二
十
七
斜面の途中、柳の幹の傍に、二人は並んで腰を下ろした。少し風が冷たかったが、まだ火照っている体にはそれが気持ちいい。高い空に居た鳶は、いつの間にか居なくなっていて、代わりに番の鶺鴒が、細かい石の敷き詰められた河原を歩いている。
仲の良い二羽が、追い越したり追い越されたりしているのを眺めながら、斎藤は聞いた。
「それで、土方さんは『その人』と試合ったんですか」
「あぁ。試合った。俺は竹刀を持っていたが、その爺さんは手ぶらでな。そこらへんにたまたまおっこちてた枝を拾って構えるのさ。最初俺は、馬鹿にしてんのかって思ってたんだが、構えた姿勢を見て、なんか、こう、ぞくっとしたんだ。この爺さん、強い、って思ったし、その通りだった」
脚を投げ出すように座っている土方は、腰の後ろに両手をついて、首を逸らして空を見る。柳の枝の向こうの高い空を見ながら、彼はその日のことを、斎藤に教えてくれた。
爺さんの拾った枝は、俺の竹刀よりずっと短くて、しかも曲がってたんだぜ。でも俺は勝てなかった。相手にもなんなかった。一合、二合辛うじて打ち合って、そのたびに押されて俺はどんどん後ろへ下がった。あと一歩下がったらもう川に入っちまうってとこまで追い詰められて、仕方なしに両手を上げて見せたのさ。
それはよ、俺の負けだ降参する。って意味だ。爺さんは得物替わりの枝を下ろして笑ってた。でもそれで話は終わりじゃないんだぜ。握手を求める感じに俺はそいつに手を差し伸べ、その爺さんも同じように俺に手を差し出した。
そんとき、俺はまだ片手に竹刀を握ってた。そんで俺はよ、その爺さんの向う脛を竹刀で思いっきり、よ。負けるのがどうしても嫌だったんだ。
爺さん、さすがに呻いて蹲って、俺は勝ったって思って、でも一瞬後には後悔でいっぱいになっちまった。卑怯な手ぇ使って、勝ったつもりになって、恥ずかしい、みっともなくって愚かだ。こんな俺は、剣術を習う資格なんて、最初からないんだって思った。
でも爺さんは、両手で向う脛を押さえたまんま、顔上げて俺を見て笑ってんだよ。すげぇ嬉しそうな顔で、まだ笑ってんだ。相手にもならねぇガキの様が、心底可笑しかったんだろって俺は思って。さらに居た堪れなくなって、葛籠ん中からひとつかみ、石田散薬の薬包を掴んでその人の前に放り出して、逃げたのさ。
恥ずかしい過去だ。生まれてきて一番情けないってぐらい恥ずかしかった。俺はだから、そのことをすっぱり忘れた。時々思い出すことはあったが、そのたんびにそれをどっかへ放り出して、無かったことにしちまった。無駄に器用なんだかどうだか、そうこうしてるうちに本当に忘れちまってたんだよ。
でも今は、確信してる。あれはお前の師匠だ。絶対そうだ。夢で見た斎藤ハジメが、そのまま老いた顔だったし、お前とも似てる。顔も、構え方も、全部似ていた。お前の師匠で、そんであれは、土方トシゾウの部下の斎藤ハジメだったんだ。
「…びっくりしちまうよな、会ってたんだなぁ」
川の流れる音に紛れそうな、ほんの小さな声で土方はそう言った。そしてまた、斜面にごろりと寝転んで、斎藤の方を見た。
「お前の持ってた石田散薬は多分、そん時のだ。どおりで古いし、どう見ても俺の折り方だった。お前も、俺と師匠が会ってたことを知らなかったんだろう? なんで言わなかったんだろうな。気付かなかったってことなのか、俺がその…トシゾウの…ってさ」
少し興奮しているのか、土方は随分饒舌に喋った。きっと、頭に浮かんでくることを、そのまま全部言っているのだろう。
「おめぇは夢で、俺と同じ顔した土方トシゾウを見てきたって言ってたけど、やっぱそんな似てねぇんじゃないのかな。仮に、ちょっと似てると思って声掛けたとして、全然弱いし、狡い真似するし、がっかりしたんだろうな…。こんなヤツはトシゾウじゃない。赤の他人だ、とかよ。…まぁ、他人なんだけどよ、本当に」
