まだ明けきらぬ早朝の道場に、竹刀の音が何度も響いていた。二人の男が、打ち合っているのだ。否、打ち合えてなどいない。一方的であった。

 胴、籠手、また胴、次は面。音だけで、何処を打たれたのか分かる。続けざま、鋭い音である。もしも、防具で守られていない個所を打たれたら、下手をすると骨が砕けるかも知れぬ。それほどの、容赦のなさだ。

「まっ、まだっ、やれる…ッ」
「……」

 せいせい、と、浅い息を吐き名ながら、負けている方が叫んだ。相手は返事をしない。ぱぁん…っ。と、また打つ音。どどッ、と床に倒れ込む音が続く。倒れた男はすぐには起き上がれず、必死で足掻き、もがいていた。

「もう諦めろ」
「嫌だっ、まだまだっ、負けてねぇ…ッ」

 男は全身の痛みを堪えながらやっと立ち上がるも、眩暈を起こしかけて真っ直ぐ立てていない。構えた竹刀も、ゆらゆらと震えていた。

「…困らせるな」
「俺も行くんだっ、兄貴から一本取ってっ、行くんだ兄貴と…ッ。行きてぇんだッ」
「太吉」

 負けている方は元は農夫の、多摩の薬屋だ。石田散薬を売り歩いている。剣術も学んではいるけれど、所詮はただの手習いか、竹刀の握り方も構え方もなっていない。一方、相手をしている男は防具も身に着けていずに、端正な顔をさらしたままだ。 

「…しょうがねぇな、太吉」
「つ、ついてっていいのかッ」
「いいや。しょうがねぇから…もう、おとす」

 言うなり竹刀が、撓るかのように空を切った。今までとは比べものにならないような強さで脇を払われ、太吉は声も立てられずに昏倒した。物凄い音がして、誰かが覗きに来るんじゃないかと、男は一瞬外を気にする。

 打ち合うのをやめれば、多摩の朝は静かだった。川の音がして、鳥の声がする。草いきれが窓から入り込んで、その匂いを男は懐かしい、と思っていた。懐かしい。もう、戻れないかもしれないから、より一層、そう思えるのかもしれなかった。

 今一度、彼は昏倒している太吉を見下ろした。屈んで手を伸ばし、紐をほどいて面を外してやると、太吉は苦しそうに顔を歪めている。汗びっしょりでくしゃくしゃの髪に、男は白い手を触れて言うのだ。

「…連れてけ、って。出来るわけねぇだろう。子が生まれたって言うじゃねえか、太吉よ。お前はこれからも、石田散薬を広めて欲しい。そうしてずっと、多摩を守っていって欲しいんだ、身勝手な俺の分も」

 男が立ち上がろうとすると、その服の袖を太吉は握った。でもその手には力が入っていなかった。ゆっくり、優しくその指を離させて、男は道場を出て行った。大の字で寝転がり、号泣する太吉が、其処にひとり残されたのだった。

 彼は、土方歳三。北へ北へと転戦していく途中、郷里の多摩へと寄ったのだ。土方が外へ出て、暫く人影のない道を行くと、川岸の柳の幹を背に、背の高い男が風に吹かれていた。

「あんたも、大変だ。…諦めさせたのか?」
 
 軽く振り向きそう言われ、歳三は顔を上げて、ようやく青い色を差しつつある朝の空を見上げる。額にかかる髪が、さら、と揺れた。

「斎藤か…。おめぇは昔から、妙なとこに出てきやがる。…諦めさせねぇと、どうしようもねぇだろう。竹刀すらちゃんと振れねぇ隊士を増やしてどうする。遊びにいくんじゃねぇんだ、死なせるだけだ」

 その横顔を、斎藤が見ていた。土方は居心地が悪そうに、少しばかり項垂れる。足元の草の中に、牛額草の葉が見えたように思えたが、気のせいに違いはなかった。季節が違っている。思えば太吉はあの頃、暑い日差しの下、牛額草を摘むのも一生懸命に手伝っていた。

