二
十
夢を、見ていた。もう何度も見ていたから、見ながら、これは夢だと分かっていた。生まれて初めて『彼』を夢で見たのは、幾つの頃だっただろう。確かあれは、まだ五才になったばかりで、ほんの子供だった。だけれど。
それでも『彼』に見惚れたことをよく覚えている。夢の中の季節は、おそらく秋。視線の端で沢山の薄の穂が弧を描き、夕の光を浴びて揺れていた。耳に何度も、竹刀の音。打ち合う音ではなく、それは幾度も空を切る素振りの音である。
『彼』の裸足の白い足が、鈍い色した道場の床の上に、すっ、すっ、と運ばれる。結った髪が動きにしたがって、ゆら、ゆらりと揺れていた。掛け声もなにも無く『彼』は終始無言。ただ、浅い息遣いが時々聞こえて、顎の先から滴る汗の雫が、きりりとした横顔と共に、いちいち夕の色に染められていた。
夢の中の自分が、自分じゃないなんてその時は知らない。初めてそういう夢を見たのだから知る筈がない。ただただ格子のある窓の前で立ち止まり、道場に一人でいる『彼』を見ていた。ただ、それだけだった。
きれいな、人。
あの日、目を覚まして、そう思った。夢は起きてしばらくすれば、薄れてぼんやりとしてしまうものだとなんとなく分かっていた彼は、それが嫌で、布団に起き上がった姿勢のまま、必死になってその夢を思い返した。
ずっとそうしていたら、朝餉の時間が過ぎてしまって、具合が悪いのかと母親に案じられた。違うと言ったら、今度は父親に少し叱られた。具合が悪いのではないのなら、ちゃんと朝の支度をして、いつもそうしている時間に、家族と朝餉を迎えなさい、と。
初めて見たあの夢のことと、その夢を見た日のことを思い出しながら、斎藤は布団に身を起こす。案じてくれた母も、叱ってくれた父ももう居ない。父母の次に長く傍にいた、師匠のハジメも、既にこの世の人では無くなってしまった。
だけれど、今は『彼』がいる。土方さんが。
胸の底が少しあたたかくなるような、そんな嬉しい気持ちで、斎藤は隣の布団の方を見たが、その時彼の目に映ったのは、畳んで部屋の隅に押しやられた布団だった。
「土方さん…?」
もう起きたのか、今日は随分早い。朝から素振りだろうか。それとも朝餉を作ってくれているのだろうかと、斎藤は思いながら自分の布団を畳む。寝ぐせの心配を少ししながらふと頭に触れば、昨日、無造作に髪に触れてきた土方の指を思い出す。
「…驚いたな、あれは」
昨日は、気持ちの忙しい日だった。髪を結んだ彼を見てどきどきして、感情がぐんと高いところに持ち上げられたと思ったら、今度は可愛いなんて言われて突き落とされて、その後はおんなを買いに行くと告げられ、もっとずっと落ちていった。でもその後…。
「気の、せいかもしれないけど、土方さん…」
掴んだ手を乱暴に振り払われ、その後も邪険な物言いをされた。でもどうしてか、そんなに悲しいと思わなかった。家に戻って、炭を入れた行火を渡した時の彼の顔。小さな蝋燭一本だけの薄暗い部屋で、見えた筈もないのに、彼の頬が少し赤い気がして。
「あの時、もしかしたら、俺のこと」
ほんの少しだけでも、俺を『意識』してくれたんじゃないだろうか。そう思えたからこそ、するりと零れた問い。
あんたにとって、
俺は今、
どんな存在ですか。
答えては貰えなかったけれど、答えが無い、というそのことこそが、今貰えるもっとも欲しかった答え、なのかもしれなかった。胸が騒いで仕方が無いが、なんとか普通に接する努力をしよう。昨日の夕餉の時に比べたら、そうするのも難しくはない筈だ。
そんなことを考えながら、土方の姿を探し、庭を見て道場へも行った。彼の姿はそこには無かった。そのあと台所へ行って、客間を見に行って、風呂場の方にまで行きながら、その時もう、嫌なふうに鼓動が鳴っていた。土方の姿が、家の何処にもなかったのだ。