ははは、と力のない笑いが、冷たい風に飛ばされて消える。斎藤は何も言わなかった。黙ったままで、じっと土方の顔を見詰めていた。やがてその眼差しに気付いた土方が、何かを言おうとした時、その言葉を遮ってはっきりと言った。
「誰がなんと言おうと、あんた自身がどう思おうと、あんたはトシゾウの生まれ変わりだ。そして、俺はハジメさんの記憶を継ぐものなんです。だから、分かる。この石田村で、あんたの姿を初めて見た師匠…ハジメさんの気持ちが、分かるんです。…家に戻りませんか、土方さん」
「………」
斎藤は立ち上がり、柳の幹を支えにしながら、土方に手を差し伸べた。土方はその手に手を重ね合わせて、強く握る。
「そうだな、歩けそうなら、もう帰るか。流石に冷えたよな」
二人、並んで家に向かう間、ずっと斎藤は無言だった。土方はひとつふたつ話しかけたが、斎藤は頷く程度で、何も言わない。そして彼は、家に帰り着くなり土方の顔を真っ直ぐに見た。
「土方さん、俺がこの家であんたを待っていた時、懐に入れていたものを、渡して貰えますか」
「あぁ、財布とかかい? そんならそこの棚んとこにある。お前のしてた襟巻の下に」
ちゃんと場所を作って、大切に守るようにして置かれているそれを手に取り、斎藤は土方の真向かいにきちりと正座した。
「大事に扱って下さって、ありがとうございます」
平たい布の袋に入れてきて、その中でさらに油紙に巻いているそれを、斎藤は丁寧な手つきで袋から出し、油紙を解いていく。土方は真っ直ぐ、斎藤の手の中のものを見詰めたまま、無意識に、小さく息を飲んでいた。
「…やっぱ、それ、あれか? おめぇんとこの道場の、神棚にあった」
「そうです」
「わざわざ持ってきたのか」
「えぇ。あんたに見て欲しくて」
今度は土方は、いらない、とは言わなかった。彼は慄くような気持ちでいたが、其処に有るものへの興味が遥かに勝っている。二つ折りにした古びた紙の間に、挟めたままのそれを、斎藤は土方のすぐ目の前の畳の上にそっと置いた。
「…似てないかどうか、あんたがその目で」
意味が分からずにいぶかしんでいたが、土方は手を伸ばし、触れた。途端に指先が少し痺れた気がして、その感覚に覚えがあると思ったのだ。初めて斎藤に会った日、名を名乗ろうとした時も、床に指で、名前の文字を書こうとした時も、こんなふうに、喉の奥が、指が、痺れたのではなかったか。
そのあと斎藤に腕を掴まれて、また感じた。気のせいとは思えない、けれども理由の分からない、あの痺れ。あの時、きっと、生まれた瞬間に定められていた何かに、自分は捕まったのだと、今なら分かる。
紙を開いて、土方はそれを見た。目にした途端、反射的に目を逸らして、でももうその一瞬で脳裏に焼き付いた。
ただの薬屋でありながら、土方は洒落ものだ。髪でも顔でも襟元でも、みっともない恰好をしているのは嫌いだから、おんなの使う手鏡もこっそり持っていて、それへ自分の姿を映すことはある。揺れる水鏡に映ったのを見るだけではないから、彼にははっきり、分かったのだ。
そこにあったのは、
自分と同じ顔。
自分だとしか思えない姿。
彼が着たことのない異国の服を着て、何十年も前のものだと分かる、色の褪せた紙の上に写し取られた、その。
「土方さん…」
あんまりずっと黙ったままでいる土方に、とうとう斎藤が声をかけた。両手でそれを持ったまま、ずっと見入っていた彼は、ふ、と顔を上げて斎藤を見て、顔を歪めるように、笑った。
「…ホトガラ、ってやつかい、これ。土方トシゾウ、か…?」
「そうです。年号も、裏にうっすら書いてあります」
ちらと裏を見てまた表へ返し、まじまじと、彼はまだ、見ていた。
「斎藤ハジメが持ってたのか」
「えぇ、師匠の宝物でしたよ。同じく隊士で、箱館まで行った島田魁という人が、ある時渡しに来たんです。ハジメさんが持っているのが一番いいんだって、確か、そう言っていました」
土方はトシゾウのホトガラを、今一度じっと見て、ようやっと畳の上に置き、斎藤の方へと押しやる。
「今は、おめぇの宝物なんだろ」
「はい」
「じゃあしまっとけ、大事にな」
