三
十
「斎藤ハジメは、置いていかれたんです。会津で。ずっと傍に居る、けして離れないと誓っていたのに。お前は此処に留まれ、ついて来るなと言ってあの人は背を向けて、容赦なく去っていった。そして遠い遠い地で…死んだんです」
淡々と、けれども酷く悲しい声だった。それは遠い過去の話、斎藤ひとではなくて、斎藤ハジメのこと。それなのに、斎藤は自分のことのように震え、胸の痛みに嗚咽を零す。
「二度と離れない、って、何度も何度も伝えていたのに…。あの時、腕の中に閉じ込めて離さなければよかった。怒りに触れようと、罵られようと、芯から嫌われようと構わなかった。二度と会えないぐらいなら、憎まれたってよかった…っ」
息が出来なくなるぐらい強く、斎藤は土方の体を抱いている。痛みと息苦しさに耐えながら、土方は自分の脳裏に浮かんでくるものを見ていた。それは、初めて見たあの夢の情景だった。
風に揺れる柳。光の跳ねる早朝の川面。冷たい風が吹いていて、傍らには斎藤ハジメが居た。
『俺なら…腕の一本、脚の片方、それとも両の目でも』
それらを借りに失くしても、
あんたの傍を、離れない。
そんなふうに言おうとしたハジメに、トシゾウは、なんて返した…? 耳の奥から、はっきりと聞こえてくる、あの声。
『そういうつもりでいるんなら、お前えも、置いて…』
なんでだ? どうして。ずっと一緒に来たんだろう? それまでずっとすぐ傍に置いていて、なんでそんなことを言う? そんなふうに言うだけでなく、本当に、トシゾウはハジメを、置いていったのだ。それが、彼ら二人の「最後」になった。
夢が、土方に教えた。かつて本当にあったこと。浅川の岸辺で。柳の葉の揺れる傍で。
そして、想像するだけでもあんまり辛い、置き去りにされた時の、斎藤ハジメの気持ちも、分かる気がしたのだ。
…そうか。だから。
だから、斎藤、お前ぇは、
俺が背を向けるたび、あんなに…。
土方の手のひらが、おずおずと斎藤の背中を撫でた。いつかは夢で見るかもしれない。でも今は、その時のことを何も知らない。土方が斎藤に、今言ってやれることは、たった一つだった。
「なぁ? 斎藤。どんなに顔が似てたって、例え本当に生まれ変わりだとしたって。俺はトシゾウじゃぁねぇんだから。そんなに怖がらなくっていいんだよ。俺はちゃんと此処にいるだろ…?」
居なくなったりしねぇ。
置き去りにしたりしねぇ。
ましてや、
死んでおめぇを一人にしたりなんか、
しやしねぇから。
「えぇ。えぇ、分かっているんです。でも…怖くて…」
「…しょうがねぇなぁ、おめぇは」
幼子の背を叩くように、ぽん、ぽん、と。土方の手が斎藤の背中を、何度も何度も、優しく叩いていた。
「す、すみません、こんなつもりじゃ」
「まったくだ」
隙間風の吹く土間なんかに、二人して長いこと居たものだから、終いには斎藤がくしゃみをしたし、土方は鼻水が垂れそうだった。今は囲炉裏を間に挟んで、二人して冷えた手を炎にかざしている。
「大丈夫か? 斎藤。また熱が出たりしてねぇか?」
「大丈夫です。土方さんこそ、その足の怪我、ちゃんと手当てさせて欲しいです」
「して貰わなくたっていいよ。俺ぁをなんだと思ってんだ。薬屋だぜ?」
そう言い放った土方は、傍らにある薬箱を引き寄せて、中も見ずに晒と塗り薬を取り出している。流石の手際であっという間に手当てを終えて、ばたん、と少しばかり大きな音を立て、箱の蓋を閉じた。
「で? 結局おめぇは何が言いたかったんだよ?」
「ええ、と。だ、だから、俺の中には斎藤ハジメが居て。その斎藤ハジメが土方トシゾウを好きなので、どうしても、その…す、好きでいるのをやめられな」
「何言ってんだ。おめぇ本人もトシゾウが好きだろ?」
いらいらと、土方が斎藤の言葉を遮る。
「十五年も想ってきた。今でも焦がれてて、大切、って、その口でさっき言ったじゃねぇか」
「でも! それでも! 俺が好きなのはあんたです」
「へぇー」
