四
斎藤は土方の為に用意した防具一式を、両手で抱え持って渡り廊下を行く。片手に竹刀を握ったままで、土方は黙々とその背を追い掛けていた。
別にそんなつもりじゃねぇ。
剣術がしたいとか。
これっぽっちも思っちゃいねぇ。
その筈なのに、竹刀を握る手のひらが、脈打つように熱いのだ。
「軽く、手合わせしてみませんか」
「道場の師範のお前ぇとか。無様を曝すのはごめんだ」
前を歩きながら斎藤が言ったので、土方は半分笑ってそう答えた。笑っていながらにして、少し不機嫌になっている。元来負けず嫌いなのだ、十も年下に打ち負かされるのは嫌だった。
「そんな」
「手加減してくれるってか?」
真っ平だ。と、思っている。でも竹刀を離したくない。
「…なら、さっき見せた型でも」
折角道場まで来てくれるのに、機嫌を損ねられては台無しだと思ったのだろう。斉藤は困ったように声の調子を曇らせていた。誰も居ない道場に入ると、斎藤はまず高い場所にある神棚へ向けて、深く一礼する。
ついて入った土方は、斎藤と同じようにするべきかと思いながら、勝手が分からず突っ立っていた。ふと気付くと神棚の上には白いお神酒徳利があって、そのすぐ横には盃まで置かれていた。昨夜、彼が口を付けた盃だった。
「あれ…」
「え?」
「いや、なんでもねぇ」
遅れて彼も軽く一礼し、そのあとは観念したように、借り物の着物と袴を着て、防具一式を身に着ける。斎藤はその間土方に背中を向けて、床に膝をついていた。
「付けられますか」
言いながら、やはり斎藤は土方の方を見ない。気配や音で分かるのか、彼の支度が終わるのと合わせるようにして振り向いて、土方の斜め向かいに立った。
「じゃあ、同じようにしてみて下さい。まず、この姿勢から」
中段に構えた斎藤の視野で、土方はぴたりと同じ姿勢になる。竹刀の先は揺らいでさえいない。面をつけた奥の視線も真っ直ぐだ。それを見て斎藤は少し嬉しそうにするのだが、それを土方には見られないように顔を引き締めた。
あぁ、やはりこの人は、
剣術を知っている。
「最初にこう、正面。それから」
「…さっき見たばかりだ。分かる」
斎藤が教え始めても、真っ直ぐ前を見る土方の視線は振れなかった。彼の真ん前には神棚。丁度白いお神酒徳利が、その視線のやや上にある。それへ竹刀を向けるように、まず正面。そして小手、右胴。流れるように。
斎藤は中段に構えた姿勢のままで、土方を見ていた。突き、小手から面、払って面、引いて右胴。多少我流のきらいはあったが、それでも完璧に限りなく近い。けれど、斎藤が思ったまま、賛辞しようとした時、土方はやけに面白くなさそうな声で言ったのだ。
「型とか。こういうのはすぐ飽きちまうんだよ。どうせだったら、俺ぁはさっきお前ぇの見せたみたいな」
ひゅ、と短く風のなる音がした。新月の一夜前の、消えそうに細い月の姿のように、土方の竹刀が斜めに空を切っていたのだ。正眼から左下へと、鋭く。左へと流れ切るかに見えた竹刀は、かちりと音のしそうに向きを変え、右上へと高く跳ね上がる。そして瞬時、霞の構えを取った。
「こう、だったか?」
動きに従い、跳ねた土方の面紐が、少し乱れたままに止まった。指導することなど、斎藤の頭から一瞬で飛んでいる。唖然とした態で立ち尽くし、言った言葉はこれだけだった。
「あんたって人は」
「あ?」
怪訝そうな土方の声に、斎藤はいっそ笑いが込み上げる。
「いったい、どなたにどれだけ習っていたんですか」
手を覆っている籠手を邪魔くさそうにしてから、土方は竹刀をだらりと下ろした。
「世辞はいい。どなた、と言ったって、習ってたのは随分前だし、ひと月程度だったんだ。名前は覚えちゃいねぇよ」
「ひと月」
笑むのをもう隠しては置けず、斎藤は素直に土方を褒める。
「世辞なんかじゃない。筋がいいと言われた筈だ」
「どうだったかな、忘れた」
「……」