土方は斎藤に背中を向けて、囲炉裏に残っていた火を熾して強くする。炎の上に鍋を掛け、出掛ける前に作っていた粥を温め始めた。
「正直、びっくりした。俺かと思った。爺さんに、似てる似てるって散々言われて、ずうっと信じてなかったのによ。そりゃ、言われるよな。こんな、そのままだったらよ」
「あ、あの、土方さん」
「んん?」
匙で粥をかき混ぜている土方の腕に、斎藤はそっと触れ、恐る恐る聞いたのだ。
「…嫌でしたか…?」
「なんで?」
「だって、なんだか、おかしいから」
土方は、一番先に温まった鍋の底の方から粥を掬い、器にたっぷり盛って斎藤に差し出した。干し肉を沢山入れたから量が随分増えていて、土方が一緒に食べても余りそうだ。
「おかしいかい? どこが? どんなふうに?」
「どこ。…分かりません、でも…」
「別に俺はどこもおかしかねぇ。大事なもんを見せてくれてありがとうな。ほら、喰えよ。早く食って早く元気になって、なるべく早くお前んとこへ戻ろうぜ。俺はおめぇと稽古がしてぇんだよ」
「俺もです」
嬉しくて、気になっていたことはどこかに消し飛んでしまった。でも本当は、その気持ちは胸の何処かに引っかかって、変わらずに気になったまま。ただ斎藤は、今は嬉しい事だけ考えたくて、自分でも忘れたつもりになった。
「いつ、帰りますか? 明日ですか?」
「あのなぁ、明日は駄目だって、さっきも言ったろうが。おめぇ、まだふらふらしてんじゃねえか。早くても年が明けてからだろ。暮れやら正月にばたばたするもんじゃぁねぇんだよ」
土方は子供にそうするように、斎藤の頭を雑に掻き混ぜた。多いというのに山ほどおかわりを盛られ、大丈夫だというのに、薬をいろいろ飲まされて、夕ぐらいになると、囲炉裏に一番近い場所で、斎藤は寝させられた。夜に敷かれた土方の布団はそのすぐ隣。でも、一緒の布団で肌を重ねたことを思い出し、斎藤は中々寝れないのだ。
「土方さん」
「どうした? 寝れないか?」
「だって、夕方からうとうとしてましたし」
「まぁ、そうかもな」
むこうを向いていた土方は、寝返り打って天井を見上げ、この石田村で生きてきた自分のことを、いろいろ話してくれた。
石田散薬の材料の、牛額草を刈り取る時の話。その草が、どんな花を咲かせるのかということ。刈って集めて、干して、薬研でひたすら細かくして、同量ずつ薬包紙に包んで。得意先は石田村だけじゃなく、近隣の里にも、斎藤の住む街にだって居て、春夏秋冬、常にぐるぐる売り歩く。
一種の薬だけじゃ食っていけやしないから、祖父や父と一緒にいろいろ勉強して扱い薬を増やし、行商するのも工夫を凝らした。面倒くさくなることもあるけれど、それでも案外やりがいがある、楽しいもんだと、土方は目を輝かせる。
「なのに」
土方は急に声を沈ませた。
「…なのになんで俺は、剣術やりてぇって、ずっと思ってきたんだろうな」
土方の浮かべた疑問が、斎藤には分からなかった。
「それは、だから。あんたが、土方トシゾウの」
「もう寝ようぜ、斎藤」
「え?」
「目ぇつぶってりゃ寝られるさ」
話をいきなり遮って、土方はまた、斎藤に背を向けるように寝返りを打つ。そうして顔の半分までを隠すように、布団を引き上げた。
「寒かったら言えよ。もう一枚ぐらい着物かなんか上にかけてやっからな」
「…大丈夫ですよ」
「そうかい?」
「大丈夫です、おやすみなさい」
その後、先に寝入ったのは斎藤だった。小さく灯ったままの囲炉裏の火の色が、壁や天井を橙色に染めているのを、土方はその後も、眠れずに暫く見ているのだった。
続
ぐっと二人の仲が進展! したのは確かだった26話なのに、そのままの勢いで恋仲になったりしないんだなー。若いんだから、もうちょっとさー。とか思いつつ、ただの恋愛ものじゃないので、仕方ないのであります。すまん。
サイゾウさんは、ただでもトシゾウにコンプレックスあるから、いろいろと考えてしまいますよ。あれ? やっぱりわりとただの恋愛ものかなっ? むむむ。
2023.09.03

