「……ほら」

 ギンコは木箱を化野の方へと押しやる。幾つかの抽斗を指差し、自分でしろと、言下に。

 化野はどこか恥じたように、唇を噛んで頷いた。触れて欲しい触れたいと望んでしまうのを、自分ではどうしようもない。それでも所作にまで願いが滲まぬように、必死でい続けるしかなかった。

「うん、ありがとう、もう殆どいいんだけど」

 木箱に触れさせて貰えることは、それでも嬉しい。小さい頃、ギンコの木箱に勝手に触って、何度も叱られたことを、じいちゃんやばあちゃんに聞かされてきた。終いにはギンコが呆れて、声立てて笑ったことも。どんなんふうに笑ったのか、見たくて堪らない。

 ギンコが声を立てて笑ったのなんか、俺、見たことがないよ。

「ギンコはさ、この木箱一つでどこへでも旅をしてきたんだね」
「……」
「…羨ましい」
「何、言ってんだ」

 馬鹿なことをと思って、言葉のお終いが揺らぐ。今のは旅慣れたさまを羨んだんじゃない、ギンコがずっと体に添わせ、いつも持ち歩いてきた木箱に、自分がなれたらと化野は言ったのだ。そんなことを言うのは止せ、と、言葉には出来なかった。言えば気付いたと教えることになるから。

 化野は、指し示された抽斗だけに手を掛けて、傷の軟膏と薄い当て布を取り出す。指先に付けた軟膏を、腫れた皮膚に薄く塗布する。包帯は少しきつめに、簡単には緩まないように気を付けた。

「もう、寝ろ。明日も早く発つ」
「もう? 俺、少しこの書物読んで」
 
 "化野"の文字の書かれた書を、ギンコの傍らにいるままで開くと。見るのだと。

「あまり、夜更かしするなよ」

 ギンコは布団に横になり、化野の方へは背中を向けた。蝋燭を灯して化野は書を見始める。熱心にしている気配は背中に伝わってきた。やめろと咎めることはやはり出来ない。紙を捲る音が、どれだけ心に刺さっても。

 とても眠れなくて、やがてギンコは身を起こした。

「どうしたの? ギンコ。灯り、うるさい?」
「…少し風に当たりたいだけだ。出てくる」

 逃げても何にもならないと分かっていても、折り重なり喉さえ塞ぐような思いが、ギンコの中で騒いで、とてもそこには居られなかった。気を付けて、と化野は不安そうに言ったが、自分も行くなどとは言わないように堪える。

 町中とは言え、人通りはあまり無い。見上げた空には星も見えず、漂う光は微細な蟲達だけ。

 運命はこんなにも残酷なのだ。

それも今に分かったことじゃない。心を、体を裂くような、刃物めいた鋭さを幾重にも秘めている。ばらばらに切り裂かれてしまえない事すらも、ギンコにとってただただ痛み。このまま、逃げてしまいたいと思う。

 あぁ、嘘吐きめ、ギンコ。

 逃げ出すことの安楽と、離れることの苦痛を、天秤にかけることも出来ない癖に。それでも逃げたい気持ちは消え去らない。傍に、戻りたくない。こうして離れれば、自分の中に膨れ上がっている欲求が、どんな形に育っているか見えてきてしまう。

 触れたいのだ。
 手を伸べて、向けられたあの背に、髪に。
 手を伸ばされ、触れられることを、
 それよりももっと、夢想している。

 冷たく凍るようだった、あの体。
 二度と動かない四肢、開かない瞼。
 もう触れてはくれない、手の代わりに。
 あの姿で、触れて貰えたなら。
 
 お前が誰でも、もう、構わないと。

「…っふ、ぅ……」

 気付けば足は止まらずに、宿から随分離れてしまった。もっと、町の外れをさらに過ぎて、細い道へと入り込む。木箱は宿にあるままだから、勿論戻るのだと思う気持ちと、木箱などなくとも、他の何がなくても、このまま遠ざかることが出来ないわけでもないと、知っていることと。

 よろめいて、道の端の木に肩がぶつかった。そのまま其処へと凭れて、木の幹に額を擦り付ける。苦しい。苦しい。胸へと手を入れ、心を掴み出してしまいたい。体と心を切り離せたら、この息の苦しさだけでも癒えるだろうか。

 胸に息づく記憶の欠片を、捨ててしまいたい、誰かに奪われてしまいたい。必死でそれを抱え込み、蹲ったままで願う矛盾。誰か、これを俺から、消し去って、くれ。

 胸の鼓動は、無数の蝶の、羽音に似て。

「ぅあ…。ああ…」

 抗おうと抗おうと、目開いた目の奥で、願いは結実していく。こちらから手を伸ばしさえすれば、簡単に叶ってしまう、その、叶えてはならない悪い夢。歓びに満ちた、消し去るべき願望。飛び来る一匹の蟲が、光の無い黒い姿が、蝶に見えた。

 あぁ、また追い詰めるのか? 
 そんなに、俺は、罪を犯したか… ?

