬草探しなんかさせて」
足は大丈夫なのかと言下に聞いて、それでもそのまま、ギンコは里へと下りる道を歩き始めた。集めてきた一株ずつの薬草を、一体どうしたらいいのか、問う機会さえ、化野は逸してしまったのだった。
安宿の一室で、化野はさっきも開いていた本を見ていた。ギンコはその傍には寄れずに、部屋の逆端で木箱の中身を整理している。化野の取ってきた薬草の葉は、ほんの少しでも無駄にするまいと、雑紙に挟んでしまっておこうと思う。
感冒、腹の薬、傷薬。どれもいつも、化野の里で調達していた。あぁ見えて几帳面な化野は、ギンコに薬を渡してくれる時、薬一種につき一つの袋に入れてくれ、その紙の表に彼らしい字で薬の名前を書き入れてくれ…。
その字を、ギンコはよく覚えている。何年経とうと忘れないだろうと思う。ほんの一瞬でも何処かで見たら、すぐにそれと気付く筈だ。そう、実際に気付いてしまった。そんな筈はないというのに、まるで直感のように、あの本にあったのが、化野の字だと。
数冊の医術や薬草の本を、医家の家で譲り受けてきたことは聞いていた。でも中身を見たのは今日が初めてだ。
ギンコは思っていた。
一体自分は、何を見たのだろうと。
そうだ、化野はなんて言っていた?
あの家に居たのは年老いた医家だったと、
そう言ってはいなかったか…?
「化野」
何を聞くつもりだったのか、振り向いた視野で、化野は足の包帯を解いていた。やはり無理が掛かっていたのか、その足首は少しばかり腫れていた。
続
この手前の8話で一区切りつけて、ここからは潮彩 続 1 とするつもりだったんですけども、区切ってない感じになりましたので、もうちょっと無印?潮彩でお送りしようと思い直しました。数か月振りなので、入り方がちょっとうまくいってない気もしなくもないのですが、どうもすみません、ぼちぼちちゃんと入って行きたいです。頑張らなくっちゃ。
こんなべらぼうに長い連載を、読んで下る方、本当にありがとうございますっ。
14/06/29

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