二
十
六
「急がなくていい、ゆっくり歩け」
季節にしては、暖かい日だった。風は殆どなくて、薄の穂も微かに揺れているだけだ。土方の家は浅川沿いで、外へ出るとすぐに川の音が聞こえてくる。道にはごろごろと小石が転がっていて、綿入れを着せられた斎藤はそれをよく見ながら、本当にゆっくり歩いた。
せっかく、
一緒に歩きたいと言ってくれたんだ。
だから少しぐらい脚が萎えてても、
絶対に転んだりしない。
知らず知らずに怖い顔をしていたのだろう。ほんの少しだけ前を歩いていた土方が、彼の表情に気付いて笑う。
「そんな顔してんなよなあ。転んだら俺が起こしてやるって」
今にも躓きそうな連れを案じて、土方は彼の方を向いたまま、後ろ向きに歩き出す。ゆっくり、ゆっくり、斎藤に合わせて。速くもなく、遅くもなく。そうしながら彼は、酷く穏やかな声でぽつぽつと話した。
「よく、俺ぁの家の場所が分かったな。誰も教えてくんなかっただろうによ。どんな家かとか、話したことなかったよなぁ?」
「此処に来る途中、あの人に会ったんです。速飛脚の。その時、吹雪いて居たんですけど、自分の笠を貸してくれて、あんたの家の場所とか、目印とかを教えてくれたんです。運が良かった」
村に着く前も、ひとりでそんな吹雪の中を歩いていたのかと、ちらり、土方は顔を顰めた。
「へぇ、亀太郎がなあ。そっか、あの笠、あいつのだったのか」
土方が口にした名前が、あまりに似つかわしくなくて、斎藤は笑ってしまう。随分足の速い亀も居たものだと。
「なぁ? みんな元気にしてるか?」
「してますよ。土方さんが居ないこと、早く戻ってくりゃいいのにって、みんな言ってます」
はは、と土方は零すように短く笑う。それから少しの間、二人は無言で歩いていく。川の流れに沿うようにしながら、草の揺れるのを眺めて、少しだけ暖かい日差しを浴びて。淡い光に照らされた土方の顔が、とても綺麗で、斎藤は見惚れてしまうのだ。
「戻るさ。薬も多めに作ったし、馴染客んとこは全部回ったんだ。ちょっと間遠くなってもいいように話もつけた。あぁ、早くみんなと稽古がしてぇなぁ。もう明日の朝、お前ぇんとこへ向けて発つ気だったんだぜ?」
「ほんとうにっ? じゃあ明日一緒に、っ、わ…」
焦ってそう言った途端に、斎藤は足先を根っこか何かひっかけて転びそうになった。
「あぶねぇ…っ」
土方は一歩半ほど急いで近付いて、その両腕で包むように斎藤を庇う。
「まだ行かねえよ。俺は良くてもお前ぇの体がちゃんと治ってからだっ」
そうやって、二人足を止めた其処が、土方が今来たかった場所だった。川岸へと向かう草の斜面に、柳の古木が立っていて、葉を落とした長い枝が、緩い風にもゆらりゆらりと揺れている。
「……なぁ、斎藤。見覚え、ねぇか?」
「え? いえ…」
知らないと思ってそう言ったのに、言った途端に見えている風景の全部が、斎藤の中に飛び込んできた気がした。彼の脳裏で季節が変わる。
柳の枝は豊かに葉をつけ、そうして風を浴び、斎藤の視野で美しい色に揺れていた。ちらちらと細かく風に震える葉の表の緑と裏の白。その移り変わりが、眩しいぐらいあざやかだった。
「…来たことは、ないです。でも」
知っている。確かに記憶がある。夢で見たのだ。そんなふうに言葉で言わなくとも、土方には通じたのだろう。彼は柳と同じ風に、目を細めていた。
「ちょっと昔の話をする。どんぐらい前だったか、ここんところの斜面でな、俺は剣術を怠けて寝転んでた。薬売りの仕事ものり気がしなくてよ。竹刀を放り出して、ただ、寝転んでたのさ。そうしたら…」
一度言葉を切って、土方は斎藤の体から手をそうっと離す。支えなくとも転ばないのを確かめて、またぽつぽつと彼は語った。
「爺さんが、話しかけてきたんだよ。すらっと背の高い爺さんでな、こう言うんだ。『相手が欲しいんだろう』って。『お前さんの相手は此処にいる』ってな。なぁ…? 誰の話をしてるのか、お前ぇには多分、わかるだろ?」
