もうすぐ明け方という頃。土方はもそりと体を起こして、すぐ隣に眠っている斎藤の顔を眺めた。まだ日は昇っていないから、部屋の中は明るくはないけれど、それでも寝顔がよく見えて、彼は布団の上で身をずらし、少し斎藤の方へと近付いた。

 斜め上から見下ろすように、視線で斎藤の顔をなぞる。出会った時に比べたら伸びているけれど、それでもまだ短い髪。余分な肉の無い顎の線。通った鼻筋、薄い唇。睫毛は長くないけれど、きれいに揃っている。

 起きている時ほど、大人びては見えねぇ。

 そんなふうに思いながら、土方は布団の上についていた右手を、そろり、斎藤の顔へと近付けた。前にもしたように、髪に触れ、顎に触れ、親指の腹でそっと、斎藤の唇に触れる。触れると自分の唇に、昨日の感覚が戻ってくるのだ。そうやって触れたせいか、眠ったままの斎藤が身じろいだ。

 すっ、と手を引っ込めて、土方は出来る限り静かに身繕いして自分の布団を畳み、外へ出ていく。雪でも降りそうなぐらい寒くて、切るような風に時々髪をなぶられつつ、土方はひとり歩き慣れた浅川沿いの道を歩いた。歩きながら、彼はまだ自分の目の奥で、斎藤の顔を眺めているのだ。

 まだ二十歳の、若い顔。道場のあるあの家で一緒に居るようになって、毎日毎日、間近で見た顔。確かに、夢で見る斎藤ハジメとそっくりな顔だけれど、でももう土方は彼の顔を見る時、ハジメと似ている、などと思うことは無くなっていた。

 だって、あいつはあいつだ。
 最初からずっと、
 俺の目の前にいるのはあいつ。
 斎藤ハジメじゃ、ない。
 
 土方は顔を上げて、見慣れた石田村の風景を見た。薄の株が、あちらにひと塊、こちらにひと塊、綿毛はもう殆ど飛んでしまって、淋しい姿のそれが、寒さに凍えるように揺れている。

 耳に聞こえるのは川の音、少し遠くに見える山の方からは、鴉の群が騒ぐ声が聞こえてくる。土手のところどころに見えるのは、葉を落とし切って痩せた姿の、七竈、銀杏、そして柳。見飽きるぐらい見慣れた風景の筈なのに、そのどれもが、どうしてか急に余所余所しく見えてくる。

 彼には分かる。それは自分の中に別の人間の感覚があるからだ。昨日、あの柳の下ではっきりと意識した。多摩郡石田村、この里で生まれ育ち、やがては京へ向けて旅立って、新選組副長として名を馳せた、あの。

 見える風景全部、土方トシゾウの目を通して、見ているような気がするのだ。たった今目の前にある、自分の生まれ故郷、ずっと育ってきた里。此処で得た沢山の記憶が心にあるのに、それでも。

 切ない、悲しい眼差し。震えるような喜び。懐かしむような、愛おしむような、包み込まれ、包み込むような。

「なんなんだよ。…俺の里だぜ。ここは」

 低く声に出して、土方は不満そうに言った。

 土方トシゾウが此処で生まれ育ったことは知ってる。だから俺の故郷でもあって、トシゾウの郷里でもあるんだろうけど。もうとっくの昔に居ねぇ人間だろ。遥か昔に死んじまった癖に、何処にも居ない筈なのに、なんで俺の中にしゃしゃり出て来やがるんだ。

「邪魔すんじゃ、ねぇ」

 うるせぇ。うるせぇんだよ。
 此処は俺の里だ。
 俺の体も心も、全部俺んだ。

 そんで。

 そんであいつは。ひとは、俺を見てんだ。最初っから、真っ直ぐ俺のことだけ見て、俺のことばっかりで、俺に傍に居て欲しがって、ちょっと離れようとしただけで、あんなに焦って、こんなとこまで追っかけてきて。

 あいつは、
 俺を、好きなんだ。
 俺を欲しいんだ。 

 あいつは俺んだよ。
 もう、俺んだ…!

 揺れる柳の枝を邪魔そうにしながら、急な斜面の土手から、無理やり河原まで下りて行く。土方はそこに転がっている石を、苛立ち紛れに蹴飛ばした。いくつも、いくつも蹴飛ばした。草履を履いた足先が痛くなったが、むきになってまた蹴った。

「…ちくしょう」

 昨日見せられた写真が、目の裏に貼り付いたようにはっきりと見えてくる。無為な悪態がまた零れた。

「なんでトシゾウは、俺とおんなじ顔してんだよ。なんであんな、そのものみたいな同じ顔なんだ」
 
 もしも、トシゾウと自分が、全然違う顔ならば、こんな気持ちになることも無いのに。あぁ、だけれど。

 あいつは、俺がこの顔してたから、あんなふうに俺を見たんだ。初対面でいきなりじっと見てきて、道場に入れてくれて、泊って行ってくれと言い、剣術を教えたがった。それもこれも全部、この顔だからだ。トシゾウと同じ顔だから。

