三
十
五
「……なぁっ、これ片付けたらよ、やらねぇか?」
洗い途中の茶碗を片手に持ったまま、土方は竹刀を振る仕草をして見せた。
「ちょいちょい素振りはしてたんだが、やっぱり一人じゃあ物足りねぇし、なんか鈍ってそうでよ。だから暫くぶりに」
そう言って頻りと腕を振るので、今にも茶碗が何処かへ飛んでいきそうだ。その茶碗を土方の手から受け取りつつ、斎藤は首を横に振ったのだ。
「打ち合いは駄目ですよ、土方さん」
「なんでだよ」
断られるなど思ってもみなかった土方を、斎藤が淡々と諭す。
「怪我したばかりなんですから。俺がおヨネさんを背負えばよかった。足、痛くないですか?」
「痛かねぇ、あんな…」
あんな程度の怪我、と土方は言い掛けて黙った。以前、怪我をしているのに無理をするなと、厳しく斎藤を叱りつけたのは自分なのだ。それでも彼は諦めきれず、ぼそぼそと呟く。
「もう、治った」
拗ねたようなその響きに小さく笑って見せながら、斎藤は湯の沸いている鉄瓶に手を伸ばす。茶でも入れてくれるのかと土方は思ったが、どうやらそうではないらしい。台所にあった盥を持ってきて土間において、彼は真顔で土方を見る。
「ここに座って」
「何すんだ?」
「傷をちゃんと洗わせて下さい。一度手当したっきりじゃないですか、傷口は清潔にしておかなければ。それに、静かにしていないと膿んでしまう。って、あんたも言ってましたよね?」
宿で言った言葉をそのまま出されて、土方は押し黙った。ぐうの音も出ないとはこのことである。土方は仕方なく、指し示しされた場所に腰を下ろした。
「別に、して貰わなくったって、てめぇでやるさ」
「あんたは自分のことだと、強がって隠したり、疎かにしたりするって、里の人が言ってましたよ。さ、早く」
「余計なこというヤツばっかりだな」
ぶつぶつと文句を言いながらも、土方は片方の足の草履と足袋を脱ぎ、浅く張った湯に足を浸す。 斎藤の手はその湯の中で、土方の足の甲をそろりと撫でて、足の指のひとつひとつまで丁寧に洗ってくれた。土方はなにやら、落ち着かない気分になってしまう。
「熱くないですか?」
「熱かねぇ…」
「じゃあ、温すぎないですか?」
「丁度いいって」
怪我した方の足が終わったら、ついでだと言ってもう一方も同じように。その間、洗い終えた方の足は、手拭いできちんと拭ってから、土間についた斎藤の膝の上に乗せられている。自分でやるとかもういいとか、同じようなことを繰り返し言って、しまいには土方はこう言った。
「おめぇは俺の世話女房かなんかかよ」
斎藤はそれでも下を向いたまま、黙って手を動かしていたけれど、堪えかねたように小さく笑い出し、間近から土方の顔を見た。
「飼い犬が、いつの間に世話女房になりましたか」
「馬鹿」
「じっとしてて下さい」
気付けば、さっきまで笑っていた斎藤が、いつの間にか真顔になっている。またトシゾウのことを考えているのかと勘繰って、土方はふい、と視線を逸らした。
「おめえの見た夢の中で、ハジメもトシゾウに、こんなことしてたのかよ」
そんな土方の横顔をじっと見ながら、斎藤は切ないような気持ちになって答える。
「どうでしょうね。…あまり、そういう時間は無かったかもしれません。二人でゆっくり過ごしたりなんて、きっと数えるほどしか」
「そう、なのか?」
「たぶん、ですけど。全部を夢で見て知っているわけじゃないですから」
彼らが二人だけになるのは、殺伐とした密命のやりとりと、それを完遂した後の夜更けの報告の時ぐらい。朝までの短い時間を、時折共に過ごしたとしても、それすら命じられた仕事をやり遂げた褒美だった筈だ。それでもハジメとトシゾウは、互いに心を添わせていた。
けれど、まだかつての夢を、そんなには見ていない土方に、多くを教えていいわけがないと、斎藤も分かっている。
「…明日でも明後日でもいいですから、少し、この村を歩いてみたいです」
「今から、じゃ駄目なのかよ。そんで河原でちょっと手合わせとか」