「…だ、だれ…」
それ以上は言えなくて、でも、斎藤の心臓は痛いほど鳴っている。まるで、自分が言われたように、その声が耳に聞こえてくる。よく知った声だった。ずっと何年も、自分に剣術を教えてくれた人。
会っていたんだ。
そう思った。
ハジメは彼に、その話をしなかった。言ったのは一度だけ、病に侵された彼が、ものを言うのも苦しそうにたった一度。
…会えるぞ、ひと。
お前はきっと、あの人に会う。
会えばすべてが、分かるだろう。
誰のことを言っているのか分かるように思って、でもその時、口をきくのも辛そうだった師匠に、もっと話してくれと言えなくて、医者を呼びに走った彼だった。それきり、斎藤はもうハジメに会えなかった。会ったのは、あの大きな体がやっと収まる箱に寝かされて、二度と目を開けない姿だった。
「斎藤、こっち来れるか?」
暫し呆然としていた彼を、土方が呼んでいる。川辺へと下りる斜面の途中、柳の枝の下に土方は居て、斎藤の方へと手を差し伸べていた。
「えぇ」
脚がまだ萎えているのを忘れて、普通に進もうとしてよろけて、今度は慎重に一歩ずつ、斎藤は草の斜面へ足を踏み入れる。差し伸べられた手に手を重ねると、土方は少し強引に彼を引っ張った。あ、あぶない、と思いながら、葉の無い柳の枝が、肩に、頬にと触れて来て、また胸が鳴っていた。
「ひ、ひじか…」
「うん」
「…土方さん」
転ばないように、土方が斎藤の体をしっかりと支え、着ているもの越しに重ねった体の、その体温を感じ。
二人の、目の奥に過る、
遠い遠い記憶。
自分のものではない記憶。
夢で、見た。
「すげぇ…なぁ」
土方が言うのが、間近で聞こえて、その時、ずるりと斎藤の足が滑った。斎藤を支えていた土方も、巻き込まれるように転んで、そのままごろごろと、河原まで転がっていってしまう。声も無かった。脳裏に映るものを見るので精いっぱいで、小石ばかりのところまでいって、ようやく二人の体は、もつれ合ったまま止まったのだ。
短く、浅い息を斎藤はついている。土方を巻き込んでしまったことに遅れて気付いて、自分の下に居る土方を案じ、謝ろうとし、地面に手を突っ張った。そうしたら、土方が、酷く静かな顔をして、じっと斎藤のことを見ていた。
「す、すみま…っ」
「……斎藤…」
「え…」
深い声。囁くに似た声。どこか甘い、その声が、斎藤の名を呼ぶ。土方は体の何処も動かさず、斎藤の体の下になったままでいた。彼の両手は河原の丸い石にそれぞれ触れている。その耳には川の流れの音が響いている。遠い昔から、変わらない音。
「今、おめぇのしてぇことはなんだ…?」
そんなにも唐突な問いだったのに、それを聞いた途端、斎藤の中に湧き上がる、どうしようもない想い。
あぁ、だめだ。
そう思うのに、どうしても消せない。
言おう言おうと思っても、怖くて言えなくて。言ったらどうなるのか、それをぶつけたら終わるのではないかと怯えて。でも、ずっと消せないと分かっている欲。
「…土方さん…」
「うん。言ってみな…?」
「あんたの」
ごく、と斎藤は唾を飲んだ。風の音、川の音を制するほど大きく聞こえたそれに、土方は笑うのだ。目元で、そしてうっすらと開いた唇で、無言で笑っている。からからに乾いた口で、斎藤が言った。
「…あんたの、口を、吸いたいです」
笑って、薄く開いている土方の唇の奥に、舌の先がちらりと見えた。まるで、見せつけるような動きだと思って、そのあとは、もう。
「ん…っ」
喉奥で喘いだのは土方だった。口を塞がれ、唇と唇の隙間に、斎藤の舌が滑り込む。応じず、ただ、口内に斎藤の舌を感じ、指に触れている河原の石の上に、彼は微かに爪を立てていた。長い口吸いだった。斎藤は土方の項を、頭を掻き抱き、彼を貪る。
ずっとずっと前に、土方トシゾウが此処で斎藤ハジメに言った、好きにしろ、という言葉が、やっとそのままの意味で、此処で現実になっていた。
「なんで」
「…ん…?」
