二
十
一
ようやっと夜が明けたばかりの、まだ少し薄暗い時刻。庭の木の枝で囀る雀の声を聞きながら、斎藤は土方の背中をじっと見つめていた。
「どうしても、行くんですか」
斎藤がそう声をかけると、土方は縁側に座ったまま面倒くさそうに肩を揺らし、溜息を付いてみせるのだ。
「行く。昨日もそう言ったろ。見送りなんかいいから、おめぇはおめぇのすることをしろよ」
「だって、この間も帰ったばかりなのに」
「こないだんときゃ、ちらっと戻っただけだったろ。売る薬がもう全然ねぇんだよ。とにかく行ってくっから」
「…土方さん」
酷く物言いたげな斎藤の声が、盛大に土方の後ろ髪を引く。草鞋の紐を足首にしっかりと巻いて、護身用の木刀を腰に差し、葛籠を背負い、どう見てもこれからすぐに発つ恰好なのに、なんでそんなに、と土方は思う。
「あのなぁ、行くっつったら行くんだよ」
振り向いた土方は、ふと斎藤の足元に視線を落とした。もう師走に入っている。早朝の縁側は随分冷えていて、素足で立っている斎藤の足の指が、寒そうに赤くなっていた。もう一度、今度は苦笑混じりの溜息を付いて、土方は斎藤の方へと体を向ける。
「……なんでそんな顔するんだよ。おめぇ、少しおかしいぜ?」
そう言った途端、更に動揺した斎藤の顔。彼の頬の小さな傷跡を見て、土方はそれへと触れようとした。けれども伸べた手は不自然に空中で止まってしまうのだ。おかしいのは斎藤だけじゃない、自分もだ。そんなことをどこかで意識しつつ笑い掛ける。
「んなとこに傷なんか作ってよ。道場の奥の棚に、ちいせぇ薬箱を置いてある。そん中に傷薬があっから、そこ、ちっと塗っとけな。傷ってなぁ、寒くなると治りにくいんだ」
「…間違えて違うのを塗ったらいけないから、出して見せて下さい。戻ってからでいいです」
「いつ戻るか、決めてねぇし。ほら、薬の材料を用意すんのも時間かかるかもしんねぇから。傷の薬は薄黄色い方の膏薬だ、見りゃあ誰だってわかる。…駄々を捏ねんなよ、ガキじゃねぇだろ?」
そう言って、土方は斎藤の頭へと手を伸ばした。前と同じように無造作に触れたあと、何故か弾かれたように手を引っ込めて背を向ける。引き止めるのは無理なのだと、ようやく諦めた斎藤が言った。
「…土方さん。頼みますから気を付けて行って、ちゃんと戻ってきて下さい、待ってます」
「わかったって」
「待ってますから、俺」
背を向け、淡々と歩いて遠ざかりながら、土方は返事の代わりに、一度だけ軽く手を振った。小さくなっていく彼の後ろ姿を、斎藤は門のところまで出て見送っていた。そして土方は、角を曲がり背中に刺さっていた視線を感じなくなると、段々歩みを緩めた。
旅暮らす時間の長い彼のこと、必要なものは全部葛籠の中で、斎藤の家に置いてきたものは何も無い。さっき言った小さい薬箱の他は、彼に貰った練習着の上下くらいだ。それらはどちらも無くても困らない。そんなことを思っていたら、何故か足が止まりそうになった。
もっと何か、置いてくれば。
それは不安がる斎藤の為にだろうか。そして、自分が此処に戻ってくる理由にするために?
