二
十
九
あぁ、あぁ、嫌だ。聞きたくねぇ。
なんで聞かなきゃならねぇんだ。
逃げずに聞くと、もう言ってしまったのに、それでも土方は逃げたくなった。斎藤が話すのは、彼がずっと見てきた夢の話だ。とっくのとおにこの世に居ない癖に、それでもずっと斎藤が焦がれ続けてる、土方トシゾウの話。
聞かせてどうしようってんだ。
と、土方は思う。
惚気か、自慢か。
それとも、俺にそれを聞かせて、
身替わりを納得させようってのか?
冗談じゃぁねぇ…っ。
心底嫌で、いらいらして。でも同時に土方は、怖くなっていた。話を聞いて、俺がそれを跳ね付けたら? ふざけんな真っ平だって、拒絶したとしたら? もしかしておめぇは、もう、俺のこと…。
体が芯から震えるような心地がした。じっと自分を見てくる斎藤の眼差しから、土方は目を逸らす。横を向いて彼を見ないようにし、さらに目を閉じた。けれど、耳まで閉ざすことは出来ず、とうとう、その言葉が聞こえてきたのだった。
「夢に、あの人が出てきたのは…」
夢に、あの人が出てきたのは、俺が五才の時でした。師匠に初めて会って、その夜に見た夢だったのを覚えています。夢の中のあの人は、本当にきれいだった。目が覚めたあと、忘れてしまうのが嫌で、もう一度夢の中に戻りたくて、いつまでも布団に居座って、父に叱られた。
その日から俺は、同じ夢を何度も何度も見ました。すっかり心を奪われて、夢から覚めていても、繰り返しそのことばかり考えて、うわの空で、ぼうっとして。そんな俺を心配した両親が、気分転換に習い事でもしたらどうか、って言ってくれて。
俺は迷わず、剣術がやりたいって言ったんです。
夢の中のあの人が、道場で木刀を振っているので、俺も同じことがしてみたかった。父は俺をもう一度、ハジメさんのところに連れて行き、俺は師範学校で剣術を教えていた師匠の、生徒の一人になったんです。
剣術は最初から面白かったけれど、だからと言って夢を見なくなるわけじゃなかった。むしろ毎日のように見るようになって、木刀を振る姿だけじゃなく、あの人のいろんな姿を見られるようになり、俺はますます夢中になりました。だって、あの人の居る夢の中で、俺はあの人と共に剣術を学ぶ一人だったんです。
夢を見さえすれば、同じ道場で同じ空気が吸える。視界にあの人の姿を見て、あの人の声を自分の耳で聞けるんです。けして親しいわけではなく、遠くから見ているだけでしたけど。
正直俺はもっと近くに行きたくて、少しでも親しくなりたくて、なのに声も掛けないで、彼が自分の方を見ていない時に、じっとその姿を見ていました。いつまでも何もしない夢の中の自分に腹を立てながら、仕方ないとも思っていたんです。
だってあの人は、
いつも、
眩しすぎたから。
でも、そういう俺の眼差しを、あの人は気付いていたのかもしれません。夢の中で数年の時が流れていって、新選組の副長になった彼は、時々俺を、傍に置いてくれるようになったんです。
その頃の夢の舞台は京。命を狙われることが多かった彼を、側近として守るようになれました。腕を買われて信用して貰えて、少し、気を許してくれるようになったんです。本当に嬉しかった。天にも昇る気持ち、っていうのは、こういうことなんだなって思っていましたよ。
そこまでつらつらと話しておいて、何かに気付いたように、斎藤は土方を見た。土方はずっと斎藤の方を見られず、噛んだ唇を震わせていた。
「土方さん…?」
名を呼ばれ、土方はちらとだけ斎藤を見る。そして無理にでも強がって、鼻で笑った。
「ふん、すっかり虜じゃねぇか、夢でしか会えねぇってのによ」
からかうようにそう言った土方を見て、斎藤は短く息を吐く。ついさっき、あんなに苦しそうだった彼が、今は笑っていて、ほんの少しだけ安堵したのだ。
「そうですね。なんでそんなに、って正直、思います。でも俺にとっては、あの人の傍に居られる夢の為に、現実があるようなものでした。夢は夢、現実は現実なのに、そうとは思えず、まだ幼い子供の自分が、少しでも夢の中の自分に近付けるようにと、いくらでも稽古しました。竹刀を握れなくなるまで素振りしたり、もっともっと強くなりたいと、師匠に懇願したり」
