二
十
五
薬を用意してくる。そう言って土方は出て行ってしまった。遠ざかる音が聞こえなくなってから、斎藤は横になったままであたりを見回す。全身怠くて体の何処にも力が入らず、起き上がろうにも出来ないのだ。
辛うじて首だけ動かして眺めた室内には、囲炉裏は勿論、抽斗箪笥に文机、ふたつ重ねられた郡などがあった。机の上には文箱なども置かれている。狭い土間には台所も。
何処だろう、ここは。
気になって、なんとか起き上がれないかともがいているうち、土方が戻ってきて、また彼を叱り飛ばす。
「何起きようとしてんだよ、大人しく寝てやがれっ!」
飛んできた声に首をすくめ、それでもおずおずと問いかけた。
「…あ、あの、此処はどこなんですか?」
「どこって、俺ぁの家に決まってんだろ」
「でも…。俺が待っていたのがあんたの家なんじゃ…?」
土方は斎藤のすぐそばまできて腰を下ろし、携えてきた湯のみの中に、粉薬を注いでいる。匙でよくよく掻き回しながら、問われたことに答えてくれた。
「おめぇがぶっ倒れてたのは、ここと同じ建物の向こう半分で、作業部屋だよ。摘んできた薬草を広げて陰干ししたりな。あと、床下に作り置きの薬をしまってある。俺が居ない間に要ることがあったら、勝手に使っていいって里の皆には言ってあってな」
そうだったのか、と斎藤にも納得がいった。あまりにも何もなくて、それをおかしいと思わなかった自分の必死さが、今更のように恥ずかしい。
「…悪かったな」
不意に土方が言った。
「こっちの部屋の存在に気付いてたら、あんな寒いとこで待つ必要も無かったんだ。里人が自由に入れるように錠をかけてねぇから、外から来たよくねえ輩に荒らされねぇよう、見えるとこにゃわざと何も置いてねぇんだ。それに、里のみんなはおめぇに冷たかったろ…」
「い、いえ、俺が待てなくて来たのが悪いので」
「まぁ、それはそうだ」
あっさりそう言って、土方は斎藤の方へと湯飲みを突き出す。受け取ろうとして差し出された斎藤の手は、けれどもガクガクと震えていた。少し前まで高熱があったせいだ。起き上がれないほど体が萎えていて、手に取れたとしても零さず飲めるかどうか。
「飲めねぇか」
「す…すみません、多分もう少し休めば…」
「…世話が焼ける」
詫びを言いつつ手を引っ込める斎藤の目の前で、土方が湯飲みを自分の口に傾けていた。ついさっき、触れるほど間近で見た、彼の伏し目がちの瞼がやっぱりきれいだ、などと、斎藤はぼんやり思っている。熱はほとんど下がっていても、まだくらくらして、思考がまとまらない。
そんな斎藤をちらと見たあと、土方は畳の上に、中身の半分減った湯飲みを、とん、と置いた。そして彼は、斎藤の両肩に手を掛けたのだ。
「ひ…じ…?」
ぐっと顔を寄せてくる土方の目元は、ほんの微か笑っていた。あまりにも躊躇なく、覆いかぶさってくる土方の体。唇が、無造作に重ねられた。
「…ッ」
ごくん…っ。
注ぎ込まれた薬を飲み下し、塞がれた唇が自由になった後、斎藤は派手に咳き込んだ。
「…ぅ…。げほっ、ごほっ…ごほ…ッ!」
「咽るほど苦いかよ。まだ残り半分あるぜ?」
「ひ、ひじっ…ひじか…ッ。な…っ、な…」
これ以上は無いくらい狼狽えている斎藤の姿が、初めて一緒の部屋で寝ることにした日のそれと被る。土方からしたら面白くて仕方がなかった。
「そんなびっくりすんなよ。おめぇだって俺にしたじゃねぇか」
夢を見て魘された夜のことも、つい昨日のことのように思い出す。