「あいつぁ、ガキの頃から片目が見えねぇんだよ。若い頃の俺のせいでな。兄貴兄貴って、しょっちょう俺にくっついてたもんで、俺を疎んじるごろつきにやられたんだ。そんな目に合わせた俺ぁを、なんでまだ慕うかね」

 斎藤は足元に生えている雑草の数本を、無造作に毟って風に散らした。彼にとっても今立っている場所は懐かしい場所だった。この川縁で、初めて土方を見た時のことを、忘れる筈はない。

「俺なら…腕の一本、脚の片方、それとも両の目でも」

 続けて言おうとした斎藤に、土方は鋭い目を向けた。例え話でもなんでも、そういう言葉は嫌だった。

「そういうつもりでいるんなら、お前ぇも置いてく」
「置いて行かれたって追い掛ける」
「……」
「ずっと、追い掛けて、傍にいる」

 風が強くなった。顔をそむけた土方の、着ている藍の着物の袖が揺れて、斎藤はその袖を無造作に掴んだ。不遜なことだが、やめろと言葉で咎めても、仕草で厭うても、振り解かせはしないだろうと、土方には分かるのだ。

 だから、許した。近くに人の気配は無く、土手へ下りれば誰からも見えない。草の背も高い。

「好きにしろ」

 けれども、土方が言った言葉で、斎藤は指から力を抜いたのだ。言下に許され抱き寄せようとしたことをやめて、土方がたった今言った言葉を、その前に自分が言った言葉の返事にした。無理にでも、斎藤がそう決めたのだ。

「言われなくとも、あんたの傍にいるよ」
「…さかしいことを」

 土方の目が、微かな怒気を含んで細められる。けれど斉藤は、眩むような心地でその睫毛を、唇を見ていた。口付けたい想いをたった今押し殺したばかりだ。

「なんと言われようと」

 ざっ、と大きく草が鳴って、土方はついさっき斎藤に握られた己の袖を、流すような目で見た。川面をかすめるように、番の鶺鴒が飛び去っていくのが、二人の男の目に映っていた。




 布団が違うせいか、その夜は寝苦しかった。何度も目が覚めて、だから土方は、切れ切れに夢を見ていた。奇妙な、夢だった。


 連れてってくれよ! 
 天然理心流に俺も入門したんだっ。
 筋がいいって言われるんだよッ。
 だから…っ。


 縋るようにそう言っている声が誰の声か、彼は知っている。直接聞いた声なんかじゃない。これは彼の祖父が若かった頃のことだ。だけれど、すっかり覚えてしまうほど繰り返し聞かされたから、耳に沁みついてしまっている。

「…とうとう、夢にまで見ちまったじゃねぇか」

 しかもそのあと、竹刀で打ち合って一本取れたらなんて、無茶なことを言って打ちのめされた話なんかを、涙ぐみながら何回も。

 祖父の太吉は呆れるほど、郷里のかの英雄が好きだった。大好きで憧れて憧れて、彼がとうとう遠い北の国で死んだと聞かされてからも、その憧れは薄れることがなく、老いて足腰が立たなくなるまで、ずっと石田散薬を売り歩いた。

 太吉の息子の太一もその息子のサイゾウも、その跡を継いで薬屋になったのだ。なんでそんなに、と彼が生前の祖父に聞くと、お前も俺だったらわかるのにな、などとおかしなことを、きらきらした目をして言ったものだった。

「土方歳三」が凄い人なのも、立派なのもよく分かってる。多摩の外では逆賊と言われていて、だから郷里では身内だってそのことを隠していたけれど、心の底ではみんなずっと、彼や近藤勇を褒め称えていた。

「だからって」

 孫に、そのままの名をつけるかよ。朝の光の中で起き上がり、土方はそう呟いた。

 お陰で彼は様々な意味で、複雑な思いをしてきたのだ。逆賊と同じ名。英雄と同じ名。どっちにしても厄介だ。しかも、どっちかじゃなくて両方だ。俺はトシゾウじゃねぇ、と酷く反発したこともあったが、もうそんなことに突っかかってばかりいる子供ではない。