何か言いたげに言葉を止めて、斎藤は今度は土方の隣に立った。面のみを付けないままで、彼の方をちらりと見ると、土方がなぞった動きの型ではない部分を、ややゆっくりと再現して見せる。
「これは稽古のための『型』ではなくて、もっと実戦に向いた『形』なんです。実際に真剣を構えた二人が今、自分を斬ろうとしているとしたら、どう防ぎ、どう斬り伏せるか。どうです? 興味がありますか」
問いかけたあと、斎藤は返事を待たなかった。そのまま低い声で話しながら竹刀を操った。
二人の相手が刀を構えた位置、何処に隙が見え、それ故どう動いたか。隙が無くても、気圧されず先んじた一刀で相手を怯ませ、崩す。もしももう一人が斬り掛かってきたなら、刀を返して弾き、そのままの流れで相手の手首を落とすのだ。
骨を断つのなら力がいる。刀の峰にこぶしを当て、叩き落すつもりでいく。これで一人は戦闘不能になる。
多勢で来る敵は、同士討ちを恐れて同時には来ない。ひとり斬ってからでも案外間に合う。斬り下げていた刀に添うように身を沈めて、踏み込みながら、上へ突く。振り被られた敵の刀が己を斬ることなど、その時は考えなくていい。相手は既に死人なのだ。死んだ相手の一刀など怖くはない。
斎藤が構えを解いて土方を見ると、彼が握っていた竹刀の先が、ぴくり、と震えた。籠手あてに隠れて見えないが、震えてしまうほど力が入っているのだ。
「土方さん?」
「また、見えた…」
「何がです?」
「……なんでもねぇ」
「相手が、ですか?」
籠手あてに隠れた土方の手が見えないように、面に隠れた彼の顔も見えない。でもどんな顔をしているのか、斎藤には分かる気がした。羨み、悔しさ。そして興奮。居ても立ってもいられず、今にも突き動かされてしまうような。
斎藤は竹刀を一度下ろし、付けずにいた面を手に取る。それをきちりと被り紐を締めながら、彼は言ったのである。
「相手が欲しいんだろう。あんたの相手なら、此処に居る」
斎藤は竹刀を構えて、土方の前に立った。防具をつけたなりでも細身に見えるが、土方と向かい合うとかなり背は高い。中段に構えた竹刀の先は、ぴた、と静止してして、土方の胸へと向いている。
「手加減なんかしやしませんから、俺を相手に無様を曝すかどうか、あんたが自分で確かめればいい」
言った途端に、斎藤から静かな闘気が揺らぎ立つ。相対する土方も、首筋の後ろの産毛が、一息に逆立つような心地で居る。つ、と僅かに斎藤の右つま先が、床の上で前に出た。
「どう動けとか、俺は言わない。あんたのしたいように。あんたの体が、動きたいように。俺が、それを、見たい」
…っ
短い呼気が、空気を射す。それがどちらのものだったか分からない。打ち込みは土方からだった。斉藤は前に出た半歩分を下がって竹刀で受けて、それを右へ受け流す形へと誘った。
けれども土方は引き込まれることなく、強引な力で押し離し、そのまま二段前へと突いて行く。鋭く、強く。突いてゆく土方の竹刀の鍔が、斎藤のそれへと激しく当たる。
ただ、鍔迫り合いにはならない。また一瞬で飛び離れるようにして、土方は別の方向から打っていく。計算されているようでいて、それは本能に近い。興奮が、彼を制しているのだ。荒い息の下で彼は思っていた。
したいように、と言われた。
動きたいように、と。
習っていた頃には言われたことが無い。彼に剣を教えたのは最初は祖父だった。祖父が死んでやめたが、一度、無性にやりたい気がしてきて、家の近くの小さな道場で。
やっぱり、まずは型を、基本をとだけ言われ、似たようなことを繰り返すばかりで、面白くもなんともなくて、またやめて。やめた自分が嫌だった。
でも今は違う。面白い。面白くて、胸で鼓動が跳ねるようだ。竹刀が己の腕のように、殆ど思い通りに動く。面を付けているから、視界は広くは無かったが、自身の振る竹刀が、すぐ目の前で白くぶれるように残像を結んでいる。
勝敗を付けるものはいないから、長く長く打ち合っていた。そうやっているうちに、土方は奇妙なことを思っていたのだ。
なんだ?
