潮 彩  続・輪廻  9  

 鳥の声が引っ切り無しに降る、日差しの淡い山中。

「あれはトラノオ。イブキ…トラノオだったかな。解毒作用。これが生えていれば近くに、センレン草もあるかもしれない。生態が似ているけど、そちらは喉の炎症によく用いられるそうで…」

 山を歩く途中で、化野はぽつぽつと薬草の話をしている。十日ほども滞在した医家の家では、主に何を学んだのかと、ギンコが尋ねたからだった。

「あそこに咲いてる黄色い花はね、イワオトギリ。傷の薬だ。それから他に傷の薬と言えば、スズメノカラクサ。ゴマ粒みたいな小さな種子は、よく干してから煎じると腫れにも効く。毒草のニセカラクサとの見分け方が少し難しくて、葉の付き方が」

 よく喋る。少し前を歩きながら、ギンコは内心でそう思い、咎めることなく聞いていた。声の響きや間の取り方、間違えて言ってしまった時に、暫しつっかえつっかえになるさまが、随分、似ている気がすると。

 寡黙かお喋りかどちらだったかと思えば、やはりよく喋る方だった。ギンコが相槌すら放り出し、眠くて目を閉じ気味になっていたとしても、平気でどんどん喋って、しまいには脱線して、眠りかけているギンコに、おい、なんの話だったかと聞いたりしたことも。

「……ふ…」

 前を歩むまま、小さく笑ったその気配を、どうやったら気付けるかなんて、ギンコは知らない。

「今、笑った? ギンコ」
「いや…」
「笑っただろ。確かによくつっかえるけど、覚えたてのを思い出しながらなんだよ」

 勘弁してよ、と少し拗ねたような声。だから振り向いた時、まだ少しギンコは笑っていた。その顔を、姿を見た途端、化野は歩くのをやめて、呆けたようにギンコのその顔を眺めてしまう。

「…ギンコ」
「どうした?」
「なん、でもないけど…。なんでもないよ」
「おかしな奴だな。ぼうっとしてまた転ぶなよ」

 揶揄するように笑う。きっとギンコは笑っている気など無い。ほんの淡く、頬だけが微かに緩むような、微かな。

「ギ、ン。…あ…っつ、」

 言われる傍から躓いて、転びかける化野に、また振り向いたギンコの、今度は目元まで笑った横顔。風に揺れて、一瞬翻った前髪の下の、閉じた瞼と白い睫。

 ギンコは、きれいだ…。

 また笑われてしまわないように、慎重に斜面を登りながら、紛いようもない想いを抱いて、化野はまたギンコが振り向いてくれないかと、木漏れ日の当たる白い髪を見ている。

 髪も、綺麗だ。こうして後ろを歩きながら見ている、歩きどおしの後ろ姿。足の運びさえ、たどたどしさの一片もなく綺麗だと。

 登り切った少し広い日当たりに、丁度良く一本の木があって、その下には、用意されたような大岩がある。ギンコは先にそこへついて、背から木箱を下ろし、吹き渡っている風を浴びながら遠い山脈の重なりを眺めた。

 化野は疲れた風を装い、岩までは行かずに立ち止まり、少し離れたところからギンコを見ている。隣まで行ったら、そんなあからさまに見つめることは出来ない。

「いい風だね、ギンコ」
「…あぁ」

 きれいだね、ギンコは。

 言えない言葉が、唇にのってしまいそうな気がして、小さく息を飲む。見惚れてしまった目を逸らすのが、酷く難しい。もぎ離すようにして、化野は俯いた。

 忘れていたのに、今更のようにまた思い出す。膿んで腫れていた傷口を、ギンコは唇で吸ってくれた。その唇の感触どころか、吸われる寸前に肌に髪が触れた感触さえ、変にはっきりと覚えている。そんなことを思ったら、今度はギンコの唇へと、視線がいってしまう。

 そうしていつの間にか、当のギンコがじっと化野を見ていて、ふい、とその視線は逸らされた。

「そうちょくちょく休んでもいられねぇんだ。ちゃんとここへきて休めよ。脚は大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ…」

 仮病なんて、駄目だ。そう思いつつ、痛むと言えば、また腫れてきたと言えば、触れて貰えるのかと考えてしまいそうだ。けれど本当は、触れて貰うよりも、ふれたいのだ、とも。

「化野」
「…え…っ」
「薬草を」
「薬草?」

 背から下ろしていた木箱から、幾つか抽斗を抜き取り、岩の上にそれを並べて、ギンコはその中から幾つかの薬包紙を化野へと差し出す。

「いろいろ学んできたんだろ? 常備しているこの三つの薬、薬草がここらに生えてる筈だから、少し休んだらそれを探してみろ。合ってたら、次はその煎じ方と用法を」
「う。わ、わかったよ」

 焦った顔になった化野が、すぐにその三つの薬包紙を開き、色合いや匂いで確かめて、道から逸れたところへ分け入っていく。ちゃんと生えている木や、日当たりなども確認し、足元の枯れ葉を拾ったりして思案している。これは本当に、いい師に学んだようだとギンコは頷いた。 