それぐらい、焦がれていたんです。でも…。
聞こえないぐらい小さく、斎藤がそう言った。どこか淋しげで、痛みを堪えるような眼差しで、彼はじっと自分の足元に視線を落としている。気付いた土方は不思議に思ったのだ。
なんなんだよ? 夢を見るたびトシゾウに会えて、傍に居られて、信頼されて自分の剣の腕で相手を守れて。天にも昇る気持ちって言ったくせに、なんでそんな目をしてやがる…? トシゾウにそんなに無我夢中で、夢で会うだけでも嬉しいんだったら、笑っていりぁいいだろ。
また、斎藤が土方を見た。どうせトシゾウと重ねるだけなら、見られたくはなかったが、その時向けられた眼差しのあまりに悲し気な色に、土方は視線を逸らすことが出来なかった。
「…前に、土方さんは、夢で見た斎藤ハジメと俺を重ねて、俺の胸の怪我を心配してくれましたよね。あの時、俺、自分のことを『斎藤ハジメじゃなくて、ひとです』って言ったけど、本当のことを知るまで、随分長いこと、夢の中のハジメは俺なんだって思ってたんです…」
「え…?」
それを聞いても土方には、どうして斎藤が今、そんなにも辛そうにしているのかが分からなかった。
「斎藤ハジメ、っていう名前の人が本当に居たことを、俺は知らなかった。俺が夢で出会って、その瞬間から憧れて、どうしようもなく焦がれた土方トシゾウは、斎藤ハジメと、遠い過去の時間の中に、本当に存在して、互いに傍に居て互いで互いを必要として、気持ちを通じ合わせて、共に、生きていたんです…」
じっと彼を見ている土方の前で、斎藤は目を強く閉じ、顔を歪めた。土方は何も言えなかった。ただ、たった今、斎藤の胸を刺しているだろう痛み、その鋭い刃のような苦痛を、じんわりと、己の心に感じた。
「俺は斎藤ハジメの目を通してあの人を見て、斎藤ハジメの耳を通してあの人の言葉を聞いていた。あの人に触れたのは俺の手じゃない。あの人を守ったのは俺の腕でも、俺の剣でもなかったんです。微笑みかけて貰ったのも、名前を呼んで貰ったのも…っ。許してもらった、あれも! これも! 全部…。何一つ、俺のものじゃ…なかった…」
斎藤は片手で顔を覆って、荒い息をついている。土方はやっぱり何も言えず、土間に置いた漬物樽に腰かけて、ただ、斎藤の姿を凝視していた。長い沈黙が続いて、そのあと、ぼそりと言ったのは、土方だった。
「……夢は、夢だもんな…。たまには正夢なんてぇもんもあるけどよ…。トシゾウはとっくに死んだ過去の人間だし、おめぇは斎藤ひとであって、斎藤ハジメじゃねぇし。おめぇが、どんなにトシゾウのことを好きになったって、どんなに自分を見て欲しいと思ったって、そりゃ無理ってもんだよな…」
夢の中ではハジメで居て、きっとトシゾウと気持ちが通じたんだろう。爪一枚、髪ひとすじさえ自分が守るって誓って、どこまでだってついていく、死ぬまで、死んでさえも傍に居る、ってくらいの気持ちでいて。なのに、その気持ちすら、夢の中のハジメの想いとしてトシゾウに届くだけだ。
それでも好きだ。
あんたが好きなんだ。
ハジメじゃなくて、
俺は"ひと"として、
あんたを。
トシゾウを。
斎藤は何も言っていないのに、彼の想いが土方の胸の中に響く。それを見て悔しいと思う気持ちと、あんまり可哀想だと思う気持ちが、ひとつの場所で重なって、絡まって、解けなくなりそうだった。
漬物樽に座ったまま、その両脇に手をかけて、土方は投げ出すようにしていた両脚を、床から浮かせてゆらゆらと揺らす。子供のような仕草をしながら、力のない声で、彼は言った。
「…おめぇさ、あの橋の袂で俺ぁを見た時、嬉しかったんだろうな。だって、夢でしか会えない『トシゾウ』はハジメのもんだったけど、あそこで会った俺ぁは、おめぇだけが会える『トシゾウ』だもんな…」
自分の生きるこの世に、自分と同じ地面を踏んで、トシゾウと同じ顔した人間が、同じ空気を吸って生きていて。あぁ、この人が、俺のトシゾウだ、って、そう思って、夢みたいに、嬉しかったろうな。
けど、俺は、トシゾウじゃねぇんだ…。
土方が言葉にしたのは想いのほんの一部。すべてを声で言うのはあんまり嫌で、唇噛んで、彼はまたそっぽを向いていた。