 自分を見る斎藤の顔を思い出して、土方は苦しくなった。自分と斎藤の間にあるものは、どれをとっても、そのお陰。斎藤の夢に出てくるトシゾウが、斎藤を強く、強く惹きつけたお陰。

「…無理もねぇんだよな。ずっと小せぇころから、何度も何度も夢で見て、あいつはトシゾウに惹かれてたんだもんな。トシゾウのことが、す、好きなんだもんな」

 とうとうそんなふうに思ってしまい、声まで出して言ってしまって、土方の胸はずきりと痛んだ。血の繋がったじいさんも、父さんも、トシ、トシって言った。似てる、そっくりだ、きっと生まれ変わりだと。そして、今度は『あいつ』がそんなふうに、俺を見る。

 俺を透かして、ずっと遠くにいるトシゾウを見て、
 俺を、どうしたって届かないトシゾウの代わりに…。
 なのに俺は、自分が想われてるとばっかり。

「ちく、しょぉ…」

 小さな子供のように、土方は膝を抱えて蹲った。自分の膝に顔を押し付けて、ゴツ、ゴツと、額を膝に打ち付ける。トシゾウとそっくりな自分の顔が、恨めしくて堪らなかった。

 そんなふうにしてどれだけ時間が経ったろう。体はすっかり冷え切って、土方は己の両腕を、自分の手で交互に擦った。帰らねぇと、と思う。早く帰って、あいつに粥を作ってやんねぇと。朝っぱらから長々留守にして、またあいつは気にして、探しに来ちまうかもしんねぇもんな。

 トシゾウの顔した俺のことを。

 項垂れたまま彼は土手を登って、途中の家で野菜やなんかを分けて貰い、急ぎ足に家へと戻った。がらっ、と戸を開けて開口一番、なるたけ朗らかに斎藤に声を掛ける。

「おう、起きたか、斎藤っ」

 斎藤は自分の使った布団をきちっと畳んで部屋の隅に片付け、着物の上に綿入れを着込むところだった。

「土方さんっ、何処に行ってたんですか。俺、今探しに行こうと思って」
「まぁたそうやってお前ぇは。朝はぐっと冷え込んでんだから、外へなんか出なくていいんだ。ただ野菜を貰いに行ってただけだって」

 土方は斎藤の前を通り過ぎ、土間の小さな台所の方へ行く。貰ってきた菜っ葉や根菜を刻み、昨日の残りの粥に足して嵩増しする。沢庵は斎藤が食べやすいように、薄めの輪切りにしたあと半月の形に切った。

「そろそろ、きりっと味のついたもんも食いてぇだろ? 粥も今朝までにして、夜は普通の飯にすっからな。川魚かなんかを煮付けてよ」
「何か手伝います。何をしたら」
「いいからお前ぇは囲炉裏にあたってろ。そうだ、なら火をもうちっと強くしといてくれ。この鍋、今そっちに持っていく」
「分かりました」

 斎藤は世話を焼いてくれる土方の姿が嬉しい。手間を掛けさせていると思いながら、心配してもらえることに、どうしても心が浮き立ってしまう。でも、心の何処かで彼は、小さな違和感を感じていた。何処がどうおかしいのかが分からなくて、声も掛けられず、土方の言う通りに囲炉裏の火を塩梅する。

 そうこうするうち土方が、粥の入った鍋を持って来た。囲炉裏の火の上にその鍋を吊るし、沢庵を持って来ようと彼が背を向けた時、斎藤はぎくりとしたのだ。

 色の褪せた畳の上に、転々と、赤い…。

「土方さん」

 考える前に手を伸べて、斎藤は土方の腕を掴んでいた。

「足、怪我してます。血が」
「何言ってんだ、怪我なんざぁ」

 けれども、そう言いながら見下ろした土方の目にも、はっきりと映る血の色。右足の親指、その隣の指も、血に汚れていた。

「なんで気付かないんですか、こんな…っ」

 焦って、屈んで、斎藤は土方の足に触れようとした。でも振り払われた。案じて伸ばす手は無碍に蹴飛ばされて、蹴った土方の方が動揺した。

「わ、悪ぃ。でも、大したこっちゃねぇ、こんなの。あとで自分でっ」
「……」

 蹴られてしまった手で、斎藤は強く土方の足首を掴んでいた。そのまま力を込めて、逃げられないようにして、彼は下からじっと土方の顔を見た。

「どうしてこんなふうに怪我をしたんですか? 転んだとか、ちょっとぶつけたとかじゃないですよね。気付かないのだってどうかしてます。土方さん」

 土方は逃げたりしなかったが、目を逸らしたまま何も言わず、けして斎藤を見ようとはしなかった。斎藤は立ち上がり、そんな土方の両肩をやんわりと、だけれど強く掴んだ。

「…やっぱりおかしい。昨日から。ホトガラを見た時からです。嫌でしたか? あんなに似てて、怖くなりましたか? 土方さん、言ってくれなきゃわからないですよ」
「はな…せ…」
「…え?」
「離せよッ、俺は…、トシゾウじゃぁ、ねぇっ」

