白い息を幾つも吐き出しながら、斎藤は道を急いでいる。山道へ入ってすぐ、冷たい風に雪が混じって顔に吹き付けてきて、笠を被ってくればよかったかと後悔していた。少し寒いかもしれないと思って、首には襟巻を巻いてきたが、それだけでは追い付かない。

 あぁ、寒い。

 吹き付ける雪が段々と髪に積もる。指も凍えて時折擦り合わせて凌ぐしか出来ない。 けれども心は真逆に熱くて、一度家に戻るなど到底考えられないのだ。

 一瞬でも早く会いたい。
 あんたの顔が見たい。

 石田村に着いたら、出会った人に家を聞いて尋ねていき、そうして彼に会えたら一番に、謝ろうと決めている。

 信じて待っていなくてすみません
 でも、どうしても、会いたくて。

 きっと呆れるだろう。ただ待っていることすら出来なくて、ガキだなと言われるかもしれない。もしもそう言われたら、待っていられなかった理由を、今度こそ話すと決めている。

 だけれど石田村はそれほど近くはない。前に途中の宿屋まで行ったが、其処からだって随分かかると分かっている。分かれ道はあまりないから、道を間違えるとは思わないが、万が一にも迷わないように、分岐ごとに気を付けなければ。

 と、その時後ろから、近付いてくる誰かの足音がした。

「そこ退いて下さいよぉっ、速飛脚が通るよぉッ」

 追い抜かれ、尻っ端折りの後ろ姿を目に映した途端である。その飛脚はぴたりと足を止め、斎藤の方を振り向いた。

「あれぇ、あんた確かトシさんのっ」

 それはあの宿屋で会った、飛脚の若者だったのだ。急いでいたふうだったのにわざわざ戻ってきて、意外そうな顔をする。

「ひとりでどこ行くんですかいっ? 雪まみれじゃないですかっ」

 気安く手を伸べ、肩の雪を払い落してくれながら、飛脚は不思議そうに首を傾げていた。

「…実は、その、石田村に」
「石田村?」
「ひ、土方さんに」

 自分の中では揺るぎのない気持ちでも、他人に言おうとすると言葉に詰まった。すぐに会いたいとか、どうしても顔が見たいとか、男が同じ男に対して抱く感情では無いではと、今更のようにひしひしと思う。でも飛脚は納得がいったように、笑顔になった。

「そっか、トシさん今はあっちに帰ってんですね。でもこっから先、峠へ向けて登りゃ登るほど雪が強くなりますよ。よかったら、この笠」

 そう言って、彼は腰に挟んでいた畳み笠を広げ、斎藤の頭にひょいと乗せてくれた。断ろうとしたが、いいんだいいんだと彼は首を振る。

「走るのに邪魔だから、俺はよっぽどじゃないと笠は使わないんで。返すのは今度会った時にでもっ」
「…正直、助かります。ありがとう」
「笠も使って貰えて、喜ぶってもんですよっ。あんまし出番がないからさ。そんじゃっ」
「あっ、すみませんっ、あの…!」

 にかっ、と笑って言ってしまおうとする彼へ、斎藤は言ったのだ。

「教えて欲しいんですっ」





 葉の落ちた柳の枝が、風に激しく揺れている。肌を刺すほど冷えた空気を吸いながら、土方はまたあの河原で木刀を振っていた。掛け声のひとつも立てない。ただただ前を見据え同じ仕草で、何度も、何度も。

 心が落ち着かない時はこうすればいいのだと、教えてくれたのは斎藤の姿だった。無心なあの姿を思い出しながら木刀を振っていると、やがては汗が首筋を流れる。熱いと感じるまで素振りを続けたのち、すっぱりと木刀を下ろし、土方はもろ肌を脱いで体を拭く。

  『肩に力が入り過ぎてます、土方さん』

 そう言われたのはいつだったか。すぐ隣に立って、手本を見せるように数回竹刀を振って見せながら、あの時の斎藤の眼差しは、なんにも無いところへ向いてばかりいたっけ。

  『あと、汗を拭いたらすぐ着物を着ないと、風邪を引きます』

 そんなことを言うくせに、自分の方が風邪を引いてた。今頃ちゃんと治っているだろうか。渡してやった薬で足りたのかどうか、そんなことが気になってしまう。頬の傷ももう、きっとすっかり癒えているだろう。あれから、半月以上も過ぎた。

 見上げた空は随分どんよりとして、今にも雪が降りそうだ。だからと言って、薬を売り歩くのを休むつもりは毛頭なかった。今日もこのまま行商に行く。着物を直して土手を登ると、丁度建具屋のタケが通りすがった。反射的に背中へ木刀を隠したが、見えたらしくてにやりと笑われる。

「隠すことねぇだろう、薬屋。護身は大事だぜ。今から遠出すんのかい?」
「まあな」
「建具直しや刃物研ぎなんか、行った先であったら教えろや」
「あぁ」

 必要最小限のやり取りだけで、二人はあっさり擦れ違った。土方の顔を見たことで、負けられないとやる気を出したタケは、一度家へと戻り、砥石や道具類をきっちり整えて仕事に出ようとした。その目の前を、見知らぬ若い男が通ったのだ。

