Rajul Bila Wajah … 11  





 ゆるゆると、時計のように旋回する星空の下、崩れる砂を素足で踏みながら二人は歩く。

 一歩ごと何十分の一かずつ、此処から切り離されていくような気が、化野はしていた。不思議と恐ろしくはなかった。まるで、夢の中に居るかのように。けれども、けして離すまいと思っていたのに、気付いた時にはギンコの手を、化野は離してしまっていた。

 触れられるほどはつかず、届かぬほどには離れず、化野はギンコの踏んだ砂の跡を、一心に歩いている。視線は一度たりとも離さない。さらさらと崩れる大地に、すぐに消える足跡をひとすじつけながら、瞬きすら惜しんで、何処までも。

 いつからか、小さな声でギンコは、詩を歌っている。どこかで聞いたことがあると思って、少しして気付いた。コーランだ。神様と、ヒトとを繋ぐ言葉。
 
 ひらひらゆらゆらと揺れる白い布が、風に大きく翻ると、一瞬にして彼が、どこかに消えてしまいそうで、怖くて何度も、捕まえてしまいたいと思って、でも出来ない。手を伸ばして、その手がすり抜けたらと思うと、竦んでしまって、どうしても…。

「…分るかい…」

 ふと、体ごと振り向いて、ギンコがそう言った。彼の目が確かに自分を見ていることに、化野は慄いて、返事をするのが遅くなる。

「化野…?」
「…あ、わ、分るよ、コーラン…だろう…?」
「あぁ。そうだ。クルアーン、とも言うな。よく、彼らが唱えるのを聞いているから、知らない間に覚えた」

 また、白い布が翻る。消えるのでは、と思う。

「ギン…っ。あ…。お、覚えられる、もの、なんだね…」

 たどたどしく答えた化野を、ギンコが真っ直ぐに見た。そしてどこか悲しげに、言った。

「なんて顔して、見てるんだ…?」
「だ、だっ、て…」

 ギンコの顔を、化野も見る。けれどその向こうに広がる。怖いほどに果てしない夜空に、彼は慄いて、何も言えなくなってしまう。

「…だって……」
「化野」

 ギンコは化野の方へと、手を伸べた。だけれど、届く距離なのに彼からは触れようとせずに、化野の手を待つのだ。

 触れてくれ。
 捕まえてくれ。

 届かないなんて、
 触れられないなんて、
 世界も、俺も、
 言ってない。

 広い広いこの砂漠も、果ての無いほどの夜空も、俺と、あんたとの間にあるわけじゃない。互いの間にあるのは、風に巻き上げられたこの砂ぐらいじゃないか。時の流れに、隔てられたりなんかもしない。こうして同じ、此処に居る。

「ギ…」
「…あんたは見たまま、意気地が、ねぇなぁ…」

 くしゃりと笑って、ギンコがもう一歩、化野に近付いた。そうして彼の手をしっかりと掴んだ。乱暴なぐらいに、急に引き寄せて、ぶわり、大きく広がる白い布の中に、化野の体をすっぽり包んでしまうのだ。 

「いいよ。いつかで、いい…」

 ひょお、と風がひときわ強く吹いた。やがて風が止み、布を打つ微かな砂の音が消えた時、ギンコに抱かれたまま砂に座り込んで、化野は気付いてしまった。震えているのだ、彼が。スグロの言葉を、思い出す。

 
 あんたも
 怖いんだろうけど、
 でも、あいつも。
 あいつもな…


 怖い…? いったい、何がだろうか? こんな異国の地に居て、まるで其処に生まれたかのように振る舞い、人々に好かれ、愛され、畏怖すらされて。だってギンコは、長よりもずっと、大きな存在に思えた。いいや、それどころじゃなく、もっともっと、もっと。

 ただのちっぽけな人間の自分が、彼と言葉を交わし、彼の手に触れられることが、何かとてつもない、間違いのような気すらして。
 
 でも、あぁ、でも。彼は震えている。悲しげな目をしていたじゃないか。そしてすがるように、俺を抱いているんだ。

 化野は、意気地のない自身に心折れそうになりながら、それでも必死で、自分にできることをしようと思った。知りたかったこと、知りたいと思うことを、今この場で彼に聞いたのだ。

「君は、いつも"そう"なのかい? ドバイで。ドバイの飛行機で会った時、言っていたろ? この国での仕事が終わったから、次の国に、って。もしかして君は、別の国に居ても"こんなふう"なのかい? それでいつも、撮影…とやらのたびに、違う国に行って…?」

「………そうだよ…」

 ギンコの返事は、彼の胸を通して化野に届いた。風は今は無くて、舞うのをやめた白い布、極薄い布一枚を透かして、ギンコの顔が微かに見える。

「だいたい、自然の只中に。それか、神殿とか。古い教会とか。遺跡とか、な。そういうところへ呼ばれる」
「よ、呼ばれる、って…。か、神様の声とか、そういう…?」
「はは。違う。其処で撮りたいらしいから、其処に行ってくれ、って連絡が来て、そしたらスグロと。でも現地に行ってから『呼ばれる』のは。そうかもな。時々、意識が飛んで、何してるかわからなくなって、気付いたら酷く疲れてて、眠いから」

 ぎゅう、とギンコが化野を抱いた。二人の顔の間に一枚残っていた、薄布がはらりと落ちて、気付いたギンコが、彼の頬に頬を寄せてくる。まるで幼子のような仕草で。

「それが君は、怖い、のかい?」
「……あんただったら、怖くないのか?」
「それ、は…」

 拗ねた声で問われて、やっと化野は考えた。もしも自分だったらどうだろう。まるで魂が何処かへ行ってしまっていたみたいに、何をしていたか分らなかったりしたら。そのうえ、その国の人間に、妙に敬われたり、親しかった筈の人に、理由もわからず遥か遠い存在…みたいに思われたら。

