二
十
四
一日半をかけて、土方は石田村に戻るところだった。携えていった薬は随分売れ、殆ど売り切ったも同然である。
いい仕事が出来た。そんな満足感もあってか、いつもよりもさらに足取りが速い。易くはない山道を駆けるように抜け、痩せた薄の穂を掻き分けながら、とうとう浅川沿いの道に突き当たる。空には薄く夕の色が差していて、歩き通しで火照った体にも、風は冷たかった。
川の表に揺れる淡い光を目に映しながら、彼はいつもの場所で足を止め柳の幹に手を添えながら土手を下りる。下りながら葛籠を下ろし、腰に差していた木刀を引き抜くと、きちんと構える間もなく素振りを始めた。
しなきゃなんねえ、と決めていた商いごとは全部済ませた。長く留守にしていて滞っていた薬作り。それから、馴染の道場や得意先を全部回って、今までより少し多めに薬を置いて貰う話もつけた。
これからは、月に一回程度寄らせて貰う。今までより間が空くが、ふみをくれりゃあ急ぎにも応じるし、多く置かせて貰う分は、少し値引くから今後もよろしく頼む。土方は一軒一軒、丁寧にそう言って歩いたのだ。これまでのきちりとした仕事を買われて、どの得意先も二つ返事で応じてくれ、ほっとしている。でもその分、時間がかかった。
こんな間が空いちまって、
きっとしょげ返ってんだろうが、
やっと、あいつんとこへ戻れる。
…って。
俺ぁはどうも、あいつに甘ぇなぁ。
素振りする手が一瞬緩んで、うっかり木刀を飛ばしそうになってしまった。川へ落ちたらことだと、土方は気持ちを引き締める。合間合間に素振りはしていたが、かなり鈍っている自覚があった。
斎藤んとこへ向かうのは、
明日の朝一番にする。
だから今日は、
素振りをきっちり、五百回。
暮れていく空の下、彼が鍛錬を始めて暫しのち。野良仕事帰りの里人が、川の向こう側を通ったのだ。頬っかむりを外しながら、その百姓は土方に向けて声を張り上げた。
「おぅっ、戻ったんかい薬屋ぁ。タケのやつには会ったかいっ?」
「たった今戻ったとこさ。タケさんがどうしたって?」
木刀を下ろして土方はそう返した。張りのある彼の声は、川のせせらぎの上を、すうっと通って、顔見知りの里人へと届く。
「俺は見てねぇんだけど、おめぇを訪ねてきた怪しいヤツがいたってよ。こう背が高ぇ若い男で、腰にゃ木刀なんか差してたんだと。どうも因縁でもありそうだってタケが言うんで、みんなして口裏合わして、そんなヤツここらにゃいねぇ、余所を探せって突っぱねたんだ」
「……それ、いつの話だ?」
其処が河原であることを失念して、土方は男の居る対岸へ近付こうとした。草履の足で流れに踏み込み、その冷たさにはっとする。
「教えてくれ、どんな奴だった?」
「昨日の朝だよ。どんな、っつっても、俺は見てねぇから。でもみんなして追っ払ったんだし、夜にゃ姿が見えなくなったみてぇだし、そいつもう諦めて帰…っ。おいっ、薬屋ッ」
土方は木刀をその場に投げ出した。商売道具の葛籠を背負うのも忘れて、そのまま土手を駆け登り、枯れた柳の枝に髪を引っ掻けながら走っていく。いつもなら心強いこの村の結束が、今は良くないことにしか思えなかった。嫌な予感がしていた。
背が高くて、木刀を腰に差した若い男。それは十中十まで斎藤のことだ。追い払うために投げつけられた言葉は、素気無く冷たいものばかりだったろう。だけれど。そんなやつ居ねぇ。他所へ行け。とっとと帰れ。などと、容赦なく言い放たれたあいつは、それであっさり諦めて帰るだろうか。
置いて出てきた時、何度も自分を引き留めた斎藤の顔が思い浮かぶ。どうしても会いたくて、そういう気持ちが抑えられなくなって、とうとう此処まで来てしまったのだとしたら、あいつは、きっと。