 自分がどうなったのか、どうしたのか、ギンコには分からなくなった。恐慌に陥るように、何も見えなくなったのだ。気付いた時には真っ暗で、元々一つしかない目を開くことが出来なかった。四肢のうちの半分の、自由が利かない。
 
 顔を擦る泥のような感触。崖か何かから落ちたらしい。酷い怪我を負ったらしかった。どうせ全部が治ってしまうのに、と、そう思って少し這ったら、切るように冷たいものの中に、更に落ちた。

 あぁ、この痛みで、苦しさで、今だけでも色んなことが遠のくが、嬉しいくらいだから。

 もう…探すな、と、そう思った。

 

 
 気付いたら朝が来てた。広げたままの書に手を置いて、うつ伏せのままで眠ったらしくて、体が少し痛かった。蝋燭を無駄にして、叱られる。手持ちのものを要らなく浪費するなんて、旅を行くものの気遣いが足りていない。

「ごめ…ギンコ、蝋燭…」

 部屋にギンコは居なかった。気付いて、最初にしたことは木箱を視野に探すことだった。ちゃんとある。ほっとして背中の痛みに顔顰めながら起き上がり、それでも夜から、ずっと戻っていないことは分かって、ひいやりとする、心。

「ギンコ…」

 明かりとりの窓から外を見ても、行きかう人々の姿が見えるだけで、ギンコの姿が見えない。一泊の約束だから、自分の荷物とギンコの木箱と、両方を手にして表に出る。送り出してくれた宿の人に聞いても、知らないと言われた。

 その代わりに、向かいの茶屋の男が、見ていたことを教えてくれた。たまたま表を見たら、白い髪の男がこの道を真っ直ぐに、向こうへ行くのが見えた、と。

 どうして、と、問いそうになった。木箱がそのままあったからと、安心した自分が愚かなのかと、恐ろしくなった。でも唇を噛んで、男に礼を言って、歩き出すしかない。行った方向が分かっただけで、有り難いくらいなんだ。何もあてなく、ギンコを探した一年に比べたら…。

 見つけさせて、と、何かに強く祈る。

 出会う人皆に、化野は聞き歩いた。白い髪したギンコの見目のお蔭で、何人もの人が見たと教えてくれた。でも途中から誰も見ていないと言うようになり、それが宿のあった町から出た途端のことだったから、確信を持って化野は道を戻る。

 そして今度は人にではなく、道そのものに聞いた。元の町と、次の町の間の山道を、ゆっくりとつぶさに見て歩く。諦めずに丸一日探し回って、夜を迎えた。眠らずに、町の境で化野は休む。

 そして、彼の横を通った旅の親子が交わしていた言葉が、化野に"それ"を教えてくれたのだ。

「かあさん…。あそこ、変なものがいっぱい」
「えぇ? どこ。何にもないよ、おかしなこと言わないどくれ」

 小さな子供は母親に手を引かれながら、それでも気にして何度も何度も、谷へと下る斜面の向こうを見てばかり。化野もそちらを見て、そこには何もないと、そう思って、そして気付いた。その子が、何を見ているのかを。

 あの子は、群れている蟲を見ていた…?
 もしも本当に、そうなら。

 立ち上がり、道無き道へ踏み入って、すぐに分かった。誰かが足を滑らせた泥の跡、いくつかの折れた枝に、千切れた沢山の葉。祈るような気持ちで、化野は急な斜面を下りる。でも途中で進めなくなった。そこにあったのは、切り立った崖だったから。

 でも、諦めるなんて選択肢はなく、月明かりにいくつもの迂回路を探して、探して、ようやく崖下に下りられたのは、深夜をとうに回った、明け方前だった。

「……ッ、ギンコ…っ!!」

 そしてとうとう見つけた。流れる川の中、倒木の傍に半分沈んでいる姿を。

 駆け寄り、抱き起こし、月明かりしかなくともわかった。あちこちに血の色のついた体。腕も足もあり得ない方向に曲がって、あまりにも惨い姿の、その顔にも、血…。

 胸が潰れるような、と言うのは、こういう気持ちを言うのだと、か細い鼓動の音に感謝しながら、それでも化野は、思ったのだ。











 
こんなところで続くでごめんなさい、としか言いようがなく…っ。私の胸も正直潰れそうです。そんなに「彼」は罪を犯したのか?って、それも私も問いたいんですっ。

 え? お前が書いてんだろうって?
 いや、まぁ、それは…。うん。

 ここは、脱兎のごとくっ。お読み下さった方、ありがとうございましたっ。



14/08/03


















潮 彩  続・輪廻  10