Rajul Bila Wajah … 12  





 つがいのラクダはゆったりと、早朝の砂漠を歩く。部族へ戻るまで、あとどれぐらいかかるのか化野には分からない。帰りの飛行機は何時だった? 空港まで行くのにどれぐらいかかる? 間に合わなかったら、どうなるのか。

 少し考えてみて、化野は考えるのをやめた。そもそも今が何時か分からない。どうやって空港まで行けばいいのかも、聞くか調べるかしないと分からないのだ。無意味に焦るのはやめにして、彼はただただ目の前にいるギンコの姿を見ていた。

 微かな風にも、ひらひらと舞う白布に、それよりももっと澄んだ白をした髪。ラクダの手綱を取る手首には、自分と揃いの腕飾り。そういえば、ギンコの乗るラクダの手綱にも、化野の乗るラクダのたずなにも、美しい模様があった。

 きれいな模様。でも、これは…文字では?

 初めてそのことに思い至って、化野は自身の握る手綱を軽く引いてその紐を眺めた。その引っ張った動作を何かと勘違いしたのか、化野のラクダは歩みを止める。

「化野、手綱を引くな。レイルが混乱する」
「レイル?」
「そのラクダの名前だよ。こっちのはカマル。レイルは夜という意味で、カマルは月だ」
「へぇ、いい名だ」

 ギンコはわざわざラクダを後ずさらせ、化野の横へと並ぶと、彼の握っている手綱を緩ませた。その時、ちょうどギンコの手首の刺繍と、ラクダの手綱が、化野の目の前で近付いて…。

「あれ? 模様が似てるね」
「……」

 ギンコはすぐ手を引っ込めたが。彼の腕飾りと化野のそれは同じだ。だから化野は自分の手首にある刺繍と、ラクダの手綱のそれを見比べて、ほとんど同じ模様だと確信する。見れば、ギンコのラクダの手綱も同じ。

 どきり、と、した。

 だってギンコはこの二頭のラクダを、つがいだと言ってはいなかったか。それもとても絆の強いラクダだと。改めて思う。大切だというこの飾りは、どういう意味で大切なのか、と。
 
 どきどきと胸を高鳴らせながら、それでもギンコに問えはせず、やがて遠い砂丘の上に、ラクダに乗った数人のアマーズィーク達の姿を見る。

「迎えだ、化野。じゃあな、気を付けて帰れよ」

 ギンコは唐突にそう言って、すい、と手を伸べると、自分の手首の飾りを化野の手の中に押し付けたのだ。え、と思った。でも理由を聞くなどする間もなく、ラクダを駆けさせてギンコは遠ざかっていく。化野は慌てて、なんとかして自分もラクダを走らせたが、追いつけなかった。

 かなり遅れて砂丘の上に辿り着いた時、其処で待っていてくれたのはヤアグーブとメフディ。

『旦那っ』
『その…どうでしたい? 砂漠の夜と夜明けは』
『あ。あぁ、美しかったよ、とても』
『体調はどうです? 水が要るんだったら』
『いや、大丈夫、まだ残っているから。ありがとう』

 そうして、メフディが差し出してくれたのは化野の片方の靴。ギンコに渡されたのだと、彼らは言う。ヤアグーブは自身のラクダを下り、化野のラクダが掛けている布のたわみの中から、もう片方の靴を取り出してくれた。

 右足と左足に、靴をきちんと履かせてもらいながら、化野は思わず彼らに聞いてしまう。

『なぁ、教えてくれないか。この手綱の刺繍。何か意味のあるものなのかい?』
『…これ、ですかい? つがいの印でさ。本来はラクダの飾りにはしねぇが、この二頭は特別仲がいいつがいだそうだから、つけてもらってるんじゃ? 互いに相手との強い絆を結んだもの同士が、対で身に付けるとか、そういう』
『も、もう一つ教えてくれ。"ムエラダットアルカドル"っていうのは、どういう意味なのか』

 知りたい気持ちを留められず、化野は聞いた。その手首にはギンコに貰った刺繍の飾りが、そして手の中には、ついさっきギンコに渡された同じものが、ある。

 ヤアグーブは言ったのだ。少しの笑いも浮かべず、まっすぐに化野を見て、ごく小さな声で厳かに、静かに…。

『…同じでさ。そもそも、この詩集は飾り文字で、此処にも秘めて、そう書いてある』


 muearadat alqadr

 運命の、相手。


「そう、だったんだ…」

 ぎゅぅ、と化野はその刺繍を握った。でも、それじゃあ。どうして今、ギンコのそれは化野に渡された? 結婚の約束をした女性が、相手に指輪を返したら、それは婚約解消の意味になる。まさか、それと同じ、ってことじゃ……?

