二
十
二
土方は久しぶりの家へと帰り付き、薄暗い中さっと掃除をすると、押入れから湿った布団を引っ張り出す。ひいやりと冷たいのを我慢し、丸くなって眠ってしまった。そして翌朝早く、彼は戸をがらりと開けて外を見る。
多摩郡の師走は、斎藤の道場のある街の師走に比べて寒い、と土方は思った。建物がずっと少なくて、どこまでも風が通り抜けていくからだろうか。とうに枯れた薄の群れが、倒れそうに揺れていて、その様もどこか寒々しいのだ。家のすぐ傍を流れる川の水が、弱い日差しに光っている。
それを暫し眺めた後、彼は床に大きく風呂敷を広げて、その上に今ある薬を並べていく。昨日会ったタケが言っていたように、風邪薬が何包か減っていたし、その旨を記した書きつけもあった。
行商を常にする土方は、家を空けていることが殆どだ。急ぎで必要な場合は、払いを後にし、薬は持って行っていいという約束事になっている。タケの使った風邪薬以外は、減った様子が無かったので、他に薬を持って行った里人はいなかったようだ。
「思っていたより作り置きがあるな。でも、風邪薬とか熱さましとかは出来るだけ作っておくか。晦日になりゃ喰い過ぎやら飲み過ぎやらで腹を壊すヤツが出るから、酔い覚ましと、腹痛の薬と、頭病みに効く薬。あと関節痛なんかに効く膏薬。石田散薬…は、多めにあるから、これはいいとして…」
煎じてある手持ちの薬と、これから煎じるために干して保管してあった薬草。今は冬だから、山野で採取できるものは少なく、どうしても欲しい薬草は、それ専門の店に買い付けに行くことになるが、その為の金はある。
「さて、何からやるか。そういや昨夜は何も喰わねぇで寝ちまったし、とにかくなんか腹に入れねぇとな」
まるでその呟きを聞いていたように、その時、開けっ放しの戸の隙間から、ひょい、と近所の女の顔が覗く。
「ほんとに帰ってたねぇ、薬屋のサイさん。ついさっきタケさんに聞いたんだよ。あんたお腹空かしてんじゃないのかって。ほらっ、握り飯、うちの旦那の野良仕事に持たせた余りだけどさ」
「おぉ、悪ぃな、助かる! にしてもタケさんはもう仕事に歩いてんのか、随分早ぇなぁ」
すぐにも美味そうな飯にかぶり付き、咀嚼の合間にそう言うと、女はその食べっぷりを見ながら、にこにこと笑っている。この寒空に、ほんのり頬が染まるのは、久々に見た土方の男ぶりの良さの為か。
「タケさんは前からあんたと張り合ってるつもりだからねぇ。建具屋だけじゃ負けちまうってんで、金物とか刃物研ぎなんかも始めちゃって、今に何でも屋になる気だよ、あの人」
「仕事に打ち込む男は、かっこいいだろ? おめえんとこの旦那も鍬をもたせりゃ様になるじゃねぇか」
「あははっ、サイさんみたいな美男に言われちゃあ」
明日も居るならまたなんか持ってくるよ、とありがたいことを言ってくれて、女は帰っていく。土方は葛籠に薬を詰め、矢立の墨の具合を見てから家を出た。意識してタケの歩いてそうなところを通っていたら、数枚の田んぼを挟んだ向こうに、売り物の鍋やら柄杓やらをぶら下げた姿が見えた。
「タケさん、ありがとうよーっ。あんたもせいが出るなぁっ」
美味い握り飯にありつけた礼を大声で放てば、タケは面倒くさそうに片手を上げて応じてくる。
土方に彼と張り合う気は無いが、同じく近隣に物売り歩く相手として、互いの情報が何かと役に立つ。それに、タケが今日訪ね歩いた順に土方も歩けば、其処には「薬屋が御用聞きに来る」と知っているものばかりがいることになる。有難いものである。
そんなこんなで多摩郡での商売は順調だ。懐がさらに潤うと同時に手持ちの薬は減っていく。持っていない薬を求められることも二、三あって、土方の頭の中は、自身の商売のことで埋め尽くされていた。昼飯も夕飯も途中の家で馳走になって、腹も満足している。
そうやって、頭や腹に隙間がないせいだったろうか。胸の隅に空いている隙間が、急に気になった。そこにはちらちらと、極小さな火のように揺れている何かがある。
あいつんとこに戻るのは、
来年の話かもなぁ。
おめぇ、そんなずっと戻らねえ俺のこと、
さっさと忘れちまうか…?