走って、走って、土方はタケの家に行こうとしていたのだ。でもその途中、自分の家の前を通る。
何故だか足が止まって、通りに面した作業部屋の戸を、彼は開いた。壊れんばかりの勢いで、力任せに開いたのだ。ばんっ、と大きな音が鳴って、四角く開いた戸口の形に、夕の光が中へと差し込んだ。その赤に近い夕色が、其処に横たわり蹲っている誰かの体を照らした。
「さ…い…」
喉に、声が閊える。上手く出せない声よりも先に、駆け寄って膝を付いて、必死に伸べた片手が届く。痛いほど冷えた床と同じほど、その体は冷たかったのである。
「…斎藤…ッ!」
馬鹿なことをしただろうか。
斎藤は何度も、そんなふうに思った。此処が土方の家なのだと確信していて、だからこうして待っているのだけれど、里人たちの目はどれも、彼を歓迎してなどいなかった。土方の名を貰った彼の家族や彼が、どれだけ注意深く生きてきたのか、全然わかって居なかったのかもしれない。
会いたい、というだけで此処まで来て、待っていていいかどうかも分からずただ待って。この衝動を理解してもらえるなどと、彼は思えないのだ。がらんとしたこの部屋の空虚さも、氷のように冷たい床も、この石田村の寒さも、全部が「拒絶」として彼に迫ってくる。
今までも時々思っていた。
何なのだろう。
この狂ったような衝動は。
傍に居さえすれば、心が満ちて幸せで居られるかと言えば、けしてそうではない。目の前に居るのに、小さなことにも気持ちが揺れて乱れてしまう。そして離れれば怖ろしくなるのだ。二度と会えなる一瞬が、もし万が一あの時だったら? また、取り返しのつかないことを、してしまっているのでは、と。
自分の動悸すら聞こえるほど、此処は静かなのに、銃声がどこか遠いところで鳴ったのを聞いた気がした。話にだけ聞いたことの筈なのに、自分の体の何処かが打ち抜かれたような痛みを、心に感じる。銃弾によって足を負傷した土方トシゾウ。馬上で狙撃され、そのまま還らなかったという彼。
離れ離れでいる時、胸に刺さる苦しみは、恐らくそれゆえなのだろう。自分の中に斎藤ハジメが居るから。遠い昔の斎藤の心が、確かに重なっていると意識する。今も、これからも変わらない。その呪縛を解いてくれるのは、きっと土方なのだ。
「土方さん…。言って、欲しいんです…」
俺はトシゾウじゃない、って、
言って下さい、もう一度。
いいえ、俺が望むたび、
何度でも、言って、欲しい。
「怖いんです。あんたを、失いそうで」
眠るつもりも無く、斎藤はいつしか、体を丸めて横たわっていた。何も食べていず、眠らずに慣れない山の道を何時間も歩いて、吹き付ける雪や風になぶられて。たった今、高い熱があるのに、そのことにすら、自身では少しも気付いていないのだ。
知らずに眠ってしまったことに、はっとし、起き上がろうとしたけれど、その時にはもう、満足に体が動かせなかった。体は隅々まで冷たくて、芯から震えがくるほどで、額だけが燃えるように熱い。朝なのか昼なのか。それも分からない。少なくとも夜は一度越えた筈なのに、うっすら開けた視野は随分と暗かった。
浅くしかつけない呼吸で、土方がいつも纏う薬の匂いを感じて、それだけが嬉しくて。そんな彼の体に、誰かが触れて、誰かが彼の名を呼んだ。
「…斎藤…ッ!」
最初は怒鳴るような声。
「なに、して…っ、馬鹿なのかっ、おめぇ…ッッ」
言葉で張り飛ばすように、叱られ。
「…許さねぇからな」
底冷えのするような、罵りの言葉を耳元で言われた。それでも、そんな言葉でも土方の声であることが、無性に嬉しく、もっと聞きたくて。なのに、また、何も聞こえなくなって、いった。
パチ…ッ
パチッ