小指で耳の中を掻きながら、土方はそっぽを向いている。斎藤は尻尾の垂れた犬のようにしょげ返って、おろおろと言葉を探した。
「…どうしたら、信じて貰えますか、土方さん。何かに、誓えばいいですか?」
「そうだなぁ」
土方は薬箱を手で押しながら、少し囲炉裏から離れた。自然と斎藤とも距離があく。足指に巻いた晒がほどけないように、片手を添えて胡坐をかくと、着物の裾がめくれあがって、白い脚が露わになった。
「おめぇ、ちょっとこっち来てみろよ」
「え…」
「いいから」
しょげた犬は、言われた通りに寄ってくる。もう手が届く、というところまで近付いた斎藤の襟を、乱暴な土方の手が掴んだ。
「…っ!」
強引に引き寄せて、重心を崩した斎藤の体が自分の方へと倒れ掛かってくるのを、肩と胸で抱き止める。少し髪の伸びた斎藤の頭を、土方は片腕で抱いたのだ。
「ひっ、ひじか…ッ」
「うるせぇ」
そう言った土方の唇が、斎藤の耳朶に触れている。そのまま、まるで愛撫のように軽く噛み、甘く食んだ。
「…あぁ…。俺だけだ、って言わせてぇなぁ」
抱き寄せて耳に直接流し込む、誘惑の言葉。斎藤は抱かれたままで震えて、心を込めて言うのだ。
「…あんただけです」
「嘘を言うな」
「嘘じゃない」
「それが嘘だ。生まれ変わりだなんだ、関係がねえ。おめぇの中には俺以外のヤツがいる。それが事実だろ?」
腹が煮えてしょうがねぇ。
仕方がないなんて思えねぇんだ。
寒い河原でひとりで蹲って、
俺がいったい、
どんな想いでいたか。
「…俺ぁは」
おめぇだけなのに。
「土方さん…」
言葉にしなかったそれを、斎藤が分かったのかどうか。
「それでも、傍に、居てくれるんですか…?」
「…それはなぁ、あれだ。傍で見張ってねぇと、おめぇは夢の中に囚われて、今に向こうに行っちまいそうだからだ。行けるもんなら行きてぇって、おめぇはなんべんも思ったろ。それが何よりの願いだったろう?」
言い当てられて、斎藤はそれを否定することなど、出来はしなかった。
「図星だろ。…けどな。させねぇよ、俺が、させねえ」
だっておめぇは、
もう俺のもんだから。
土方は斎藤の頭を抱いたまま、畳の上に仰向けになる。引きずられて倒れ込んで、二人は自然と体を重ねた。
「ひ、ひじか…」
「…なぁ? おめえ。俺が欲しいんだろ。駄々洩れだもんなぁ…」
首筋を軽く吸われて、斎藤の体が、びくりと震える。ちゅ、ちゅ、と、小さな音を鳴らして、土方は幾度も、彼の肌を愛撫した。
「でもよ。駄目だからな。他のヤツのこと思ってるうちは、おめぇから手ぇ出すのは許さねぇ。あんな想いさせられた仕返しだ」
あんな想い、と土方は言う。少しでも体を離そうともがいて、欲と真逆の動作をしながら、沁みるような喜びを、斎藤は感じていた。いつから、いつの間に、こんなに想われていたのだろう。
「…はい。……あんたが、いいと言うまで、お預け、ですね」
「そうだ。もし、無理強いしようとしたら」
その時、この人は俺の前から、去っていくのかもしれない。
じゃあもう、何も迷うことは無い。去っていかれることも無く、嫌われることもなく。これからも傍に居てくれるのと言うのなら、どんなに苦しくとも、耐えられるに決まっている。
一緒の部屋で目を覚まして、
向かい合って朝ごはんを食べる。
時には庭で並んで竹刀を振るし、
道場ではみんなと一緒に稽古して、
俺とは手合わせもしてくれるんだろう。
どうってことないのに笑い合って。
きっとあんたは俺のことを、
からかっては楽しそうにするんだ。
そんな宝物のような日々を、
これからも。
畳の上に両手をついて、土方を真っ直ぐに見下ろしながら、斎藤は眩しそうに、笑っているのだった。
「約束、しますよ、土方さん」
続
結構間が開いてしまった。すみませんんんん。今日もう遅い時間なので、ここ明日以降に書き足しに来ますっ。(いけね、つづき書きに来るって書いてて書いてませんでしたー)
2024.02.05