息があんまり苦しくなって、やっと口吸いを止めた斎藤が、怯えた目をしてそう聞いた。土方があんまり静かな眼差しをしていて、そのそぐわなさに、なお怖くなる。
「なんで、嫌がらないんですか…? こんな…」
「そりゃ、おめぇ。嫌じゃねぇからだよ」
「そ、そんなこと言われたら、お、俺」
斎藤があんまり苦しげな顔をするから、今度は土方が、彼の頭や項に腕を回して、己の胸で彼を抱いた。
「鼓動がすげぇよ、おめぇ。息もそんな浅くって。ちょっと落ち着け、な?」
「む、無理」
「まぁ、聞きな。試したって言ったろ、この間」
頭を抱かれたまま、斎藤が小さく頷いた。土方の体に斎藤の胸の音が響いている。滅茶苦茶に乱れて、可哀想で、可愛いと、土方は思った。
「あれはさ、俺ぁが、俺ぁの気持ちを試したんだ。薬を飲ませる為もそりゃあったけどな。前に俺が夢で魘された時、おめぇも俺にしたろ? あんとき、全然嫌じゃなかったから、嫌ってより寧ろ、よ。…だから、もういっぺん、今度は自分からして、どうなのかって。そんで」
土方の話している言葉が急に止まった。そして彼は、自分の上に居る斎藤の体に手をかけて、ゆさゆさと揺らす。斎藤の体がぐったりと弛緩して、ぴくりともしないので心配になったのだ。
「斎藤っ、おいッ、大丈夫かっ? 意識あるか?」
呼び掛けると、蚊の鳴くような声がした。起き上がろうと、僅かにもがいてもいた。
「い、生きてます」
「そりゃ当たり前だ。こんなんで死なれちゃ、この先どうするって話だ」
「さ、先…」
一度力の籠った斎藤の体が、またぐったりする。
「ちょ…。こら、おいって」
だから土方は、精一杯気遣いながら、自分の体の上から横へと、斎藤の体を転がして仰向けに寝かせ直す。斎藤は長湯でもしたように顔中真っ赤になっていた。
「あー、こりゃぁ。しょうがねぇな、負ぶって連れ帰ってやらぁ」
「…待って。待ってください。もう少し、此処に居たい」
「んな、我がまま」
「我がままかもしれないけど…っ。教えて、欲しいんです」
苦笑いしながらも、土方は斎藤が仰向けになったすぐ横に、足を投げ出すように座ってくれた。川の方を向いて、視野の端に柳の枝を見て、遠くを飛んでいく鳶か何かの影を見上げ。
「何が知りたい?」
「…俺が、こ、子供だから、お願い聞いてやろうとかじゃ、ないですよね?」
「馬鹿、違う」
「俺が可哀想だからかとか、自分が俺の家で厄介になってるとか、剣術習ってるからとかじゃ」
「わけのわかんねぇことを」
土方はからかうように、斎藤の足を自分の足でつついた。
「じゃあ…その」
「まだあんのか?」
「ゆ、夢で見たから、とかじゃぁ…」
それを聞いた土方は、唐突に斎藤の手を取った。指を互い違いに組むようにしっかりと握って、ぎゅっと力を込める。
「そういう夢は、俺は、見てねぇがな」
遠い時間の中のトシゾウとハジメを、夢で見る。土方も斎藤も、それは同じだ。でも二人の見ている夢は同じじゃない。土方が見た夢の中の彼らは、試衛館で剣を学んだ仲間で、京では上司と部下で、斎藤は土方の信頼する優れた剣士で。
でも、白い紙に、じんわり色の滲むように、夢で見ても居ない彼らの間にある想いを、土方もうっすら、知りつつあった。
[…夢で見たから、おめぇは俺に、ああいうことをすんのかい?」
「ちがっ、違いますッ」
飛び上がる様にして、身を起こしかけた斎藤の手を、今一度強く握って、横なったままで居させてから、土方は彼をではなく、浅い色の空を見る。すぐ傍に身を伸べ、溜息を付くようにして、呟いた。
「あぁ…。だと、いいなぁ…」
斎藤が何かを言う前に、高い空で途切れ途切れに、鳶が鳴いた。
続
どう? よ? 思ったより、こうなるのが早かった? ね? まだあれもこれも書いてない、そんな重要でもないけど書いた方がいいだろう、ことがっ、いろいろっ、あるのにーーーー。
頑張れ私っ。でも26話、書けたのでほんとよかった。更新久々っ。(連休なのに書けな過ぎっ) はーい、載せますねーっ。
2023.08.15