 約束を、した、筈なのに。

『旦那、そろそろ日差しが強くなりまさ。迎えのタクシーが来るまで、メルズーガに戻ってなきゃならねぇんで、あんまし時間がねぇけど、ちっと日陰に入っておいちゃあ?』
『…あぁ、ありがとう。そうするよ』

 化野は、ギンコから渡された飾りを、自分のそれと一緒に手首に付けると、ずっと乗っていたラクダを下りた。

『ええと。シュクラン、レイル』

 大きくて可愛いラクダの目を覗き込み、心を込めて礼を言うと、美しい刺繍の施された手綱から、彼は手を離す。休むための簡易の天幕に案内されて、入っていくと、そこには彼のボストンが置かれていて、スグロがそれを枕にしてごろ寝していた。

「おう、化野。うまいことギンコに会えて、一緒になれてよかったな」
「あ、はい、いろいろ、ありがとうございます」

 ぼんやりとそう言って、化野はふと思い出し、例の単語集を荷物から取り出して広げる。

 レイル 夜
 カマル 月

 それから

 ムエラダットアルカドル 運命の…

 それをひょい、と身を起こしたスグロが横から覗き込み、こう言った。

「なんだなんだ。それ、俺んじゃねぇか」
「え」
「いや、随分前の。ざっと数年前のだけどな、アラビア語まだわかってねぇ頃の走り書きだ。どうした? それ」

 化野がそれを手に入れた経緯を話すと、すげぇ偶然もあったもんだと、スグロは酷くおかしそうに笑い出した。そうして一頻り笑って笑い止み、人差し指で、とん、その単語をつつく。

「ギンコから聞いたのかい? この意味」
「いえ、彼に聞いても教えてくれなくて、さっきヤアグーブに」
「へーぇ。まぁ、あんま軽々しく音にする言葉じゃねぇからなぁ。アマーズィークにとっては重い言葉さ。声に出すのは、よほどの絆を誓う意味になるし、やぶったら命を落とす、ぐらいの、な」

 そこまで言って、スグロは視線を化野から外す。

「音にするなぁ、滅多にない。でも滅多にないそれを、あいつはどうやら何度も口にしてた。その刺繍に額を押し当て、繰り返し誓うように、人前で」


 muearadat alqadr

  muearadat alqadr

    muearadat

     alqadr


 俺にはもう運命の相手がいる。ここにあるのはその証。インシャアッラー。もしもその誓いに傷がついたら、この命、すぐさま引き裂かれても構わない。

「だから。あんたあの時、あっさりあいつの傍に行けたろ? 部族の誰もがその言葉を聞いてたからさ。あと、ついでだからもう一個教えるとな? 相手にそうやって自分のそれを託すのは、離れても魂は重なったままだ、という意味だ」

 そうやって教えてくれてから、スグロは片手でべたりと顔を覆って、わざとらしく反省してみせた。

「あー、言っちまった。あんまお前らがもどかしくてよ。こんな軽々しく言葉にするもんじゃねぇのにっ。アッラーよ、この二人の純愛に免じて、どうか許したまえ…!」
 
 すべてを聞いて、化野はその場にへたり込んだ。

「あ、会えますか、彼に…」
「悪ぃ、会えねぇ。あいつ戻ってくるなり昏倒しちまった。察するとこ、随分抵抗したんだろうぜ、あんたの前で、完全にあっちにいっちまわねぇように、さ。まず半日は起きねぇんで、諦めてくれ」

 そのあとすぐに、タクシーが既にメルズーガで待っていると知らせが来た。速足のラクダに乗せられ、行きと同じようにバシム達に守られて、化野はせわしなく砂漠から去らねばならなかった。これまでの礼を言いつつ、タクシーに乗せられ、最後にバシムから手渡されたのは、砂漠の砂の色をした布袋。

『土産だ。荷物になるだろうから最小限だがな、長からと、俺らからと、あとスグロさんからも入ってる。あんたはきっとまた此処に来る。アブヤドはこれからも何度も来るから、あんただって同じはずだ。その時まで、元気で』

 走り出すタクシー。きっとギンコほどではないけれど、化野も随分疲れていた。タクシー、電車、飛行機。ドバイの空港に着くまで彼は殆ど寝ていて、カサブランカからドバイに着くまでの間も、あまり記憶にない。ほぼ半日だ。常とは違う時間に、とっぷりと身を浸していた数日間の代償だった。