『そんなわけ、ないじゃないですか…ッ』
ぴぃん、と張った弦を弾くような、酷く懸命な声が耳の奥で響いて、土方は、はっ、と足を止めた。振り向いて、それから周りを見回して、その声の主を探したくなる。此処は石田村、あいつが居る筈が無いと分かっているのに、それでも。
弟が出来たみたいで、もう一度家族が出来たみたいで、子犬に絡みつかれるみたいに心があったかくなって、もしそれが全部なくなったら、随分詰まらなくなるだろうと、土方は思った。
「そんなわけ、ねぇか。そうか、斎藤」
無意識に笑んで、いったん止めていた足を土方は忙しく動かした。世間話なんかに随分引っかかって、まだ石田村の得意先だけでも回り終えていない。隣町と、山一つ向こうも足を伸ばしたいし、一番近くの街にも、行きつけの道場がいくつもある。
足りない薬は作るし、材料が足りなければ買い付けてから作らねばならない。そんなに簡単じゃない、薬作りは時間もかかる。でも精を出せば、一日でも早くそれは終わるだろう。
そう思い定めて忙しく過ごす彼の日々は、飛ぶように過ぎていった。薬を葛籠に詰め込んでは行商に出て、一日歩いては夜になって家に戻る。時には遠出した先に泊まり込んで、数日後かけて戻ることもあった。気付けば月は満ち、それを更に過ぎてまた細っていった。
ある寒い日、家でひとり薬研を使っていて、気付いたことがある。手のひらが、随分柔らかくなった感じがしたのだ。まじまじと見ると、幾つもあった竹刀ダコがすっかり消えていた。薬研を使い続けることで出来たタコもあるが、それはそれだ。
「……俺の馬鹿野郎が! 何のための木刀だっ」
小雪がちらついていたが、そんなことには構わず、土方は外へと飛び出した。途中何人かとすれ違いながら、人に見られない場所を探す。川の縁に冬枯れた柳の木を見掛けて、草を掻き分け土手の下へと降りていった。
そうして彼は河原の小石を踏んで、ふう、と息を落ち着けるのだ。目を閉じると、斎藤の声が聞こえるような気がした。
『あんたの相手なら、此処に居る』
あぁ、剣術がやりたい。俺が木刀も竹刀も握らないでいる間、みんなは毎日のようにあの道場で、鍛錬をしていたんだろう。
詰まらないと思っていたただの素振りも、いつも同じ型をなぞる練習も、たった半月やらないだけで恋しく思える。竹刀のぶつかる音、面を打つ音、胴を払う音。試合をして、誰かが床に倒れ込む振動が、足の裏に響いて、それだけのことで気分が高揚した。
「早く、またおめぇと、打ち合いてぇ」
思わずそう呟いたその時、ついさっき耳の奥で聞いたのと、似た言葉が何処からか聞こえたのだ。
『お前さんの相手なら、此処に居るよ』
そして、その声を放つ相手の姿も、一瞬見えた気がして。
驚いて、目を開いた。勿論目の前には誰も居ない。ただ、草が風で揺れていて、川には冷たそうな水が流れ、ほんの少し雪が舞っている。土方は竹刀をだらりと身脇に下ろし、空いた片手で己の片耳を覆った。
『相手が欲しいんじゃないのか』
また声が聞こえる。これは実際に彼が、聞いた声ではなかったか。今まですっかり忘れていたことを、たった今、土方は思い出している。
いつだったかまさにこの場所で、ぴんと背の伸びた体の大きな老人に出会ったのだ。薬売りの葛籠を放り出して、揺れる柳の葉を見上げながら、竹刀を傍らに寝転がっていた自分に、その老人の方から声をかけてきた。
『それとも、こんな老いぼれとは、やる気がしないか』
はっきりとは見えなかった老人の顔が、だんだん鮮明に見えてくる。首筋の産毛がぞわりと逆立って、雪混じりの風の冷たさも、手に下げた木刀の重さも、全部分からなくなる。
「だれ、だ…」
それがいったい誰なのか、既に答えが出ていたからこその、成すすべもない独白であった。
おめぇは、残れ。
斎藤の夢の中で、彼の大切な人がそう言った。あぁ、これは、もう何十回も夢に見ている。たったそれだけ、たった一言なのに、息の根を止められるような、惨い言葉。こんな言葉を聞くぐらいだったら、耳など聞こえなければよかったのに。その言葉の意味が分からないぐらい、愚かだったらよかったのに。
勿論、諾々と従ったわけではない。思いつく限りの言葉で拒絶した。何を言われても、どんな目で見られても、それだけは聞けないと言い続けた。それでも最後には、頷いたのだ。戦況が許す限りすぐに、あんたを追い掛け追い付くと告げて、去っていく背中を、彼は見送った。
そしてそれが、最後に、なった…。
