三
十
四
「腹が減っちまった。宴の残りもん、なんか貰ってくる…っ」
そう言って土方は出て行ってしまった。焦っていたからか、戸が僅かに開いたままで、そこから冷えた空気が部屋へと入ってくる。折角、ふたりで居ようと言ってくれたのに、余計なことを言ってしまったと、斎藤はしょんぼりと肩を落とした。
土方が戻った時、部屋が冷えていてはいけないと、斎藤は戸を締めに立ったのだが、閉めようとした戸が、目の前でがらりと大きく開いたのだ。
「サイさん、居るかいっ」
入ってきたのは、背に老女を背負った里人だった。宴会の席で顔を見たのを覚えている。でも今は、土方は居ない。
「ひじ…っ、いえ、サイさんは、今さっき、出掛けてしまって」
里人の言うのに合わせてそう言ったが、言い慣れなくて落ち着かなかった。
「ありゃ、そうか、困ったなぁ。入れて貰っていいかい? 俺はいいけど、ばあ様が冷えちまっちゃいけねぇから」
背負われている老女は、随分と年がいって見えた。半纏ですっぽりと体を覆っているが、それでもこの寒空の下、外に居させるわけにはいかない。斎藤は戸を大きく開けて招き入れ、手を貸して老女を背から下ろさせた。
「悪いねぇ、斎藤さんっていったか? 俺はこのばあ様のひ孫で、元助ってんだ。ばあ様は村の長老の母親で、ヨネって言う。そんでなぁ、実は」
元助が其処まで言ったところで、斎藤は突然袖を掴まれた。ぐい、と引っ張るその手は、しみの浮いた皴深い手であった。
「…あぁ、もう、とっくに行っちまったと思っていた」
かすれた声で、ヨネは言う。間近からじっと斎藤を見上げる眼差しは、痛いぐらいに真っ直ぐなのだ。
「え…?」
いったいなんのことだろう、と、聞き返そうとした声は、元助の言葉に阻まれる。
「すまないなぁ、ヨネばあさんはもう七十になるとこなんだ。人間違いもするし、わかんないことも言ったりするが、今日はどうしてもここに来たい、二人と会いたいっていうんでよ」
今朝起きた途端に、何やら思い出したとか、どうしても話したいとか、何回も何回も繰り返すし、あんまり興奮するので、仕方なく背負って連れてきたと言うのだ。斎藤は気付かなかったが、昨日の宴会の時、眠くなるまでの少しの間、ばあ様は一番奥に座っていて、土方と斎藤のことも見ていたということらしい。
「ばあさん、興奮すると咳が出たりするもんで。いっぺん連れてきたら、きっと落ちつくだろうと思ってよ。それで、サイさんは何処行ったんだって?」
「行き先は聞いてないんですけど、宴の残りがあったら貰ってくると」
「ありゃ、じゃあ、どっかで行き違ったんだな。探してくるから、悪いがばあさんのこと、見といてくれよ」
分かった、という返事を聞く前に、元助は走って行ってしまった。斎藤は少々面食らいながらも、袖を掴まれたまま老女の方へと向き直る。
「あの、とっくに行ってしまった、っていうのは、どういう?」
見れば老女は目を閉じて、体をゆらゆらと揺らしている。斎藤の袖を掴んだ手もすっかり緩んで、どうやら彼女は眠りかかっているらしい。土間に腰かけさせたままでは、転がり落ちてしまいかねない。斎藤は布団二組で背もたれを作り、ヨネを抱えるようにして、囲炉裏の温もりの届く場所に座ってもらった。
「寒くないですか、ヨネさん」
肩にそっと手を掛けながら話し掛けると、ヨネはうっすら目を開けて、それからみるみる目を見開くと、まじまじと斎藤の顔を見た。
「……斎藤さんは、もっと、ずうっと、こわいお人に見えてました…」
「俺が、ですか?」
宴会の席で、そんなに怖い顔をしただろうか。でも、もしもタケさんにあの話を聞いていた時だったら、それは怖い顔になっていたかもしれない。
「あの時は、その…ちょっと」
「あんなに立派なお侍さんが、見かけよりずっと優しいんですねぇ…びっくりしました」
「………」