「お、俺はこんなこと、し、してな…っ」
「しただろ?」
もう一度湯飲みを手にして、匙でかちゃかちゃと掻き回し、底に沈んだ粉をよくよく溶かすと、土方は再び己の口にその水薬を含むのだ。
「や、やめてくださ…っ、ひじか…ッ。ん、ん…っ」
起き上がれないぐらい、斎藤は全身が萎えているのだ。逃げることも抗うことも出来ない。一度目よりも深く唇を重ねられ、顎にかかった土方の手で、無理に口を開かされた。いくら間近くても、斎藤には土方の顔を見る余裕などない。一度目と違って、彼の目が笑っていないことも、気付く筈がなかった。
「…ちゃんと飲んだか? 口の中が苦いだろう。白湯も飲ませてやろうか? んん?」
「いっ、いらないですっ、大丈夫ですから…ッ」
辛うじて布団を被って顔を隠し、斎藤は三度目の口移しから逃げた。土方のついた溜息が聞こえてきて、面倒をかけて申し訳なく思うけれど、それでも今、とても顔が見せられない。布団越しに肩のあたりを、ぽん、と軽く叩かれたが、それだけのことにも震えてしまう。
「そんなびくびくしなくていいだろ。ちょっとばかし…試しただけなのによ」
「…た、試す、って…?」
斎藤は酷く動揺していたが、その言葉を聞き逃すことは出来なかった。
「お、俺の…何を?」
おずおずと顔を出そうとしたら、上から布団を軽く押さえられて、斎藤は動けなくなった。
「おめぇはとにかく、少し眠れ。近所んちに頼んで、粥かなんか作って貰っとく。そんで目ぇ覚めたら、夜中でもいいから声をかけろよ。粥が喰えたら、またさっきの薬を飲んで貰うからな」
土方が部屋から居なくなった後、斎藤は布団の中で考え込んでしまっていた。深く重ねられた唇のことを思うと、下がった筈の熱がまた跳ね上がりそうだった。けれど、そのことと同じぐらい、さっきの土方の言葉が胸を騒がせる。
試す…?
今あの人に、
試されたのか、俺は。
でもいったい何を?
知りたくて、でもどういう意味の言葉だったのか、問い返すなど出来そうになくて、斎藤はただ、分からないことをぐるぐると考える。こんなことではとても眠れないと思ったが、ほんの少し後には、睡魔が彼を飲んでいく。高い熱の下がったばかりの疲れた体には、まだ休息が必要なのだ。
日が落ちて暫し、濃い闇が石田村を包む少し前、土方は作って貰った粥を持って、斎藤の傍に戻ってきた。なるべく音を立てないよう、囲炉裏の縁に鍋を置き、火を移した行燈を枕元へと運んでいく。
「…ふぅ…」
溜息を1つ、土方は零した。きゅ、とその唇を引き結び、斎藤の寝ている布団の傍に胡坐をかいて座る。手を伸べてそろりと、土方は掛け布団をめくった。すぐに見えた顔はまだ青ざめていて、具合が悪そうに見える。
「…ほんとにおめぇは…。心配かけんじゃねぇよ…。こっちの心臓が止まっちまうだろ」
短い髪をかすめるように指先で触れて、それから耳たぶと、顎と、そして、唇にまで、土方は順に触れるのだ。
「早く元気になれ」
ふ、と薄く笑って、言う。
「元気になったら、いろいろ話してぇことがあんだよ。せっかく、此処におめぇがいるんだもんな」
賑わしいぐらいに囀る雀の声を聞いて、斎藤は目を覚ました。閉じていた瞼を開いたら、自分を真っ直ぐ見ている土方の顔があり、彼は横になったまま真後ろへと大きく下がる。布団からも殆どはみ出てしまって、それを見た土方に笑われた。
「はは、器用なヤツだなぁ、おめぇは。結構元気じゃねえか。粥食え、粥」