 少しずつ遠くなる背を眺めて、ギンコは静かに息をつく。案外と負けず嫌いだった化野。このくらいできるだろう、などと、そんな空気を言葉の端に滲ませれば、よしやってやろうみていろよと、言わんばかりの顔になったものだった。

 そんなことまで、よく似ているよ。

 似ている理由も分からないのに、気付けばこうして試すようなことをして、罪悪感なのかなんなのか、居心地の悪さに、ギンコの身は焦げるようだ。似ているお前だから、こうすれば一時でも離れるだろうとも思った。

 そこかしこに触れてくる視線の強さ、なぞるような眼差しを、その上から更になぞるように肌の上に感じてしまう。触れられたいと、心のどこかで。

 ごく、とギンコは息を飲んだ。風が冷たいのが悪いのだ。温もりが欲しくなる。冬になるたび、あいつの里を避けていたのまで、思い出して苦しくなる。あぁ、今はどの季節にあの里に行っても、もうあいつは。

 あの里に響く波の音も潮の香りも、人々の営みも変わりはしないのに、あいつだけがいない、あの風景。がらんとした縁側が思い浮かんで、息が出来なくなってくる。

 知らぬ間にギンコは膝を抱え、体を丸めて蹲っていた。四肢をー縮込めた格好が、まるで心細くて堪らない子供のよう。きつく目を閉じれは閉じるほど、波の音と潮の香りを思い出し、あいつのあたたかな声が、耳に。

「ギンコ…」

 求めていた通りに名を呼ばれ、ふ、と顔を上げたギンコの目は、うっすらと濡れて揺れていて。

 けれど、間近で重なった視線を、もぎ離すように逸らしたのは化野の方だった。赤く染まった首筋が、どういう意味の動揺なのかを、真っ直ぐにギンコに知らしめる。

「薬草、見つけたのか?」

 平気な振りが出来るのは、その分ギンコが大人だからだけれど、薄氷を踏むように、実はそれは危うい。

「…あ、うん、これ。確かこの本にも載って」

 荷の中から慌てて引き出した一冊の本を、ギンコの目の前でぱらぱらと化野は捲った。探し当てて広げると、書き入れられた細かな文字が見える。薬草の実物を模写したらしい絵と。

「ほら、ここに」
「……。あくまで手本は見ないで、確信できるようじゃなきゃまだまだ、だ」

 伸ばされたギンコの手が、開いた本を静かに閉じさせる。その指が震えているのを、目敏く気付いた化野が、不思議そうに眺めていた。視線がギンコの顔を覗き込む寸前に、ギンコは横を向いて素っ気なく言った。

「まぁ、合ってるけどな、三種とも全部。そろそろ日が落ちる。風が冷たいから久しぶりに安宿でも取るつもりだ。悪かったな。急に薬草探しなんかさせて」

 足は大丈夫なのかと言下に聞いて、それでもそのまま、ギンコは里へと下りる道を歩き始めた。集めてきた一株ずつの薬草を、一体どうしたらいいのか、問う機会さえ、化野は逸してしまったのだった。




 安宿の一室で、化野はさっきも開いていた本を見ていた。ギンコはその傍には寄れずに、部屋の逆端で木箱の中身を整理している。化野の取ってきた薬草の葉は、ほんの少しでも無駄にするまいと、雑紙に挟んでしまっておこうと思う。
 
 感冒、腹の薬、傷薬。どれもいつも、化野の里で調達していた。あぁ見えて几帳面な化野は、ギンコに薬を渡してくれる時、薬一種につき一つの袋に入れてくれ、その紙の表に彼らしい字で薬の名前を書き入れてくれ…。

 その字を、ギンコはよく覚えている。何年経とうと忘れないだろうと思う。ほんの一瞬でも何処かで見たら、すぐにそれと気付く筈だ。そう、実際に気付いてしまった。そんな筈はないというのに、まるで直感のように、あの本にあったのが、化野の字だと。

 数冊の医術や薬草の本を、医家の家で譲り受けてきたことは聞いていた。でも中身を見たのは今日が初めてだ。
 
 ギンコは思っていた。
 一体自分は、何を見たのだろうと。
 そうだ、化野はなんて言っていた? 
 あの家に居たのは年老いた医家だったと、
 そう言ってはいなかったか…?

「化野」

 何を聞くつもりだったのか、振り向いた視野で、化野は足の包帯を解いていた。やはり無理が掛かっていたのか、その足首は少しばかり腫れていた。




続 

 

 

 この手前の8話で一区切りつけて、ここからは潮彩 続 1 とするつもりだったんですけども、区切ってない感じになりましたので、もうちょっと無印?潮彩でお送りしようと思い直しました。数か月振りなので、入り方がちょっとうまくいってない気もしなくもないのですが、どうもすみません、ぼちぼちちゃんと入って行きたいです。頑張らなくっちゃ。

こんなべらぼうに長い連載を、読んで下る方、本当にありがとうございますっ。


14/06/29