「下手をすると、丸一日覚えてない時だってある」

 化野が黙っているので、焦れたのだろうか、ギンコが重ねてそう言った。

「意識が遠くなって、このまま向こうにいくのか、って、思って。でもそういうのを、その国の人たちは、見ていて急に近付いてこなくなったり、するし。神々しいとか、言って。俺は俺なのに。友達が、友達じゃなくなる、みたいに」
「その。なら、しなければ?」

 そんなふうになるのが嫌なら、そういう場所に行かなければいいんじゃ。と、化野は言ったのだろう。そうしたら、ギンコは急に化野の体を離して、つ、と立ち上がって背を向け、歩き出したのだ。

「…そうだよな。その通りだと思うさ、俺だって。でも、石ばかりの国にいると、息ができなくなる。旅を…したい、って思って、抗えなくなるんだ」

 ふふ、とギンコは笑う。白い布を翻し、歩き辛い砂の上なのに、ステップを踏むように、くるり、回って見せながら。

「俺の居場所は、何処でもない。そんな気がする。故郷なんてものは無く、いつも糸の切れた凧みたいに、あっちこっち、ふらふら、って。何処かへ行きたい、何処でもないところへ、って、そういうわけの分らない想い。そう想って、こんな遠いところまできて、そしたら地面からこう、足が離れて魂が体から抜けて、ふう、っと…」

 くるりくるり、回っているギンコの目から、不意に光が消えた気がした。化野は心底怖くなって、必死でギンコに手を伸ばした。届いたのは、彼の纏った白い布の端で、それで引き留められるなんて思えなかった。

 だけれどギンコの体は止まった。くん、と軽く布を引っ張られただけなのに、ぴたりと止まって、化野を見たのだ。

「なんで、引き留めるんだ?」
「なん…。なんで、だろう」
「そんなことも分らないのに、引き留めるのか?」
「ご、ごめん。でも居なくならないで、欲しいんだ…っ」

 ギンコは化野の前に膝をつき、彼と顔の高さを同じにし、彼の頬に片手で触れた。そうして月や星たちからも見えないように、添えた手のひらの陰で、唇をそっと重ねる。

「なら俺を、離さないでくれ。手は離しても、眼差しは離しても、心を、離すな。そしたら俺は、何処へ行ってもあんたのところへ、きっと戻るから。あんたは俺の…」

  muearadat alqadr

「だろう? …いつだって、信じて待っていてくれるなら、な」

 また目の前で、ふわりと翻る白。美しい姿。化野はぽんやりと彼の言葉を受け止めて、それからはっと我に返り、待つとも、と、強く頷きながらもまた思う。だから、そのムエラダットアルカドルってのは、なんなのか。

「ギンコく…じゃなくて、ギンコ…っ。それ、その言葉の意味、気になるから、教えてくれないか」
「え…? はははっ、日本に帰ったら辞書でも引きなよ」

 笑いながらギンコは走って、進む先に居た自分のラクダに、華麗に跨り、緩やかに走り出す。化野も焦ってラクダを呼んで、なんとかかんとか座って貰い、よじ登って跨ると、彼の乗ったラクダは命じられるまでもなく、ギンコのラクダについて行った。

「夜が明けるよ、化野」
「うん、そうみたいだね。夜に朝が混ざるみたいで、空が綺麗だ」
「…急がなけりゃ。あんた、もう休暇が終わるだろ?」

 無造作に言われて、夢から覚めたような気がした。そうだ、移動を考えたら、もうぎりぎりなんじゃないだろうか。やっと、やっと会えたのに。

「き、君はまだ、帰らないのかい?」
「そうだなぁ、誰かさんが撮影の途中で乱入したから、少なくともあと一日は砂漠に居なきゃならないし、次の国もあるしな」

 撮影のことを言われて化野は青ざめたが、そんな彼の近くにぎりぎりラクダを寄せて、その胸へ、とん、とギンコは額を付けた。

「あんたにやった刺繍の飾りは、大切な印なんだ。俺が渡して、あんたは受けた。だから『約束』したんだと俺は思ってるよ」
「ありがとう、嬉しいよ。待っているから」

 そんなこととは知らずに受け取ったけれど、あの時も嬉しかった。そして今は、比べ物にならないくらい、もっと嬉しい。

 眩しいほどに明るい太陽が、砂漠の夜を朝へと開く。開けていられないほど目が痛くて、ちゃんと行くべき方向にラクダが進んでいるかどうか、化野は不安に思った。その心配に気付いたのか、ギンコが教えてくれた。

「あんたの乗ってるラクダは、俺の乗ってるこいつの伴侶だ。群でも目立つぐらい絆の強い番だから、万が一あんたが寝てたって、まずはぐれないよ。落っこちたら置いていかれると思うけどな」
「うぅ、気を付ける、よ」

 そんなふうにして、二人は彼らを待つ部族へと、戻っていったのだった。






 


 


 かなり終わりに近づいたものの、もうちょっとかかるやもしれません。あぁ、こりゃ年を跨ぐなぁぁぁ。こんな長編になるはずでは。いやでも凄く楽しいので、書けて良かったですっ。

 一応次回から、ストーリーを終わりへ向けて行きますので、今後もよろしくお願いします。てゆーか、この二人って、きっと「彼ら」の来世とか、そんななんだろうなーって今回思いましたです。

 ちょっと変でもいい、よそ様と違っていてもいい、あなたたちなりに幸せになってよねっ。ではでは、また来年~~。




2018.12.23