「おはようございます、せんせいっ」
庭に戻った時、元気のいい声がして、見ると道場の前に小さな生徒が来ていた。その後ろを追い掛けるように、姉のおハツが近付いてくる。そう言えば、今日はソウ助の朝稽古の日だ。
「…おはよう、ソウ助。おハツさんも」
「いつも早くからすみません。これ、刻んだ沢庵の入った握り飯です。サイゾウさんの分も作って来たんですけど、戻ったらお二人で」
「え…」
まだ暖かい包みを渡してくれながら、おハツがそんなことを言ったのだ。
「どうして、居ないことを…?」
「朝まだ薄暗い頃、竈の薪を家の中に運び入れてたら、すぐ傍の道にサイゾウさんが居たんです。私に気付いて、沢庵のこと、いつも美味しいって言ってくれて。それで、あと、この近くで露天で物売りするんだったら、何処がいいかって言うので、私、一ノ茶橋を渡った向こうのあたりを。…先生?」
見るからにぼんやりと聞いている斎藤を、おハツが心配そうに見ていた。ソウ助はいつもの通りひとりで道場を開け、中へ入って行く。言いつけてある通りに、ちゃんと素振りをする声がしてきた。一から始めて、ゆっくり、百まで。
「あの、ひとさん。もしかして具合でも悪いんじゃ…?」
「え、いえ、大丈夫ですよ。握り飯、いつも本当にありがとうございます」
軽く頭を下げてお礼を言って、斎藤は急ぎ稽古の身なりを整えた。道着に着替えて道場に行くと、丁度百を数え終えたソウ助が、彼へ向けて深くお辞儀をした。
「先生っ、今日もよろしくお願いしますっ」
「ああ。なら今日は、ひとつ先の型を教える、いいか、ソウ助」
「はいっ」
「この間のクマ吉さんと伍平さんの試合を見てたろう? あの時、二合目でクマ吉さんの方から、竹刀を、こう」
その時、少しでも土方のことを考えないように、あえて斎藤はソウ助に、初めてのことを教えた。そうでもしなければ、一ノ茶橋まですぐにでも走り出してしまいそうだったからだ。さすがに、そんなことをするわけにいかないと思った。
大丈夫、あの人は、急に居なくなったりしない。
前の時だって、一度石田村へ帰っただけ。ただ薬の道具を取りに戻っただけだったじゃないか。今日は薬を売りに行くと先に聞いていたんだし、今、おハツさんにもその通りのことを聞いたのだ。だから、大丈夫。心配なんかしなくても。そう思う傍から、また斎藤は別の意味で心を揺らす。
薬が沢山売れて、お金が手に入ったら、土方さんはそのまま真っ直ぐ「おんな」を買いに行くのかもしれない。薬が売れなければいい。売れなければ、おんなのところに行ったりせず、あの人は俺の傍に、戻ってきてくれる。
散らした気を引き締めては、一瞬あとにはまた散らす。そんなことを繰り返しながら、ソウ助の指導を終えた。その頃には次の生徒がやってきて、斎藤は必死になって剣術のことばかりで頭をいっぱいにしようとした。
それでも何か悪い病のように、ともすれば脳裏に『彼』の姿がちらつくのだ。目の前に見える『彼』は、トシゾウだったり、サイゾウだったりした。どちらの姿も一瞬で目を奪うほどきれいで、時には子供のように無邪気で、真っ直ぐで、奔放で身勝手で、眩しく思えた。
だから、もしも居なくなってしまったら、斎藤の世界は、戸を閉め切った部屋の中のように、薄暗くなってしまうのだろう。
「次…っ」
来る生徒来る生徒へと、順に一対一の指導をして、その次の生徒を目の前に呼んだつもりだった。でも気付いたらもう道場には誰も居ない。もしかすると、もう随分前から、彼はひとりで道場に居たのかもしれない。夕の赤い光が、開け放った扉の向こうから、強い力で彼の方へと迫っていた。
「…次、土方さん……」