その時、やっと斎藤は気付いた。この人の言っているのは、きっと自分のことじゃない。何十年も前にこの石田村で、まだ若い娘だったこの人が、斎藤ハジメの姿を見ていたのではないか。それならばきっと土方歳三のことも、見ていたに違いない。そして老女のヨネは、今だけ遠い昔の時間の中に戻って『斎藤ハジメ』に話しかけている。
「もし、よければ」
胸を打つ己の鼓動の音を聞きながら、斎藤は言った。彼女のすぐ隣に座り、また眠りに落ちていきそうな、皴の入った横顔を見つめて、言ったのだ。
「話して貰えませんか。おヨネさんが、この村で見た土方トシゾウのことを」
「………誰にも、内緒にしてくれますか? 斎藤さん…」
ヨネは笑った。目を閉じたままで、少女のようにはにかんで笑い、躊躇うようにしながらも、話してくれたのだ。
「トシゾウさんは、それはそれは凛々しい人でしたよ。家は農家で、別の稼業で薬屋もしていて、あの人は薬売りをして歩いてました。ここいらでいっとう裕福なおうちとは言え、農家は農家ですから、着るものなんかもそんなに立派ということはない。それでもトシゾウさんだけは、他の男衆とはまるで違ってた。
水面の光のように、いつもきらきらしていたし、誰より堂々としていて、人と話す時もはきはきと。特にお顔がねぇ、あたしなんかはまともに見られやしなかった。勿論、一度も話したことなんかなかったですよ。…だから、怒らないで下さいね、斎藤さん」
ヨネは不思議なことを言う。凛々しくて、堂々としていて、きらきらしていた土方トシゾウの話を聞いて、どうして斎藤ハジメが怒ると思うのだろうか。気になって、もっと話して欲しくて、斎藤はヨネの顔を間近から覗き込む。
「怒る、ですか? 怒りません。どうしてですか?」
「どうしてって。…だって、見ていたんです。青々と茂った薄の株のところに、あたし、たまたま隠れて、家の仕事の合間に休んでいて。あの時、川の傍のあの柳のところで、トシゾウさんと、貴方が、ふたりで、寄り添って」
「……寄り添っ…」
寄り添って、って、あの時は、ただ話をしていただけの筈。夢で何度も見たことを、斎藤は必死で思い出してみた。確かに、あの時の斎藤ハジメは、心の奥では土方トシゾウをすぐにも…と思っていたが、実際は何も。ただ、風に揺れるトシゾウの袖を、片手で取って、少し体を寄せはしたけれど。
いや、でも、あの時は誰も居ないと思っていたからああしたのだ。人が見ていたら絶対にしないし出来ない。つまりはあれは、もし誰か見ていたら、そういうふうに見えるやり取りで、それを実際、若い娘だったヨネが見ていた、と。
「あ、あの…っ、ヨネさん。それ、他の人にも話しましたか?」
狼狽えながら斎藤が聞くと、ヨネはにっこりと笑って首を横に振った。
「言いません、絶対。トシゾウさんのことを、斎藤さんは本当に大事に思っていて、この先もきっと守って行くんだなって、それが分かったから。その時、あたし、すごくどきどきして」
「よ、よかった。これからも秘密にしていて下さい、ヨネさん」
必死になって、思わず斎藤はヨネの手を取った。もう七十になるというヨネは、心の中で若い娘に戻っていたし、斎藤は斎藤で、今だけあの時のハジメになったような気持ちで、切実に頼んでいた。
「絶対ですよ、ヨネさん、どうか」
その時、がらっ、と戸が開いて、呆れたような土方の声が降ってきた。
「おめぇ、何を人の留守中に、婆さん口説いてんだよ」
「ちっ、違うんです、土方さんっ」
土方は一人だった。手に小鍋をひとつ持っている。聞けば、元助は先に家に帰ったという。戻ってきた土方の姿を、ヨネはちらりと見てすぐ目を逸らして、ほんの小さく会釈した。白い髪に囲われた顔がうっすらと、少女のように染まっているのを、斎藤だけは気付いた。
「ばあさん、俺が負ぶって送るからな、あんまり元助を困らせるなよ」