目を覚ますと、全身が氷のように冷えていて、なのに体はひとつも震えてはいず、斎藤は布団に身を起こした。瞬きしない目で自室を見回し、自分がひとりなのだということを、また虚しく思い知る。
竹刀を握り外に出て、木切れの一本に縄を縛り付けると、それを庭木に吊るし、鍛錬の準備をした。そのあとは、ぶら下がった的を相手にひたすら打ち込み続ける。みんなが朝稽古に来るまでに、少しでも平素の自分に戻っていなければ。
あの人が行ってしまってから、もうどれだけが過ぎたのだろう。一か月だろうか、二か月だろうか。実際には半月と少しだけれど、到底そうは思えなかった。このままじっと待っていたら、二度と会えなくなるのではないかという、理由のない不安、奇妙な恐怖。
それが、ついさっきまで見ていた夢と重なって、息をするのさえ苦しくなっていく。
「…土方さん、お願いです、早く、戻って」
荒い息の合間に零れる懇願。こんなのは、届くはずのない無意味なひとり言なのに、浮かんで見える顔、別れ際に見詰めた背中に、何度でも言ってしまう。
「待ってますから、俺…」
何百回も竹刀を振って、同じ数だけ的を打ち据える。その木切れを結び付けた縄が捻じれて、不規則にくるくると回る。流石に打ちづらくなって、竹刀を下ろし、片手で木切れを受け止めた時、自分を見ている幾つもの視線に、彼はやっと気付いた。
「先生、一人稽古かい、すげぇなぁ」
「俺らじゃ先生の本気の打ち込み、受けらんねぇもんなぁ」
「そりゃあそうだ。サイゾウさんなら別だけどよ」
サイゾウの名を出されて、無意識に斎藤の視線が下がった。
「…みんな、どうしたんですか、いつもより少し早い」
「いや、それだけどよ。そろそろ師走も終わりだろぉ? うちのが、そろそろ家のことやってくれって。買い出しとか、大掃除とか」
「俺んとこはさ、街に住んでる親戚が商家で、年明けの売り出しの準備をするんだと。それを手伝いに行くことになって。だから」
そういうふうにいろんな理由があって、年内の稽古は昨日で終いにして貰おうと、みんなで言いに来たというのだ。ソウ助とおハツも昨日、遠くから祖父母がくるから、暫く稽古に来られなくなると言っていた。
「そうか、もう…年の暮れなんですね」
「うん、だからよ、今日はみんなで、道場の掃除をしようや、先生」
稽古に来るものまで居なくなったら、ますます此処は淋しくなる。そんなことを思いながら、そのあとやってきたみんなとも手分けして、道場とその周りを掃除した。少し早めの大掃除ということにして、道場の隅々までをきちんと綺麗にして貰い、帰っていく生徒たちに、斎藤は頭を下げた。
「年が明けて、松七日が済んだらまた、よろしくお願いします」
自分がやるからと言って、何もせずにいて貰った神棚を、斎藤はひとりで清める。踏み台を置いてその上に乗り、時間をかけて、ひとつひとつ埃を払い、乾いた布で拭いていく。そして、最後に手に取ったのは、ハジメから託された、あの宝物。
何してんだ!?!
…っぶねぇ。
落ちたらどうすんだ?!
足に怪我をしていた斎藤を、気遣ってくれた土方の声を、斎藤は思い出している。思い出しながら踏み台に腰を下ろし、くるんである布をゆっくり開き、丁寧に紙をほどいてそれを見た。其処には、彼が今、すぐにでも会いたい土方サイゾウと、同じ姿の土方トシゾウの写真がある。
初めて見た時と変わらない、美しい人だと思う。でもその時と今と、気持ちが違っていることを、彼はその時、初めてはっきり意識したのだ。
「……俺が、会いたいのは…」
零れた自分の言葉に、鼓動が、小さく跳ねた。いつもみんなで鍛錬している道場。土方とも手合わせした道場の、澄んだ空気を胸の奥深くまで吸い込んで、斎藤はただ、ひとつ、頷く。
待つ、と決めた。
戻ってきてくれると信じて、
此処で待っている、と。
その言葉は嘘ではないけれど、
どうしても、会いたい。
自分で決めたその想いを、噛み締めるようにして、その夜、斎藤は神棚のお神酒を盃に注いだ。その盃へと口を付けた、土方の姿を脳裏に浮かべながら、彼はそれを、静かに飲み干した。
続
とうとう動きますひと君が! たった半月ちょっとくらいだけど、本当に長くて辛い半月なんです。お察しください! てゆーか、お察しくださいなんて書くんじゃなくて、ちゃんと伝わるように書けてなくて土下座っ。サイゾウさんの方もなにやらいろいろと進展が! あったような無いような! いやあったよねっ?? ねぇっ??
とにかく読んで下さりありがとうございますーっっっ。
2023.6.11