「駄目です。せっかく傷が塞がっているんだから、少なくとも、あと一日は静かにしていて下さい」
ちぇ、などと拗ねた子供のように口を尖らせて見せてから、土方はようやっと湯の中から片足を抜いた。布で雑にその足を拭いて、部屋に上がると、隅の方に置いてある葛籠を引き寄せる。
「そんならちょっと手許を手伝えよ。明日、里をぐるっと歩くついでに、ちょっと行きてぇとこがある。薬を届けたいんだ」
「じゃあ、その葛籠は俺が背負いますよ」
盥を片付けてから隣に来て座った斎藤を、土方はちらと見やった。
「俺のじいさんの頃だったらな、これははトシゾウが背負った薬箱だったんだぜ。貸してもらってたんだ。じいさん、物凄く大事にしてた。ちょっと汚れたらすぐ磨いてよ。おめぇも触ってみたかったろ?」
「…何を手伝いますか、なんでも言って下さい」
あえてなのか、斎藤はそれしか言わなかった。あとは擂鉢で何種類かの薬を混ぜるように言われ、指示の通りに分量を量り、少し猫背になりながら真剣に調合する。土方はうまく混ざったそれを匙で掬い、同量ずつを薬包紙で器用に包んでいく。
「なんの薬ですか」
「カンゾウ、コウベイ、タイゾウ、なんかが入った咳止めだな、喉の弱い子供がいてな。まだまだ冬は長いから、少し多めに置いてってやりてぇんだ」
「どこでも、付き合いますよ」
「おう、ありがとうよ」
土方は笑ってそう言った。
風のない、天気のいい日だった。お天道様が空高く昇って、ようやく傾き始めた頃に彼らは家を出る。家の前の川沿いをずうっと行って、半刻ほども歩いた頃、土方は何故だが徐々に無口になって、そしてこう言った。
「向こうに家が見えるだろ? ひと際大きい家だ。誰か、人がいるか?」
確かに、目立って立派な家が建っていた。土方は何故か真逆の方を向いていて、そちらを見ようとしないのだ。
「誰も居ませんよ」
「そうかい?」
「ええ、居ないと思います」
「そっか」
しばらく歩いて、さっきの家が遠くなった頃、土方はまた何でもないお喋りを始める。正直、聞いていいのかどうか、迷った。聞かれたくないことなのかもしれない。でも、一度だけ聞いてみようと、斎藤は思ったのだ。
「さっきの。誰の、家なんですか…?」
「…そうだなぁ。おめぇは多分、知りてえよなぁ。あの家のことは、夢で見てたりしねぇのかい?」
「……」
それだけで分かった。古い佇まいではあっても、大きく立派な家。あれは、豪農の生れだという、トシゾウの家だ。土方の背を見て歩きながら、斎藤の頭の中は、知りたい思いでいっぱいになった。
其処に今、誰が住んでいるのか。
トシゾウを知っている人が今も居るのか。
でも。
斎藤は今まで、考えても見なかったのだ。トシゾウと同じ村に生まれて育ち、こんなにも同じ姿形をして此処で暮らす彼が、トシゾウの親族に、どう思われているか。黙ってしまった斎藤を、土方は振り向いて見た。そうしてもう一度足を止め、困ったように笑うのだ。
「んな顔しねぇでいいんだ。俺がトシゾウの血を引いてる可能性は、これっぽっちも無かったから、里じゃあ別に嫌な思いなんかしなかった。でもいつも俺を連れ歩いて薬売りしてたじいさんは、どうしたらいいかって、ずっと迷ってたみてぇでな」
生まれ変わりだと、自分は芯から信じていても、それをトシゾウの身内に告げに行く勇気は無かったのだ。
何を馬鹿なと、笑い飛ばされるかもしれない。
死んだトシゾウに対して、不遜なと言われるかもしれない。
だけれど噂ぐらい聞くだろう。姿も見かけるかもしれない。
じゃあ一体、孫の存在は、どう思われているのだろう。
俺は、そしてサイゾウは、どうしたらいいのか。
そうやって、サイゾウの祖父は、信じる気持ちと相反する怖さをずっと抱えて暮らしていたのだ。そうしているうちにも、ますますサイゾウの見目はトシゾウに似てくる。それでもどうしていいか分からない。
だんだんと年がいって、足腰も弱くなり、薬を売り歩く暮らしの中、自分がいつどこで野垂れ死ぬか分からないと思った太吉は、借りていた薬箱をトシゾウの家に返しに行ったのだ。