なんだよそれ。わけわかんねぇ。
首を数回振って、土方は止まりかけた足をぐんと速めて前へと進んだ。橋を渡り、街を通り抜け、躊躇いなく山道へ入る。休まずにどんどん行って、馴染の宿屋の前はあえて通らない道を選んだ。いつもの宿に顔に出せば、きっと斎藤のことを聞かれる。今は、それが嫌だった。
土方は夜になる前に石田村へ辿り着いて、流石に無茶をしたと意識する。きつく縛り過ぎていたのか、草鞋の紐が足首に痛かった。道の脇の岩の上に腰を下ろし、紐を緩めている彼の姿を、見知った顔が見ていたのだ。
「そこに居んのは薬屋じゃねぇか、しばし見なかったけど、何処行ってたんだよ」
「タケさんか。そうだな、久しぶりだな」
少し前に一度戻ったが、何処に行っていたかということも合わせて、説明は面倒だった。ただ、斎藤にはずっと土方さんと呼ばれていて、馴染の宿ではみんなにトシと呼ばれているから、薬屋という里での呼ばれ方が、少し懐かしい。
「俺がいねぇ間、なんか薬の入り用はなかったかい?」
そう聞くと、タケと呼ばれた男は大袈裟に眉をしかめて見せる。
「ちょっと前に一家で風邪ひいてよぉ。おめぇの家に勝手に入ってって使ったぜ? 風邪薬。あと里長の腰痛の膏薬がそろそろ無いって言ってたかな。あ、そうそうっ、隣町の寺子屋の先生が、石田散薬が欲しいって話で。子供に剣術も教えてんだってさ」
「おう、ありがとうよ、タケさん。相変わらず、あんた里のことやらなんやら、色々知ってて助かる」
聞きながら頭の中にそれを書き留めて、土方は座っていた岩から腰を上げた。家に戻れば薬の材料が色々あるが、足りるだろうかと思案する。礼を行って歩き去ろうとしたら、背中に声が投げかけられた。
「つぅか、薬屋。長く留守にすんなら言っていけって話だよ。いざってとき困んだろ」
「そうだよな、悪かったよ」
あまりにその通り過ぎて、詫びることしか出来ない。大通りまで行けば、薬を扱う店があるにはあるが、その店に薬を下ろしているのも土方なのだ。長々と留守にすれば、困るものも出てくるだろう。数えてみたら、もうひと月ほど留守していたことになる。考え無しだったと反省して、彼は明日からのことを考えた。
まずは薬屋に顔を出すのと、置き薬をしてくれている石田村の家々や、近隣町の道場にも行ってみよう。それでもしも作り置きで足りないようなら作らなければならない。そもそもの薬の材料だって、どれぐらい余剰があったか。
「仕入れにも行くとして。…結構かかるな。十日、いや、もっと」
彼の頭の中に、曇り顔をした斎藤が浮かんでくる。自分を呼ぶ声も聞こえて来て、心が揺らぐ。土方は溜息をついて空を見上げた。ついさっきまで夕方だったのに、もう一番星が見えている。
「そんな顔すんなよ、ちゃんと戻るって。…用が済んだらな」
土方に置いていかれた斎藤は、その日もいつも通り、みんなに稽古を付けなければならない。
斎心道場の生徒たちは、まず最初に素振りを五十回やることになっている。師範の斎藤はそれを静かに眺めて、姿勢やら竹刀の握り方やら、足の運びやら、毎回同じようなことを、それでもきちんと教えてくれる。
それが常、の筈なのだが。
「…なぁなぁ、なんかよ」
「あぁ?」
「なんか先生、昨日っから変じゃねぇか?」
道場の後ろの方で竹刀を振っていた二人が、ぼそぼそと話をする。
「昨日はおっかねかったよな」
「ぴりぴりしてたな。そんで今日はなんか…」
斎藤はずっと無言なのだ。生徒たちのことを見ているんだかいないんだか、一言も声を掛けない。
「具合が悪ぃのかな?」
「いや、俺はさ、サイゾウさんがいねぇのと関係あんのかなって」
「そういや昨日から居ねぇよな。あっ、喧嘩したとかっ?」
「かもなぁ」
素振りが終わったあと、今日は全部で六人いる生徒たちは、竹刀を下ろし斎藤を見た。でも斎藤はそのことに気付いても居ないふうで、前を向いたままで黙っている。
「あのぅ、先生?」
「え?」
「えっと、次は、何をしたらいいかなって」
「あぁ、すみません。ぼうっとして」