 ドバイから日本までの飛行機で、化野はやっと件の土産の袋を開けてみる。バシムからはシャウエンのカラフルなコースター。メフディとヤアグーブの二人からは、蠍の形を模した素朴な感じのお守り。長からは小袋に入った美しい砂漠の砂。

 綺麗だったり、珍しかったり、意外だったりして、ひとつひとつを化野は、丁寧に眺めては嬉し気に撫でて袋に戻す。最後に取り出したのは封筒に入った、手紙と…。

「え? これ、口紅?」

 手紙はスグロからだったので、口紅も彼からなのだろう。男の自分に何で、と思って読んで納得した。フェズでの最初の夜、ギンコがさしていた紅だと書いてある。手紙というよりもただの走り書きみたいに。


 色白で体の細いギンコは、
 おばちゃんたちから見たら、
 女の子に見えたりするらしい。
 東洋人は若く見えるし、
 あいつほんとに若いからなぁ。

 それで紅をひかれたりしちまうんだろうが。
 また冗談で済まないほど似合うんで、
 ますますその姿が浮き立って見える。

 男たちからはある種神々しく見られて、
 おばちゃんたちには女の子に見えるって、
 どういうことなんだか、よくわからん。

 まぁ、なんだ。
 面白いだろう? 
 記念にでもしてくれや。

  
 くすり、と笑って手紙を折り畳んでいたら、裏の下の方に、もう少し何か書いてある。それを読んで化野は、思わず大声を立ててしまう。


 そういや、あんた年幾つだ? 
 あいつと幾つさだか興味あるんで、
 次にあったら教えてくれるか?
 
 ちなみに言うが、
 あいつは


「え…ッッ! じっ、じゅうは…っ」

 ほぼ満席の飛行機の、周囲の客たちからじろりと見られ、化野は膝の上で手紙を縮めながら、自分も小さく縮こまった。う、嘘だ。全然そんなふうには。だ、だって、スグロさんは彼のこと、とっくに成人済だ、って、確か、そう。どういう意味だ。どっちが本当なんだ。今すぐ戻って、問い質したくてたまらない。
 
 けれども、砂漠での彼が、どこか幼く見えたのは確かで、もしもあれがギンコの本来だったとするならば。

「う…わ…。どうしよう、俺、キ…」

 化野は今年で二十七。十近く下の未成年の子に、無理やり、キスを。いやいや、あれは単に水を飲ませただけの。言ってみれば人工呼吸みたいな、ものだしっ。あぁ、でも、最初全裸を見たりとか、もしかしたら体の関係にだって、既になっていたかもしれなくて。

 続けていろいろと思い出し、化野の心臓はバクバクと煩い。

 あーーーー。そうか、
 それでスグロさん、彼の保護者…って。
 えっ、でもスグロさんと彼は昔っ。
 うわっ、うわぁ、もう、ダメだ。
 熱が出そうだ。ここはもう…。

 寝とこう、寝るしかないよ、もう。

 CAに毛布を借りて、化野は顔まで隠し目を閉じた。目の中に映るのは、美しくて神秘的で可愛くて、それで彼の「muearadat alqadr」のギンコの姿だった。なんとか眠っても、ずっと夢で見続ける。

 いったい、次はいつ会えるんだ?
 どうかすぐにも、会えますように。










 先生とうとう帰国! やたらと長い六日間だった気がする! ほとんど移動ばかりで、いろいろ気の張ることもあったし、彼のみの特殊な状況下に置かれるギンコほどじゃなくても、疲れて泥のように寝むるのもそりゃそうか、と思ったり。
 
 最後はあっさりとギンコは彼の傍から離れてしまって、書いてる私も「あー、淋しい」って思ってしまいました。この先のことは書いてみなければ分からないけど、改めて日本でのギンコは、内外共にどんな感じなのだろうか。とか。

 そういや12話のラスト近くに出てきましたけど…そうなんです、彼、凄く若いんです。このシリーズ、ブログに二話、が先にある話でしたが、ツイッタではそれ(年齢)についてもそもそと呟いていたりしました。ほんとにそうなっちゃった。こ、この、ティフルシーイめ! ですよ。

 親とか、どうなってるのか、とかはそういや考えてませんが、だからスグロが保護者なのかなぁ、ってね。いろいろと異色なお話でございます。あと一話で終わるかなぁ。頑張りますねっ。



2019.01.04