 一瞬、斎藤の手から力が抜け掛けた。でも、それは本当に一瞬だけのこと。彼は両腕で土方の体を包み、抱いていた。土方は体を捩じって、肩を斎藤の胸に付ける恰好で抱かれている。その体が、もがく。

「離せ…ッて、言ってんだろうッ」
「嫌です」
「なんでっ? 俺がトシゾウに似てるからか? 生まれ変わりだからかっ」
「…違いますよ」

 違うと、斎藤は言った。暴れていた土方の体の力が、弱くなった。顔を見られないように、彼はそっぽを向いている。見えない顔の代わりに、触れている個所だけで、斎藤は土方の気持ちを知ろうとした。肌の強張り、速い鼓動、浅く乱れた呼吸の音。

「違うって、言ったじゃないですか。夢でトシゾウを見てきたからじゃない。目の前に居るのはあんただから、俺はあんたを見てるんです」
「そん、なの…っ。どうやって信じりゃいい…っ?」
「……」
 
 斎藤は何も言えなかった。ただ、より一層強く土方を抱き締めて、無理にでも胸を重ね、おずおずと彼の背中を撫で、髪を撫でた。やがて、囲炉裏の火にかけられた鍋の上で、木の蓋がカタカタと鳴り始めた。粥が吹きこぼれて、焦げた匂いがしてきて、放って置くわけに行かなくなった。

「粥、駄目にしちまう」
「そうですね」
「手ぇ、離せよ」
「逃げないでくれるんだったら」
「逃げやしねぇ」

 粥は少し焦げたが、大したことは無かった。火を弱めた囲炉裏を間に挟んで、土方と斎藤は粥を啜り、沢庵を齧った。使った器と空になった鍋を、土方がまとめて土間の方へ行こうとする。斎藤はその姿を目で追って、静かな声でこう言った。

「土方さん、お願いですから、俺の見えないところに行かないで下さい」
「……なんで、んなこと言うんだ…?」

 聞き返しながら、土方は土間へと下りていく。狭い家だ、土方の姿は斎藤から見えているのに、それでも彼は立ち上がり、土方の傍へ行こうとした。

「怖いからです」
「何が怖いってんだよ」
「…あんたが…」

 言い掛けて、斎藤は躊躇った。今の土方に、伝えてはいけないのではないかと思ったのだ。躊躇って、躊躇って、でも斎藤は、今言うことを選んだ。

「土方さん、逃げないって、さっき言ってくれましたね」
「……だからなんだ」

 台所で器を水につけてから、土方は斎藤を振り向く。怒ったような、挑むような目をしていたけれど、その目の奥には怯えが宿っていた。斎藤は土間の方へと足を下ろし、その場に腰かける。

「あんたに、夢の話をしたいです」
「今、かよ」
「前に、お互い見た夢の話をしようって言ったのに、あまり話していなかった。えぇ、話したいんです、今。あんたの見た夢の話を、俺も聞きたい」

 斎藤が言い終えると、土方は一度彼に背中を向けた。水につけた茶碗や小皿を洗って伏せ、鍋も綺麗にして小窓の所に吊るす。そのあとやっと、彼は自分の足の怪我を水で漱いだ。血はもう止まっているようだった。

 そのあと漸く、彼は斎藤の方を向く。水場のすぐ横にある大きな漬物樽の上に、土方は腰を下ろした。怪我をした右足は、脱いだ草履の上にのせられていた。

「…お前ぇが話したい夢の話ってのは、土方トシゾウの話ってことだよな。それしかねぇもんな…」
「そうです」

 空に雲が立ち込めてきたのだろうか、ついさっきまでより、家の中が薄暗くなった。土方は目を逸らさずに斎藤を見ていたが。膝の上で緩く握られた彼の手は、微かに震えているのだった。





 
 

 


 心理を書く28話になりました。本当はもっとトシゾウのことを絡めて、と思ったんですけど、サイゾウさんの心の中が複雑すぎて、他のものまで差し込めなかったですよねー。そうしてお話は長くなっていくのでした。あーらーらー。

 ひと君はどんな話をサイゾウさんにするんでしょうか。心の形、想いの形を他者に伝えるのは難しいです。でも、ぼろぼろになっているサイゾウさんを支えられるのはひと君だけです。頑張れぇっっっ。(筆者も頑張れ)





2023.10.15







時差邂逅