それを聞いた生徒は、えらく不思議なことを聞いたように思ってしまう。指導をしている時の斎藤が、理由も無くただぼうっとしていたことなんて、今まであっただろうか。
「せ、先生? サイゾウさんは…?」
一人が恐る恐る聞くと、斎藤は大して広くも無い道場に、視線を彷徨わせる。まるで、土方の姿を探しているように見えた。来て居ないのだから、今更見回したって、此処に土方がいる筈がない。それは彼だって分かっている筈なのに。
「…ちょっと、郷里に戻ったんです。あぁ、そうだ。昨日はすみませんでした、荒っぽかったですよね、俺」
「そ、そんなんはいいんだけどよ。それよっか、なんか今日は先生、元気がねぇから、そのぅ、サイゾウさんと喧嘩でもしたんかなって」
そんなふうに問われると、彼は少し項垂れて、ゆるゆると首を横に振った。
「…喧嘩なんか、してないです。俺とあの人のことはいいですから、稽古の続きを。じゃあ…今日は、そうですね。二人ずつ向き合って、軽く打ち合いを」
小一時間ほどの稽古を済ませ、生徒たちは汗を拭きつつ帰っていったが、最後に残っていた又六が彼にこう言ったのだ。
「なぁ、喧嘩はしてねぇかもしんねぇけどよ。先生が元気ねぇのって、やっぱサイゾウさんが居ねぇからだよな?」
「なんで、そう思うんですか…?」
体だけ又六の方に向いて、斎藤は視線を逸らしている。首に掛けていた手拭いの端を片手で握って、その指に少し力を入れていた。又六は何も気付いていないふうに、言葉を続けている。
「俺は無駄に古株だからよ。先生が小せぇ時から見てきてんだし。なんとなく分かんだよ。だって仲がいいだろ、先生とサイゾウさんは。気が合ってるっていうかよ」
「…そう、ですかね」
少し前までは斎藤も、そう思っていた。土方は他愛のないことで笑いかけてくれるし、些細な怪我とか、風邪を引いたのまで心配してくれる。夜は隣り合って布団に入って、いろんな話もした。斎藤はいつも、彼が傍にいてくれることが、そわそわするぐらい嬉しくて、幸せで。
「…今日はみんなに、心配かけてしまいましたけど、明日から、ぼんやりしないようにしますから」
「ぼんやりするぐらいいいんだけどよ。サイゾウさん、早く戻ってくるといいなぁ、先生」
元気づけるように斎藤の背中を叩いてから、又六も帰っていって、彼は其処に一人になった。外へ出て道場の戸を閉め、斎藤はひいやりと冷たい扉に片手を這わせ爪を立てる。まだ昼にも届かない筈なのに、もう夜へと傾いているような、そんな気がしていた。
あぁ、薄暗がりだ、と思っている。あの人が居ないだけで、世界はこんなにも変わってしまうんだ。俺が、我がままだったせいで。
折角、あの人に会えたのに。
あの人は俺の願いを聞いてくれて、
ずっと傍に居てくれた。
それだけで、贅沢なぐらい幸せだったのに。
なのに。
俺は、もっと欲しがった。
もっとずっと近付きたくて、息がかかるほどの距離が欲しくなった。それだけじゃない。あの人に、もっともっと触れたくなった。他の誰にも見せないような顔を、自分の前でだけして欲しくなった。こんな感情を曝してはいけないのだと、ちゃんと分かっていた筈なのに、それはどんどん大きくなって、隠せなくなって。
だからあの人は、そんな俺から、逃げて行ったんじゃないだろうか。もしも本当にそうなら、あの人は…。
「違う。戻るって、言った。言ってた、ちゃんと」
だから、待つしかないのだ。何もかも、無になったわけじゃないと信じて、待つしか。
「待ってます。ずっと此処で、あんたを」
体を返して、扉に寄りかかり、彼は空を見る。薄青い寒空には真昼の月が、きっかり半分に欠けて、浮かんでいた。
続
難産だったんですよー。書きたいことあったんですけど、全然書けなかったしっ。でもやっと21話が書けたのはよかったですっ。次回で二人が会えるのかどうかも未定なんですが、一生懸命突き進みたいと思いますっ。しかしな、細かく書きすぎてはいけないから現れる空白って、書くの難しいんだよなぁ。うぉぉぉ。
↑これ後で、何言ってるか分からなくなりそうな気がする―っ。分けわかんないあとがきですみませんっ。
2023.06.04