ずっとずっと年下の斎藤を、そうだったのか可哀想だったなって、慰めてやることも出来ない、狭量で、ちっぽけな自分。顔が同じ、声が同じってだけで錯覚して大事に思ってくれるだけなのに、そんなこととは思いもしないで舞い上がって、愚かで浅くって、みっともねぇ。
だけど。
そうだよ、俺がお前の『トシゾウ』だぜって、これから精一杯で背伸びして、お前の理想のまんまに振る舞ったら、お前は、トシゾウの替わりに、ずっと俺を見て、俺の傍に居てくれるんだろうか。
一緒の部屋で起きて、
一緒に芋の煮っころがしなんか作って、
それを一緒に食って。
朝っぱらから庭で並んで素振り。
気のいいやつらと一緒に、
おめぇに剣術習って、
おめぇと手合わせもして、
そんで他愛のないことで笑ったり、
今までとおんなじに、
おめぇのこと、からかったり…。
「斎と…っ」
「違います」
聞こえてきた言葉は、耳から入ると同時に、振動として胸に入ってきた。さっきまで、顔を向ければ見えていた斎藤の姿が、目を見開いても、見開いても見えない。
「違うって、言いたくて話をした筈なのに、すみません、土方さん。俺、全然うまく言えなくて、自分が苦しかったって、そんなことばかり」
冷えていた体が、温かなもので包まれていた。抱きしめられたと気付いて、土方は逃げようとしたのだ。でももがくたびに、斎藤は腕に力を込め、自分の胸に土方の体を埋めるようにしてくる。
「あんたを見て、最初は確かに『あの人だ』って思いました。あんまり急で、あんまり似てて、混乱したし、すぐにはそうとしか。でも傍にいるうちに思ったんです。顔も仕草も喋り方も、好きなものとか性格も、凄く似てるけど、そのものだけど、違うんだって」
「……い、言ってることが、わかんねぇよ」
土方が震える声でそう言うと、斎藤の声は、ほんの少しの笑みを含んで、彼に教えた。
「あんた、年の割にガキっぽくて、意地っ張りで見栄っ張りで、随分無邪気で、ことあるごとに変にふざけるし。夢の中で俺が憧れた、新選組副長の土方トシゾウとは、ぜんぜん」
抱きすくめられたまま、土方は目を丸くした。なんで俺は、十も年下のガキにガキ呼ばわりされて、散々こきおろされているのかと。
「てっ、てめぇ、ふざけっ」
「でも、あんたはそういう素の姿で、俺をぐいぐい引っ張るんですよ。気付いたら、夢を見る回数はぐっと減ってるし、見たとしても、起きた途端に目の前にいるあんたの存在があざやか過ぎて、夢の情景が一瞬で褪せてしまう」
「…けどおめぇは、トシゾウにずっと焦がれてたんだろ…っ。今だって、トシゾウのこと好きなんじゃねぇのか」
往生際悪く、逃げ出そうと体に力を込めたまま、土方は言った。すると斎藤は、言葉に迷うようにしばらく黙って、それから、ゆっくり、ゆっくり土方に話した。
「焦がれてるし、あの人のことは、今でも、心底大切です。…っい…ッ。ひ、土方さんっ」
土方は、目の前に見える斎藤の肩口に、思い切り歯を立てていた。
「痛いです…っ」
「うるっせぇ、この野郎…ッ」
一度口を離した癖に、もう一度、がぶり、と。
斎藤はその痛みに体を震わせたが、やめろとも、離してくれとも言わなかった。血を見るほどではないけれど、斎藤の肩と首の間あたりに、土方の歯が喰い込んでいる。当然唇も触れていて、斎藤は意識して呼吸をゆっくりにしながら、目を閉じた。
「…すみません、でも、嘘を吐きたくないんです。五才の頃から十五年、ずっとあの人を想ってきた。夢の中の俺は斎藤ハジメで、だから斎藤ハジメとしてだけど、俺はあの人の一番傍に居たんです。…離れ離れになる時まで」
「離れ…ばなれ…」
そう言った土方の熱い息が、斎藤の首筋にかかる。その呼気が、何かに怯えるように、震えて、いた。
続
すんごぉぉぉぉーーーい、間が開きましたが、なんとかやっと書けました。難しいところだったのと、いろいろ仕事とかプライベートとかで重なって、執筆自体を年始まで二か月停めてましたしっ。とにかく書けてよかったですっ。読んで下さった方、待っていてくださった方、本当にありがとうございますっ。
もうこの話、複雑過ぎんよっ、誰が考えたんだバカーーっ。でも好きだーっ。
2024.01.07

