土方家の当主は今までの礼だと言って、少なくはない金子を包んで差し出した。太吉はとんでもないと言って断ったが、石田散薬を広めるために役立てて欲しいから渡すのだと、逆に頭を下げられて受け取った。

 渡された金子は懐に重かったが、ずっと何十年も、背中に負ってきたトシの兄貴の薬箱は、もう手元に無くなってしまった。失くしたものの方が、ずっと大きい気がして、がっくりと項垂れ外へ出ていくと、待っていたサイゾウが、沈み始めた夕の光を浴びていた。

「待たせて悪かったな、トシ」

 トシ、と呼ぶ声がか細い。けれど、その時のサイゾウは何やら興奮していて、そんなことには気付かなかった。

「たった今、誰かがここに来てたんだ」
「…誰かって、誰がだい?」 
「分からない。見えなかったけどっ、でも誰か来たんだっ。そんで俺の頭を撫でた。気のせいじゃねぇ、ぜったい、気のせいなんかじゃッ」

 太吉が見回しても、誰も居ない。それでも彼は、その言葉を信じた。不思議なことなら、孫が生まれた瞬間からずっと目の前にあるのだから。

「…そうか、そうか…。あったかい手だったろう? 優しい手だったろう? そいつはきっとトシの兄貴だ。お前に会いに来たんだ」

 じゃあ帰ろうなぁ、と言って、太吉はおそるおそる孫の頭に触った。その瞬間、今度は誰かが太吉の背中にそうっと触れて行った。何十年も、あの薬箱を背負って石田散薬を売り続けた礼を、トシゾウが言ってくれたのだと、太吉は信じて、くしゃくしゃの顔になって泣き笑いをした。

「じゃあ帰ろうか、トシよ」
「うん」

 久々に孫の手を取って歩いて、暫くして太吉は気付いた。サイゾウが逆の手に、何か包みを下げているのだ。

「トシよ、お前さん、何を持ってんだい?」
「あ、じいさんが入ってってすぐ、家ん中から男の人が出てきて、くれたんだ。菓子だから、帰ったら家族と食べなさいって。あと、じいさんのこと、大事にしなさいって、言われた」
「お、お前、そいつを早く言ってくれにゃあっ! ど、どんな人だったっ?」
「じいちゃんと同じくらいの年の、立派な着物の」

 太吉はぎょっとして、すぐにも礼を言いに戻ろうとしたが、数歩だけ駆けて、やめた。夕日に染まった道に二人分の影が、長く長く伸びている。

 土方家の現当主は確か、トシの兄貴の甥だったか。菓子を渡してくれたのも、きっとあの人だろう。あんなことを言っておいて、ちゃあんと、会ってくれていた。それをおくびにも出さない、真面目そうな姿をしていてどこか悪戯っぽいそのことが、少しだけトシゾウを思わせた。

「…よぉし、トシよ、早く帰って、明日の行商の準備だ。街まで出て、数え切れんほど商家や宿や道場をまわるぞぉ」
「じいさん、あんま無理すんな。また腰が痛くなんぞ」

 そうやって、生意気な口をきく孫の顔を、太吉はひどく嬉しそうに眺めるのだった。




「…そんなことがあったんですね」

 斎藤はそう言って、そっと後ろを振り向いた。もうトシゾウの家は見えなかったが、それでも振り向いて、たった今歩いてきた道を、じっと眺めずにはいられなかった。

「それで、太吉、さんはその話をあんたに話したんですが?」
「まぁ、ざっくりとはな。俺のこの顔をみると、親族のみんなは悲しくなってしまうと言うから、お前は滅多なことで、この道を歩いちゃなんねぇぞ、って、そんな言い方だったかなぁ」

 言いながら土方は、くすん、と小さく笑う。

「そん時は、意味がよくわかんなかった。俺がトシゾウに似てるなんてのは、じいさんがそう思い込んでるだけのことだと思ってたし、そんな年寄りの話を笑ったりしねぇで話を合わせてくれたんかな、流石トシゾウの親族だけあって優しいんだなぁ、とかよ」