耳に聞こえる音に、斎藤は微かに身じろいだ。きっとこれは囲炉裏の音だ。あぁ、あたたかい、と、そう思う。体が温かい。胸も、腕も、脚も、頬や額まで、どこもかしこも温かかった。なんだろう、何か、とても温かいものに触れている、と、そう思って、もう一度微かに体を動かした。
その時。
「動くんじゃねぇ」
耳の奥に直接、言葉を、声を差し出され、差し入れられるような。
「え」
「動くんじゃねぇって、言ってんだろう。やっと少しぬくくなってきたんだ。でもまだ全然冷てぇ。胸も、腹も、手足も」
彼だ。傍に居てくれるんだ、そう思って、目を開けたのに何も見えない。顔が見たくて、何故だか動かしにくい頭を無理にでも動かし、見た。すぐ傍に見えたのは、少し伏せがちにした、土方の瞼だった。閉じ切っていない瞼の隙間から、彼の目が、斎藤を見ていた。
「ひ…じ…?」
会えた、という湧き出すような喜びと、今何がどうなっているか分からない小さな不安。狭い視野で、忙しく視線を動かして、やっとじわじわ分かってくる、事実。どうしてこんなに土方の顔が近いのか。全身何処もかしこも、心地よく温かい、その理由。
あまりのことに、びく、と斎藤の体が跳ねる。跳ねたその体を押さえ付けるように包んで、土方の腕に、ぎゅう、と力が込められた。否、腕だけではない、斎藤の片脚を挟み込み、絡めている彼の両脚にも。
「う、ご、く、な! この馬鹿っ。おめぇな…っ、死にかけたんだぞ。もしあと半日遅かったら、二度とこの体に、体温が戻ることも無かったんだッ」
土方の言っていることは分かる。分かるつもりだ。でも、それでも、たった今置かれている状況から、一刻も早く逃げ出さねばと斎藤は思ってしまう。触れている感触で分かってしまったのだ。たった今、自分の体に触れているのは、土方の素肌だ。互いに殆ど全裸で、隙間のないほど、ぴったりと身を絡めている。
理由は、分かる。でも、いったい、いつから、こんな。
「は、離…っ」
「断る」
「土方、さん」
「駄目だ」
「…ご、後生…ですから」
言い募ると、強く抱かれたままで、土方の深いため息が伝わった。
「別に、俺は、気にしねぇ」
変に力を込めて、一語一語区切るように言われたその意味が、分かる気がして、斎藤の体が竦む。本当に死にかけていたのかもしれないが、そんなことなど部屋の外まで吹き飛んでしまうほどのことを、言われているのかもしれなかった。
「ていうか、構わ、ねぇ」
「…なに、が、ですか」
「自分で自分に気付かねえふりを、やめてみたらな、おめぇ、分かりやす過ぎんだよ、ずっと、最初からだろ。だから」
言いながら、ごそ、と土方が動いて、布団の中から片手を出し、斎藤の額に、少し乱暴に触れた。ぐいぐい押すようにして触った後、よかった下がってる、とひとこと言って、土方はようやっと斎藤から体を離した。
朝の光の差す部屋で、布団から出てきた土方の体は、下帯のみの裸体だった。あぁ、やっぱり、と、頭をぶん殴られたような気持ちで思って、斎藤は、強く目を閉じる。
「薬を用意してくる。苦ぇけど、飲んで貰うからな、待ってろ」
土方はそう言って、雑に着物を身に着け、外へと出て行く。残された斎藤は、酷く大きな音を鳴らす己の心臓を、いったいどうしたら静められるのかと、無駄なことを思うしかないのだった。
続
もうちょっと先まで書けるはずだったんだけどな。でも書きたいことがわりと書けたと思うので、よかったですーっ。次回もこの続きかと思います(あたりまえ)。いや、そうではなく、あの、この続きなんです。なんて言っていいかわからないや、あっ、そう、看病。看病ですね。えぇ。
楽しみです、書くの。それではまたっ。
2023.06.25