 わき目もふらない急ぎ足で川の縁を沿って来て、タケに気付くと向こうから声をかけてきた。

「すみません、この川が浅川で間違ってませんか」

 腰には木刀。ただ川の名前を聞くだけなのに、随分深刻そうな顔だった。自分から声をかけてきた癖、一刻も早く先へと進みたがるような、その急いた様子が妙に気になる。

「なんでだい?」
「家を探しているんです。この辺の浅川沿いだと聞いたので」
「誰の家?」

 二度も聞き返されて、二度目はすぐに応えない。タケは畳み掛けるように、もう一度同じことを聞いた。

「誰の家を、だい?」
「あの」

 答える前に、男は目の前の風景をゆっくりと見渡す。思い詰めた顔。引き結ぶ口元。それだけで、彼が何か強い思いを抱いていることが、ひしひしと伝わってくる。

「石田散薬を売っている、土方さん、という人の家が知りたいんです」
「…へぇ…」

 タケはこれから客の家に届けに行くつもりの包丁を、道具箱の中からおもむろに取り出したのだ。そして腰の帯に挟んであった砥石をもう片方の手で掴んで、二、三度研ぐ真似事をする。

「…石田散薬たぁ、随分古い薬の名を出すじゃねえか? ひじかただぁ? そんな名の薬屋はこの辺にゃ居ねぇ」
「でも、浅川沿いだと聞いて来たんですが」

 間近からじろじろと眺め、脅すようにそう言ったのに、男は怯みもせずに淡々と繰り返した。若いのに肝が据わってやがる、何か思い定めたことがあるような。例えば、身内の仇でも探しに来た、とか…。

「浅川はなぁ、こっから先もずっと遥か向こうまで流れてんだよ。あんたぁ別の里と勘違いしてんじゃねぇのかい?」

 川沿いの里は何処も似たような感じだからな、と、包丁を仕舞いながらタケは言う。

「居ねぇと言ったら居ねぇ、余所の里を探しな」
「……わかりました」

 タケが故意に漂わせる剣呑な空気のせいだろう、男はそれ以上重ねて聞こうとはせず、軽く頭を下げて行ってしまった。その背中を見送ってから、彼は家にいる妻にこう話したのだ。

「おい、余所者が薬屋のことを探してる。また変な逆恨みかもしんねえ。そいつ、土方って名前まで出しやがったんだ。もし聞かれても、知らねえ住んでねぇって言うように、急いでみんなに話をまわしてくれ」
「えぇ? あんた逆恨みって。まだそんな人がいるってのかい?」
「居るかもしんねぇだろ! あいつのじいさんの時も、父親ん時もまだそういうやつが居たんだ。土方の名前は悪名高ぇからなっ、気ぃ付けるにこしたことねぇよ!」

 田舎の人間の結束は固い。タケの言葉に深く頷いた妻も、タケ自身も、目立たない道を走って近所に話をしに行った。そんなわけで、人から人へと、あっという間にその話は伝わっていく。タケが会った余所者は、土方に害なす人間などではなく、ただただ彼に会いたくて来ただけなのに、これでは誰もそうとは思わない。

 冷たい雪混じりの風を浴びながら、曲がりくねった川に沿うように、斎藤はずっと歩いて土方の家を探している。人に会うたび訪ねたが、誰もが随分と冷たかった。石田村へ来るまでも、彼は殆ど夜通し歩いていたのだ。体は既に冷え切っていたけれど、暖を取らせてくれる人など居そうもなかった。

 山の中であの速飛脚に会って、土方の家のことを少しでも聞いていなければ、もう諦めるしかなかったかもしれない。ようやっと聞いていた通りの家を見つけた頃には、とっくに日が沈んでいた。

「…戸口の横に山茶花。その奥に梅の木。あぁ、此処だ、見つけた」

 嬉しくなって、すぐに家の戸を叩いた。何度叩いても返事は無くがっかりしたが、もしも居なくとも待たせて貰おうと思って、ガタガタと音を立てながら、その扉を開いたのだ。鍵はかかっていなかったけれど、中を見た途端、彼は立ち竦んだ。

「え……」

 暗い。案外広い部屋の中には、畳の一枚すら無くて、家具も障子も襖も無かった。どう見ても、空き家だ。ならばこの家じゃないのかと思い、落胆して背中を向けた時、うっすら漂ってきた匂いにはっとする。それは薬の匂いだった。

 何種類もの薬の匂いが混じった香り。彼の持ち物にも、体にも沁みついていたあの匂いだと思った。胸が鳴る。家の中に数歩入って目を閉じて、斎藤は深く息を吸い混む。土方が悪夢を見て、斎藤に縋ってきたあの時、抱いた体からも、微かにこの匂いがしていたのだ。 
   
 この家でいいのだ、祈るように、そう思う。会えるまで此処で待とうと彼は決めた。草履を脱いで、部屋の真ん中まで行って、きちりと正座し目を閉じる。畳すらない板の床は、氷のように冷えていた。

「…土方さん、来ましたよ、俺」

 ほの白い息が、薄暗い部屋の中に零れて消える。斎藤の口元は、それでも微かに笑んでいた。

 早く、会いたい。












 ちょっと短いけど、この先まで進むと止まらなくなりそうなので、ここで切っておきます。鬼畜な途切れ方だと言う自覚はちょっとある(けど詳しい続きは考えてない)ので、なるべく早めに次を書きたいと思ってますよーっ。季節は今、真夏に向かうところだというのに、物語は師走っ。寒さが伝わりますようにっ。

 というか、誰かひと君にご飯と布団を恵んでやって下さいっっっっ。

 それにしてもな「ひじかた」の名前のせいだぞ、ひと君がこんな仕打ちに会うのはっ。あぁああ、かわいそうにっっ。筆者、逃げっっっっ。




2023.06.18






時差邂逅