 冬空の淡い青を静かに見上げて、土方は言葉を続ける。それは太吉の見上げた空で、トシゾウも見ていた空で、今はもう、どちらもこの世にはいない。

「…それでも、俺を見ると悲しい、って言われたなんてのは、けっこう胸に刺さったんだよな。だから今でも、この道を通るのは、ちっと勇気がいんのさ。その上、今は」

 笑った顔で、彼は斎藤を見る。

「おめぇがあんなもんを見せたお陰で、ほんとうのほんとうに、この顔がトシゾウそっくりだって、わかっちまったんだもんなぁ」

 酔っぱらうといつも、この顔を見て泣いたじいさん。悲しげな目をして頭を撫でてくれ、袋いっぱいの菓子をくれたトシゾウの親族。過ぎてしまったことばかりだけれど、それでも感じずにはいられなかった。この姿の、なんという重さなのだろう、と。

 気付けば、斎藤は歩を止めて、じっと土方を見ていた。気付かず進んでいた土方は、少し遠くなった彼の姿を振り向いて、そしてその声を聞いた。

「知りたく、なかったですか…?」
「………」

 土方はすぐには答えない。戻ってきて、斎藤の目の前に立つこともしなかった。すっかり種を飛ばして痩せてしまった芒が、夕暮れ間近の冷たい風に揺れている。その風の音に混じって、土方の声が斎藤に届いた。 

「まぁ。知ってすぐは、嫌だった。このツラのせいで、血のつながったじいさんも、俺を殴る蹴るした知らない奴らも、俺を見ながら、俺じゃない他の誰かのことばかり考えた。…おめぇも、俺を見てるんじゃなかった、って思ったからな…」
「ちが…っ」
「あぁ、もうそれはわかった。おめぇがちゃんと、俺のことも見てるってことはな。だから今は、良かったと思ってるさ。何ひとつ知らないままで、全部じいさんの思い込みなんだって、思ったまんまよりはよ」

 ほっとして、斎藤は急いで土方に追い付いた。それから薬をちゃんと、届けたい相手に届けて、二人はまた来た道を戻る。帰りも、トシゾウの家の傍で、そこに暮らす誰かの姿を見ることはなかったが、土方が何気なく、自分自身の頭に触るのを斎藤は見た。

 大人が子供の頭を撫でる、そんな触れ方をしてから、誤魔化すように前髪をかきあげたり、寝癖を気にするように髪のあちこちを引っ張ったりしていた。何をしているのか、などと、問い掛けることはできないままで、斎藤は思っていたのだ。

 一度でもいいから、トシゾウに、会ってみたかった。
 もしかしたらこの人も、そう思っているのかもしれない。
 
「土方さん」
「んん?」
「足、痛くなったりしてませんか?」
「ぜんぜん平気だ」

 今は此処に、不安も哀しみもない。そんなふうにゆるぎない笑顔を見せて、斎藤は道の先を真っ直ぐに指さした。

「じゃあ、あんたの郷里を、ぐるっと一周、歩いて来ましょう。あんたが子供のころ遊んだ場所とか、そういうのを見てみたい」
「おう、そうだな。じゃあ歩くかぁ。ちいせぇ村だから日暮れまでにはまわれるし、途中なんか食いもんを調達して、帰ったらそいつを喰って、そんでゆっくり寝たら、明日はおめぇんとこへ帰るか!」
「えっ」
 
 斎藤が驚いたような声を出すので、土方は不審げに彼の顔を見た。

「今、帰るって」
「あ? なんか変なこと言ったか? おかしいか?」
「いえ。おかしくないです。いいです、それで」

 深い意味など無い、何気なく言っただけなのだろうけれど、斎藤にとってその言葉は、ひどく嬉しいものだった。

「帰りましょう、一緒に」
「おう」

 
 

 