自分も畳の上に横になり、斎藤の寝顔を見ていた土方は、何故だか随分楽しそうに、粥の器を持ってくる。ほわほわと湯気を上げる器を目の前に置かれ、斎藤の腹が、遠慮したように小さく鳴った。
「腹が減るのは元気な証拠、ってな。なんとか体起こせるか? 手ぇ貸すか?」
「だ、大丈夫、大丈夫ですっ」
無理やりにでも急いで起き上がり、両手を振って遠慮する姿に、土方は唇を尖らせる。
「なんだ、自分で食えそうじゃねぇか、俺ぁが食わしてやるつもりだったのによ」
小鉢に入れた粥を、優しい手付きで土方は渡してくれた。熱くないように器を小布にくるんであって、匙が添えられた粥を、斎藤は恐る恐る受け取った。本当はまだ、腕にちゃんと力が入らない。でもそのことに気付かれるわけに行かないと思っている。
「ほんとに大丈夫そうだなぁ。まぁいい、食べた後は体拭いてやっからよ」
「……っ…じっ、自分で出来ますから…!」
危うく器を落としそうになる斎藤を、土方の笑った目が見ているのだ。斎藤だって、そんな土方の姿も表情も全部、本当はもっとよく見たい。でも直視すると動揺してしまいそうで、目を逸らしているしかない彼であった。
それから丸二日、斎藤は土方の家で療養していた。差し入れにくる里人はみんな、勘違いして冷たく当たったことを彼に詫びてくる。特に土方の行商仲間のタケは、畳に額を擦りつけるようにして謝った。
「悪かったっ。俺がみんなに余計なことを言い触らしたせいなんだっ。この通りだ、勘弁してくれっ。どうしたら許してくれるっ?」
「もう気にしないで下さい。土方さんの為なんだってすぐわかりましたから」
「じゃっ、じゃあ、これ食ってくれ! 鹿肉だ。干したやつだが、精がつくと思って持ってきた。取って置きだからよぉ」
紙に包んだのをタケが差し出せば、まるで当然のように土方がそれを受け取った。さっそく小刀で削いで、たった今煮ている粥に落とし込んでいる。
「斎藤もこう言ってるし、こいつの顔覚えて次ん時は歓迎してやってくれよ、俺の剣術の師匠だからよ」
「へぇ、随分若ぇ師匠じゃねぇか、おめぇが年下に習うなんてなぁ、天気が荒れねぇといいが」
「うるっせぇな、用が済んだんならもう帰っていいんだぜ?」
そんな調子で、土方は誰が来てもすぐに帰してしまう。必然的に二人でいる時間が長くて、嬉しいと同時に、斎藤は心が騒いで落ち着かない。
「あの、土方さん、この間…」
試した、と言っていたこと。その意味が知りたくて、とうとう斎藤はそれを聞きかけた。すると土方は、囲炉裏の火をいったん消してこう言ったのだ。
「干肉が柔らかくなる間、ちょっとそこらを散歩しねぇか? 浅川沿いを二人でよ。今日はいい天気だし、風もちょっとしか吹いてねぇ。体を慣らすのにもいいんじゃねぇかな」
言いながら立ち上がり、彼は大きく戸を開く。
「それとも、まだしんどいか?」
「いえ、もうちゃんと歩けます、俺」
「…俺ぁはさ、おめぇと多摩郡を歩きたかったんだ、こっちへ来てからずっとそう思ってたんだよ。行こう、斎藤」
外から差し込む光が眩しかったからだろうか。髪を高く結った誰かの後ろ姿が、その一瞬、見えた気がした。
続
多摩郡ってのは、かつての彼らの出会いの地でもあります。だからきっと土方さんは。なーーんて言いながら、この続きはあんまり考えてませんで、どうなるのかしらね。ゆっくり色んな事を、語らわせたいな、なんて思っています。
それではまた次回に。
2023.07.09

