夜更けに戻った家は、火が落ちていて酷く寒かった。冷たい布団に、それぞれで潜り込んだものの中々眠れず、それでも夜が明ける前には、土方も斎藤もうとうととし始め、その暫し後。

 浅い眠りの中、土方は夢を見ていた。子供の頃の夢だった。



 風までもが暑苦しい真夏の夕暮れ。突然やってきた知らねぇやつらに散々追い回され、訳も分からずにただ逃げる。でもまだ小せぇガキの足じゃあ、いつまでも逃げてはいられず、とうとう村はずれで捕まって。囲まれて、じろじろと顔を見られて、左右からどつきまわされ。怒気の籠った声で、言われたのだ。

『お前の祖父は土方トシゾウだろうッ』

 馬鹿か、そんなわけがあるもんか。そう思うと同時に、胸の奥底で、すとん、と納得がいった。あぁ、それでこいつらは俺をこんなに追い回して、こんなにも怒った顔をしてるのか。トシゾウは随分恨みを買われてたって話だもんな。

 だけどもう長い年月が過ぎてるってのに、まだ恨まれているのか。それほど深く嫌われてんのか。

『トシゾウは呑気に生き永らえたんだろう…っ』
『その名とツラが証拠だ!』

 愚かなやつらだ、土方トシゾウ生き様を、自分の目で見てもいねぇのに、勝手に決めつけて。それに、ツラのことだって。トシゾウの顔を自分で見たこともねぇくせに。俺が似てるって話を、何処かで聞いただけのこったろう。
     
『隠すつもりなら、ただじゃおかねぇッ』
 
 隠すことなんざ、これっぽっちもねぇよ。だって俺も、じいさんに聞かされたことしか知らない。

 強かった、立派だった。
 美男でかっこよくって、真っ直ぐで。
 優しくて…。

 あぁ、そうだ。どれもこれもたったひとりから聞いた話だ。顔だって見たことがない。性格だって、本当に真っ直ぐだったかどうか、優しかったかどうかも知らない。

 …そんなら、
 俺とこいつらと、何が違う? 
 どっちが正しいかだって、
 分らねぇじゃねぇか。

 殴られ突き転がされ、蹲った体を散々蹴られながら、その時何よりも、心が痛かった。いつの間にかトシゾウを信じて、憧れてた感情が、今にもぽきんと折れそうだったのだ。そのことが、本当に悲しくて苦しくて。なにより、信じ切れていない自分に、心底嫌気が差した。

 それから、動けなくなるまで乱暴されて、口からも鼻からも血を流した、まだ子供のサイゾウを、本当に殺してしまったかと思ったのだろう。そいつらは急に慄いて、てんでに走り去っていった。 



 夢から覚めて、土方は冷えた両手で顔を覆った。夢で生々しく見たせいか、全身がずきずきと痛んでいた。

 そういやあんとき、じいさんに泣いて謝られたっけなぁ。痛かったろう、怖かったろう。もう二度と、お前のことをトシって呼ばねぇ、だから許してくれ。この通りだ、許してくれって、孫の俺に頭を下げた。
 
 俺はその時、トシゾウを疑った自分を見透かされた気がして、ちっぽけな自分がますます嫌になって、全身に巻いてた包帯を、じいさんの前で全部取っ払って、痛いのを我慢して、土間で飛んだり跳ねたりして見せた。

『あんなへなちょこたちになんかされたって、痛くもかゆくもねぇっ。ほらっ、このとおりだっ。でも、じいさんがトシゾウのことをそんなふうに言うのは、俺は嫌だ。孫の俺よりトシゾウが好きなのが、俺のじいさんなんだからっ!』

 痛くて顔を歪めてしまいながら、じいさんが、分かったって、今まで通りにトシって呼ぶって言うまで、飛び跳ねていたっけ。

 思い出して、かすかに笑いが漏れたところで、すぐ隣で寝ていた斎藤が目を覚ました。そして笑いの名残の残る土方の顔を見て、こんなことを言った。

「……笑ってる。何か楽しい夢でも見ましたか?」
「いいや、自己嫌悪まみれの夢さ。昔はほんと、弱っぽちだったなぁって」
「どんな夢を?」

 身を起こして問い掛けてくる彼の前で、がばりと起き上がって、土方は真正面から斎藤を見た。

「斎藤、俺を呼べよ」
「何を急に」
「いいから、呼べってっ、早く!」

 目を怒らせて土方は繰り返す、今にも胸倉を掴んできそうな顔だったから、斎藤は訳も分からず土方の名を、これまで通りに呼んだ。

「土方さん」
「おうよ、斎藤、おはようさんっ。まだ病み上がりなのに、昨夜は随分飲んだんじゃねぇのか? 平気か? 平気なら悪ぃが俺の布団もそっちへ寄せといてくれ」

 嬉しそうに、そして強く笑んだ土方に胸をどきつかせながら、斎藤は二人分の布団を畳んで、もとあった場所に重ねた。そうしてから外の光に目をやって、澄んだ白さに、まだ時刻が早朝であることに気付く。土間では土方が、汲み置きの水で顔を洗っていた。

 場所を空けて貰い、顔を洗い終えた斎藤が振り向くと、土方は板の間に小振りの徳利と猪口を並べて待っていた。開いた戸から差し込む光が、その手許に丁度届いている。

「年初めの一杯だ、斎藤」

 凛と澄んだ眼差しでそう言われ、斎藤は酷く嬉しくなった。誰でもない、この人と、他の誰よりも先に、新年の空気を吸い、新年の日差しの差す場所で、初めの一杯を飲む。嬉し過ぎて、声が震えそうだと思った。