 そして、明けて七日目の斎心道場である。剣術を習いに通う生徒の殆どが道場に集まって、まずは口々に挨拶を交わした。 

「あぁ、久しぶりだなぁ、お前らっ、サイゾウさんもっ」
「先生っ、みんなっ、今日からまたよろしくなっ」
「今年も頼んますよっ、せんせいっ」
「見掛けなかったけど、サイゾウさんは、郷里に戻ってたんかぁ?」
「相変わらずいい男っぷりだな、サイゾウさんはっ」

 久々に会う顔を見て、挨拶と同時に他愛のない言葉が投げかけられる。その途中、斎藤は何かに気付いて、急に眉根を寄せたのである。

「…お、俺だけじゃないですか…っ」
「へっ? 先生急にどうしたぁ?」
「なんだなんだ、何が俺だけだっ?」

 何でもないと全員に手を振って見せて、斎藤は土方の腕を引っ張って外に出た。そして、道場から少し離れた場所まで行ってから、少し声を潜めてこう言ったのだ。

「ひ、土方さんっ、あの時、道場のみんながあんたのことを土方と呼んでる、それを今更変えさせるのかって言ってましたけどっ、最初からみんなにはサイゾウさんとしかっ」

 土方は余所を向き、ぺろりと舌を出している。どうやら分っていてのことであるらしい。

「案外こまけえなおめぇはよ。別にいいじゃねぇか。ここのみんなは俺をサイゾウと呼ぶ、里の連中は俺を薬屋って呼んでて、あの宿じゃあ俺の呼び名はトシだ。そんで、おめぇ一人だけが俺を土方と呼ぶ。それがどっか不満なのか? 嫌か? 俺が、おめえに、そう呼ばれてぇって言ってんのに?」
「…い、い、嫌と かじゃなくて…っ」
「じゃあいいだろ、他になんかあんのか?」
「……なにも。何も、ないです…」

 ずるい。そんな言い方。嫌どころか嬉しいに決まっている。その呼び方は危険だと、石田村のタケに教えられて、もっともだと思った。今まで気にしていなかった自分は愚かだったと、心底後悔した。

 そして、自分だけが呼び方を変えれば、それで土方をあらぬ危険から守れるとたった今分かったのに、そんな気持ちがぐらぐらと揺れている。

「あんたは、俺にサイゾウさんって呼ばれるの、そんなに嫌なんですか」
「別に嫌じゃねぇさ」
「だったらっ」
「でも土方、って呼ばれる方が百倍嬉しい。おめぇだけが俺をそう呼ぶんだ。だから、それが『いい』って言ってる」

 斎藤はさらに何か言おうと息を吸い込んだが、息のかかるほど間近に綺麗な顔を見せつけられて、そのうえ真っ直ぐに見つめられて、あっさり篭絡してしまう。

「分かりました、土方さん。俺が、あんたを守ります」
「……おう」
 
 守って貰わなくたって、と、ここで不機嫌になりそうなものを、斎藤の言葉が真っ直ぐ胸に入ってきて、するっと応じてしまった。そんな自分に多少の居心地悪さを感じつつ、土方がふと見ると、道場の連中が入口のところに集まって、全員でこっちを見ていた。

「悪ぃなぁ、待たせちまって。ほら、斎藤先生、稽古だ稽古っ」

 土方が斎藤を急かして、全員で道場の中に戻っていく。

「や、別にいいんだけどよ、ちょっと待つぐらい」
「うん、二人が一緒にいると、なんかほっとするしなあ」
「サイゾウさんがいない時の先生ときたらよぉ」
「あぁ、それそれっ、ほんとあの時は」

 そんな面々に、変に気合の入った斎藤の声が飛んだ。

「素振りから始めますねっっ!! みんな並んでくださいっ、はい、いーちっっ、にーーっっっ!」

 斎心道場の年明けは、至極平和、かつ大変に賑やかであった。










 
 
 激しく進展したり後退したり、切なかったり辛かったり、の石田村編?が終わって、斎心道場の楽しい年明け風景が書けてよかったです。うん、面白くて書きながらめっちゃニコニコでした。

 大変こんな時間っ、また、ホームページのトップ画面に更新情報書けないよ、これは💦 忘れないで、自分、ちゃんと書いてよーっ。




2024.11.10










時差邂逅