 俺は「としぞう」ではなく「サイゾウ」だ。郷里で自慢の薬を売り歩く薬屋だ。たった今だって、薬を沢山買ってくれると約束してくれた道場にいる。稼ぎになるし、いい働きが出来た。あとは約束通り買って貰って帰るだけだ。

 その筈、なのだが。

 閉じた襖の外で気配がした。遠慮がちにそこが開いて、その向こうに居た斎藤が、土方が起きていると見て、ぐっと大きく襖を開く。

「土方さん、朝餉が出来てます。夕べと違って、いつも世話してくれている隣家のおかみさんが用意してくれたものなので、口に合うと思います」

 顔を洗ってから、土方は礼を言って朝餉に預かる。土地が近いからか郷里の味と似ていて、美味いと思った。が、どうにも彼は落ち着かなかった。斎藤がずっと傍らで見ているのである。しかもまだ朝早い頃だというのに、すでに胴あてや籠手まで着けたなりだった。

「…朝から一手、試合ってきたのかい?」
「まあ。畑仕事の前に稽古をと来るものもいるので」
「なるほどな。で、なんでお前ぇはその格好で其処にいるんだ?」

 問うと斎藤は、今度は縁側の方の障子を開けて、その向こうに置いてあるものを土方に見せた。

「傷みの少ない、一番新しいものを用意したので」

 どうぞ、とばかりに見せられたのは、胴や籠手、面まで揃った防具一式だった。勿論竹刀も添えられている。

「剣術をやるとは言ってねぇよ」
「やりませんか…。少しでも」
「…いや」

 見るからにがっかりされて、せっかくの美味い朝餉の味が分からなくなる。最後のひとくちを飲み込んで、箸を置いてから土方は言った。

「なんでやらせてぇんだよ」
「……その。俺が、見たい、から」
「何が?」

 いぶかしむ土方に、尚更斎藤は消沈する。

「でも、昨日は退屈そうにもせず、あんたは皆の稽古をずっと見て」
「見るのとやるのとじゃ違う」

 気を変える様子もない土方の横で、斎藤はすくりと立ち上がった。そして裸足のまま庭に降りたのだ。

「ならまず、見て下さいますか、俺を」

 返事を待たずに、斎藤はそこで竹刀を構えた。びしりとした構えは真剣で、土方も縁側に腰を下ろしてそれを見る態になった。何を見せるつもりかと思えば、斎藤は一通り、構えを披露した。

 正面、小手、右胴、突き、小手から面、払って面、引いて右胴、小手すり上げて面。面返して右胴。一人だから払うもすり上げるも相手は居ない。それでも土方には見ていて分かる。斉藤の見抜いたように、彼も剣術を知っているからだ。

 美しい型だった。恐らく、立派な師から長く学んだのだろうと思う。学ぶ相手の誰も居ない自分とは、大違いだと土方は思った。胴打ち落として面まで見せて、型は一通り終わったと見るや、そこで終わりではけしてなかった。

 ふ、とひと呼吸分休んだのちに、斎藤は更に複雑な動きを見せたのである。真剣を持った相手がそこに居て、斎藤も真剣でそれに対峙しているかのようだ、と土方は思った。速さも違う。竹刀の動きを途中で見失いそうになる。見ているだけなのに、土方の息は自然と上がり、体が強張った。

 ただ、斎藤が動いている其処は、踏み石もあり草木も生えた狭い中庭だ。つ、と下がった片脚の踵が、踏み石の上に斜めに乗り上げ、彼の体は瞬時傾いた。

「…っ、斎藤…ッ」

 土方は無意識に立ち上がっていた。その声に驚いて斎藤は彼を見、そうして見開いていた目に、微かな笑みを乗せたのだった。汗が、つうっ、と彼の額を、そして頬を滑り落ちた。

「助太刀、ですか? 土方さん」

 腰を浮かせた土方の手には、彼のためにと用意された竹刀が、しっかりと握られていたのである。















時差邂逅