其処に居ない人の名前を呼んでも、返事のある筈がない。目の前に立ってくれる筈もなかった。竹刀を持った腕をだらりと下げたまま、彼は道場の外の方を見た。きっとまだ土方は帰っていないのだろう。自分しか居ない道場と同じく、土方の気配のない家に行くのが嫌で、彼はひとり、道着や防具の手入れをした。
袴のほつれや道着の破れを、案外器用に縫い付け、もう割れそうな竹刀を補強する。面金もひとつひとつ丁寧に磨いた。夕の光が薄れていくのを感じながら、広い床一面を端から拭き清め、最後の最後に神棚の前に正座する。
「ハジメさん」
師匠の名前を呼んではみたものの、その次に何を言おうとしていたのか、自分で分からない。ただ、会えば分かる、と言われたことを思い出している。
どんなに心が乱れ、揺れるか。
怖いか、不安になるか。
己で己の感情が、御し難くなるか。
狂おしく、欲しいと思ってしまうか。
あの人の、ことを…。
そういう意味だったと、今なら分かる。
「…おかしく、なりそうですよ、もう」
一言、そう言って立ち上がると、途端に腹が減っていることに気付いた。そう言えば朝も昼も何も食べず、ずっと生徒を教えていた。しかも、いつもよりもずっと激しく教えていたように思う。皆が音を上げる声が、今更のように耳に聞こえた。きっと随分、教えが荒かったろう。
「明日、みんなにお詫びしないと」
ふらっと道場を出て、冷たい水で顔を洗うために井戸の方へと歩く途中、台所の物音に気付いてそこへ飛び込んだ。いつかもそこで見たように、土方が尻っ端折りして、竈に向かい屈んでいた。
「ひ、土方さん」
「おう、やっと稽古が終わったのかい? どうした? いったい。おめぇ、おっかねぇ顔してるから、混じるに混じれなかったぜ? 今日来た連中、気の毒だったなぁ」
土方の首に、見覚えのない紺の手拭い、白い首筋にそれが粋に映えていた。すぐに視線に気付いて、彼は言った。
「いいだろう、これ。街へ行って薬の商いをしたんだが、今日は近くで市も立っててよ、客が橋んとこまで流れて来てて、気持ちいいぐらい売れたんだ。そんで買い物してくれた女が、この手拭い使ってくれって言ってきて。なあ、似合ってんだろ」
「……じゃあ、薬を売ったその金で、土方さん」
おんなを買ったんですか、と言おうとした言葉が喉に閊えて、斎藤が何も言えないで居たら、土方はきちんと紙に包んだ金を、とん、と彼の胸に押し付けた。
「これ、飯代今日までの分だ、足りなきゃぁ言ってくれ」
「…いらないですよ。道場の生徒が怪我した時の薬代と、あんたに剣術教える分で、折半でって話だったのに」
「馬鹿、おめぇんとこの生徒そんな怪我しねぇじゃねえか。だからこんくれぇは払わねぇと、俺が得するばっかで気持ちよくねえんだよ、いいから受け取れってんだ」
そう言って無理に押し付けてくるので、金の包みはくしゃくしゃになっていく。仕方なしに受け取りながら、理由も分からず斎藤は不安になっていった。
「ひじ…っ」
「でな、売る薬が無くなっちまったから、明日っから、ちょっと石田村に帰ってくっから。用意にしばらくかかるだろうし、すぐは戻れねぇかもしんねぇ。…おい、聞いてんのか?」
土方の熾した火が、竈の中て赤々と燃えている。ぱちり、と弾ける音がして、斎藤はその瞬間、慄くように震えたのだった。
続
大してストーリーは動いてませんが、それも19話に比べたらの話、その前までに比べたら、これでも動いているのではないかという、筆者の感じでございます。冒頭の夢のシーンが、今回特に書きたかったこと。最初に見た「夢」ですね。
暴れ風、という昔書いた話の少し後の時期になるのかなと思います。あ、当時書いた「暴れ風」は、五つ連作のようになっていますが、そのすべてが時差に繋がるようにはならないかなと思いますっ。あせあせっ。
では、またまた待て次回~っ。
2023.04.16