土方はヨネの体を丁寧に半纏でくるんで、無理をさせないようにしながら背負い、家までゆっくり歩き始めた。斎藤もその傍を、一緒に歩いていく。
「で? 斎藤、さっきは何をしてたんだ? 婆さんから昔話でも聞いてたんだろ?」
「えぇ、たぶん、土方さんの聞いたことのない話だと思います。今度話しますよ、此処では…ちょっと」
「ふぅん」
言いながら、土方は不思議そうに笑っている。斎藤がどんなことを聞いたのか、想像も出来ていないに違いない。
「ただ、話を聞いて思っていました。ここはあんたの故郷でもあるけど、トシゾウが生まれ育った石田村だったんだなって。斎藤ハジメと、土方トシゾウが、遠い昔に此処で出会い、そして」
その時、高い空で鳶が鳴いた。こんなふうに昔も、鳶が鳴いたろうと思う。たったそれだけのことが、今日は変に胸に滲みた。なんとなく、二人して無言になって、ただただ歩く砂利と草と土の道、でこぼこしたその道を歩きながら、土方は背中を揺らさないように、慎重に歩く。
そんな土方の背中で、ヨネがぽつりと口をきいたのだ。
「……本当はねぇ、トシゾウさんたちを送り出したくなんかないんですよ」
土方はぴたりと足を止め、何か言おうとし、結局何も言わずにまた歩き出した。その背中でヨネの言葉が、淡々と流れ、零れている。
「遠い京まで行ってねぇ、すごくすごく頑張ったんじゃないですか。もういいじゃないですかって、思ってますよ。あたしだって、きっとトシゾウさんの姉様だって止めたいんです。でも、女がこんなこと、口出すもんじゃないし、もうそうすると決めていて、心は変わらないんでしょ」
また、鳶が鳴く。鳴いて空で大きな輪を描く。老いた女の心が過去に戻って、その時言いたかった言葉がやっと此処で音になったのを、大事に大事に、囲って守るように、鳶が円を描いている。
「だからね、言えるのは今だけだから、これひとつだけ言わせて下さい。斎藤さんは、トシゾウさんを守るためにいるんでしょ? そんならずっとこの人の傍についてて守っていって下さい。トシゾウさんは、斎藤さんのことをずっと何処までも連れて行くんですよ。離れ離れなんかに、なっちゃあ駄目ですよ」
土方は何も言わないで歩いていた。斎藤もその傍にぴったりと添って歩いて、何も言わなかった。ただただ喉に息も声も詰まって、何か言いたくても言えなかったかもしれない。
「そうしたらね、ちゃあんと、此処に生きて帰って来られます。待ってますよ、みんなで」
道の先に見える家で、さっき来た元助が手を振っている。この話を出来るのも其処までだ。だから斎藤は言った。喉から無理に絞り出したような、かすれた声になった。
「俺は、ずっと、土方さんの傍にいて守ります」
土方も短く言った。かすれてはいなかったが、風の音に負けそうな、小さな声だった。
「…わかったよ。きっと、石田村に戻ってくる」
ヨネ婆さんを家に戻して、二人は寒い風の中、急ぎ足で黙って歩いた。帰ったら、宴の残り物の煮ものを、水と一緒に鍋に突っ込んで煮直して、囲炉裏で炙って焼いた餅を入れ、雑煮のようにして、はふはふと言いながら一緒に食べた。
「あっちぃっ」
「ほんとですねっ、あっつい」
そんなことを言う二人の鼻が赤いのは、きっと外が寒かったからだろう。その目が少し潤んでいるのは、きっと雑煮で舌を火傷したからだ。
「美味しいですね」
「あぁ、美味いなぁ」
それ以外、言える言葉は今は無かった。雑煮の湯気が、ただ白かった。
続
考えたんですよね。そして自作の時差年表を眺めてみた。そしたら、まだあの時代を知っている人は、ぜんぜんいる筈だなって思って、登場させてしまいました、おヨネさん。ひと君はきっと、もっといろいろ聞きたいだろな。私も聞きたいですっ。お話はほぼ進んでないので、次回はもうちょっと進めたいですっ。
2024.09.23