 斎藤は土方が徳利を差し出す場所にきっちりと座し、置かれた猪口を手に取った。そして土方の姿を目に映した時に、見たのだ。土方サイゾウの姿に重なって見える、高く髪を結った美しい影を。それは、今、此処には居ない、この時間の中の何処にも存在し得ない、土方トシゾウの、淡い姿であった。

「ほら、零すぜ、ちゃんと持てよ。……何を見てる?」
「…いえ」
「って、なぁ、分るけどな、おめぇが今、何を『見て』そんな顔してんのか」
 
 ちっ、と小さく舌打ちをする土方が、それでも丁寧に、酒を注いでくれた。斎藤は改めて、土方の顔を真っ直ぐに見て、素直に謝った。

「すみません」
「謝んな! 余計に腹が立つ。いいから飲めよ」

 一滴すら残さないように猪口を干した後、それを置こうとしたら、待ち構えていた土方が、もう一度その猪口に酒を注ぎ入れる。注ぎ終えたその酒を零さないように、土方は随分と丁寧な手付きでそれを受け取り、そして、ゆっくりと飲んだ。

 伏せた瞼が、濃い睫毛が、猪口に触れた唇の形や、色さえもが美しかった。さっき、その姿に重なって見えたトシゾウに勝るとも劣らない。そして、飲み終えた猪口を唇から離しながら、土方は意味深に斎藤を見る。

「おめぇがさっき、俺に重ねた『誰か』じゃねぇ。今、此処に居て、共に新年の酒を干したのは俺だ」

 その姿を間近で見た斎藤は、目が眩む、どころではなく。

「…っ、あ、あん…ったは、本当に…っ」
「今日は何処にも出掛けねぇで、二人で居ようぜ。宴会の残りがあったら、誰か届けてくれるだろうしよ」
「い、家で、何を?」

 逃げて土間の隅っこまで行ってしまって、顔の赤いのをなんとかしようとしながら、斎藤が問う。

「そうだなぁ、まずは少しばかり、昔話をするかな。おめぇ昨日タケさんに聞いたんだろ。そのこととか、な」

 言い終えて、徳利と猪口を遠ざけた土方は、唐突に着物の上をはだけて両袖を抜いた。そうして日の差す方へと背中を向けて、言ったのである。

「自分じゃぁ見えねぇから、見てくれよ、俺の背中。まだあん時の傷が残ってるかどうかを、確かめてぇんだ」
 
 さあ、早く、と急かすように、土方は斎藤の方を見やった。斎藤は言われるまま土方の後ろに座り、光に照らされている白い背中を見る。傷跡などひとつとて無い、と最初は思えたが、ゆっくり、辿るように隈なく眺めていたら、それが分かった。

「ここ、ですか? うっすら、斜めに。何か、引っ掻いたみたいな」
「多分それだ。まだ残ってるか? しつけぇ傷だな」

 片手を後ろにまわして、土方は己の指でそれへと触れる。

「昔は触っても分かったが、ここ数年は忘れてたし、もう触ってもよく分からねぇ。折れた棒っ切れかなんかで殴られてな。着物は裂けたし、肌も切れて、そのあと少し膿んだんだよ。熱も出て、じいさんが必死に看病してくれたっけ」

 着物を直しながら、土方はまだ、淡々と言葉を続けている。

「おかしなことを言うって思うかもしんねぇが、この傷は俺にとって、後悔の傷さ。トシゾウを恨む奴らに襲われて散々殴られながら、小せぇときからずっとじいさん聞かされてきた『トシゾウ』を、俺は疑ったんだ。本当は、悪ぃ奴だったんじゃねぇか、こんなに人に恨まれるような酷いことを、した奴だったんじゃねぇのかってな」

 振り向いて、土方は斎藤の顔を覗き込んだ。斎藤は顔の影になる場所で項垂れていて、どんな表情でいるのか、土方には分からなかった。

「腹がたったろ? 俺のこと、罵っていいんだぜ、斎藤」
「…何故です…?」
「なんでって。おめぇは芯からトシゾウを信じてんだろ? 夢で見て、本当のトシゾウがどんな奴かも、分かってるだろう?」
「えぇ」

 斎藤は、自分に背を向けている土方の肩の方へと両手を伸ばして、皴になってしまっていた襟を整えてやり、そして言った。

「確かに、今の土方さんよりも、あの人のことはきっと知っている。だからこそ分るんです。沢山のひとに恨まれる理由も、数え切れないほど持っていた人だったってこと。だから、あんたは遠い過去の傷にまで、痛みを抱えていなくていいんです。…あと」

 斎藤は、ひとつ、咳ばらいをした。

「昨日の帰り道みたいなこととか、今日のこれとか、なるべくやめて欲しいです。もしも堰が切れたら、自分で自分を止める自信は、正直ないです」
「……っ…」

 言い捨ててすぐ、斎藤は土方の傍を離れた。随分と狭い家のこと、姿の見えない場所にいくことは出来なかったが、とにかくついさっきのように、台所の方へと逃げて、そこにある小窓から外へと視線を逃がしていた。

 何処にも出掛けないで、二人で居よう。そう言った自分の声は、まだありありと覚えていたが、土方はひとこと言い捨てて、逃げるように外へと出て行ってしまった。

「は、腹が減っちまった。宴の残りもん、なんか貰ってくる」







 

 らぶらぶだなぁ、などと思いながら、元日の朝の二人を書いてみました。幼少期の出来事を思い返す土方さんのことは、書いていてちょっと意外と言うか、こんなことを言い出すとは思いませんでしたが。この先どうなるんでしょうね! もうちょっとの間、石田村に居ると思います。では、また次回っ。




2024.09.08









時差邂逅