覚えがある。
道場で、
相手が居て。
あぁ、そうだ、今朝の夢だ。
多摩の道場。若い頃の土方の祖父、太吉が試合っている夢。相手は土方歳三。本当にあったことでも、勿論彼が実際に見たわけじゃない。思い出話をずっと何度も聞かされて、だから夢でまで見てしまった、遠い遠い昔のこと。
なんで諦めねぇ?
夢の中で「彼」は思っていた。連れていくなんて出来やしないし、したくない。許したりしたら、戦場で無駄に死なせるだけだ。しかも逆賊と言われて死ぬのだ。どうして連れて行けるだろう。
あぁ、ならもう、
手酷く打ち負かして、
ここに置き捨てていくしかない。
悪いな、太吉。
おめぇには石田散薬を任せるよ。
この先もずっと薬を売りながら、
俺ぁの大事な多摩で、子供や孫と、
安楽に暮らしてくれりゃいい。
斎藤の竹刀を躱しながら、受け止め、打ち返しながら、土方の心は夢の中に落ちていた。そうやって、気を散らしていたからだろう。斉藤の鋭い突きを微塵も躱さなかった。動きを読み違えて、突きに来るのを迎えるように己も前へと進んでしまった。
ど…ッ、と、竹刀の剣先が、土方の喉下へと突き立っていたのだ。彼はものの見事に突き倒された。視野が斎藤の姿から、一瞬で天井へと移って、道場の固い床の上で意識を飛ばした。
彼の脳裏では、打ち負かされた太吉が目の前に昏倒しているのに、倒れているのは夢で見た祖父ではなく、土方だった。
「…じかたさんッ、土方さん…ッッ!!」
斎藤は真っ青になっていた。彼の剣先が入ったのは喉元だった。防具と防具の境で、普通は突きに行ったりはしない場所。でも斎藤の脳裏から、その時そんな決めごとなどは飛んでいた。土方が予想の数倍強かったせいだ。
昏倒してぴくりとも動かない土方の傍らに、斎藤は膝をつき、急いで面と胴あてを毟るように外した。彼の襟に手を掛けるが、今度は自分の被っている面が邪魔で視界が狭い。
喚きたいほど焦って自身の面を外し放り出してから、今度はしっかりと手を掛けて、土方の着物の襟を左右に割った。竹刀で突いた個所は、土方の喉元よりも指数本分下だった。けれど赤い跡が今にも紫に変じていく。
「待っていて下さい…!」
意識の無い土方にそう言い置いて、道場の裏へと走り、汲み置いてあった水を桶に掬って持って行く。頭に巻いていた手拭いを解いて、それを冷たい水に浸して、彼は土方の怪我を冷やそうとした。焦っているからか、ろくに絞ってもいない手拭いから、ぼたぼたと水が滴っている。
「う…、いって、ぇ…」
水の冷たさが意識に届いたか、土方は意識を取り戻した。
「動かないで。今、冷やして」
「…あぁ……」
うっすら開けた土方の目が、真っ青になっている斎藤の顔を見上げていた。
「やっぱり、無様、だったなぁ…」
「今、そんな…っ」
「…負けは負け、さ」
「………」
何も言うことが出来ず、斎藤は手拭いを何度も水に浸して、土方の胸を冷やす。今やもう紫になってしまった怪我は、彼の胸の色と落差が大きい。白い肌が際立って、斎藤は戸惑っていた。
「その…、痛みませんか…」
「あぁ、ちったぁなぁ…。これ、とってくんねぇか」
籠手やら腰回りの防具が邪魔だと、土方は我がままを言う。でも息が苦しいからかもしれないと思って、斎藤は次々それらを外した。苦労して全部取り払った頃、土方が妙なことを言ったのだ。
「今、妙な夢を見てた」
「…夢?」
「今朝も見てた夢だ。夢ん中でも竹刀を持って道場に居てな。俺は俺ぁのじいさんを、打ち負かしてたよ」
「え? 土方さんが、土方さんのおじいさんを…?」
いぶかしむ斎藤の手を押しのけ、土方がゆっくりと起き上がる。髪から落ちた、借り物の手ぬぐいを拾って己の胸を雑に拭いて、打たれた個所の痛みに顔を顰めた。
「…っ痛ぇ」
「ま、まだ寝ててください」
「大袈裟だ。こんくらいなんでもねえ。それに…。楽しかった」
土方は笑った。年より随分若く見えるような顔になり、ふっと笑って、斎藤を見た。斎藤は弾かれたように視線を逸らした。その首筋が、うっすら赤いのを、不思議なものを見たように土方は眺めていた。
終