その時のことが随分と鮮明に、サイゾウの脳裏に浮かび上がってくる。
あの日、土方家を訪ねてその門の前で、太吉は彼に言ったのだ。
「いいか、トシ、ちょっと此処で待っていてくれ。もしかしたら呼びに来るかもしんねぇが、そうしたらちゃんと行儀よくな」
まだ小さかった彼は、祖父の言葉に何か聞き返すことも無く、ただ頷いた。聞いたことがなくともそこが誰の家なのか分って居たし、きっと祖父は何か決心したのだろうと、子供心に思っていたのだ。
姿勢を正して行儀よく、万が一にもだらしなく見えないよう、真っ直ぐ立って、目の前の門をじっと見ている。
太吉は薬箱を大事に両手で抱えて中へ入っていって、奥の間に通された。少し待つと、土方家の当主が出てきたが、突然古びた薬箱を返されて、少し驚いたようだった。
「太吉さん、だね。何十年も前に、これをあんたに渡したことは、記録に残っているし私もなんとなく覚えているよ。でももう、譲ったものだと思っていたから、返しに来るとは思わなんだ…。今更、何故?」
そう問われ、太吉は畳に頭を擦りつけるようにして言った。
「長ぇこと貸して頂いて、ありがとうございましたっ。だいじにだいじにしてきたつもりだけど、幾つか傷もこしらえて、ほんとうに申し訳なく思ってます。もうこの通り、俺も老いぼれて、いつどこで野垂れ死ぬかわかりゃあしません。その時にこの大事な薬箱が、雨ざらしになって朽ちたり、悪いやつに盗られて酷く扱われるのが、俺は我慢ならねぇんです…」
太吉がそう言うと、土方家の当主は改めてその薬箱に近付いて、手を触れじっと眺めて言った。
「老いぼれと言っても、私とあんたはあまり年も違わないじゃないか。でも、分かったよ、これは受け取る。…それにしても、何十年も使っていたとは思えないぐらい、きれいなものだ」
当主が薬箱を手元に寄せて、静かな手付きで何度も撫でる。もうこの世にはいない人との、遠い記憶を思い出しているのかもしれなかった。
「長年大事にしていてくれて、感謝するよ。幼い頃、私もトシゾウさんにはよくしてもらったんだ。きっと、あの人もこの薬箱と一緒に、いつもあんたの傍に居たんじゃないかい? 気に入った相手には何処までも心を開く、そういう人だった」
そんなふうに言われて、太吉は顔を伏せたままで震えている。今にも声を上げて泣いてしまいそうなのを、ぐっと堪えてこれだけは言った。
「い、石田散薬は、まだまだこの先もきっと、俺の子や孫が立派に引き継いで売っていきますから、どうかこれからも、行商していくのを許してやって下さい…っ」
当主に言われた言葉の全部が胸に詰まって、苦しいぐらいに嬉しかった。でもそこまでだった。最後の最後に勇気を振り絞ったが、結局は言えなかったのだ。
俺の孫は、トシの兄貴によく似てるんだ。
きっと生まれ変わりなんだと信じてるんだ。
だが。
言いたかった言葉を飲んで、帰ろうとしている太吉に、今度は当主が静かに聞いたのだ。
「孫、と言ったかい? トシゾウさんに少し似ていると、噂で聞いていたよ。そんな不思議なことがあるだろうかと、驚いたが」
「ご、ご、ご存じで…!」
顔を上げて言った太吉の前で、当主はそっと目を閉じた。手元の薬箱を、またひと撫でしながら、彼は悲しげに項垂れたのだ。
「でも、どんなに似ていても、違うだろう? あのひとは、二度と戻って来るはずがないんだ。この先、もっと似てくるとしたら、よりいっそう苦しい気がしてね。こんなことを言って、すまないね、許してくれるか?」
「…へぇ、わかります…。よく、わかります」
だから会うことはできないと、言われたのだと思った。
わかって居る。そんなことは、太吉だって、わかって居るのだ。孫のサイゾウがどんなにそっくりだって、本当に生まれ変わりだったって、トシゾウはもう居ない。遠くで、あんなにも遥か遠くで、とっくに死んだのだ。
あの薬箱を、もう背負うことのない背中が、すうっと、冷たくなった気がした。
続

