二
支度をしてくるから、待っていてくれ、と、斎藤は彼に言った。泊まることを承諾した覚えはなかったが、稽古が終わるのを黙って待っていた時点で、頷いたも同然だったろう。
何故だ?と、土方は思う。わけの分からねぇまま流されて、厄介ごとに巻き込まれるのなんざごめんだ。変わり映えのしない日々に厭きながら、平穏無事に薬を売り歩いて、別に望みはねぇそれでいい。そうやって生きていこうと思うのに、どうしてかいつも厄介ごとの方が、彼を捨て置かなかった。
宿賃が己だけ安いのは、宿の女将といい仲だからだろうと疑われた。この顔で宿の向かいの茶屋の娘とも、出来ているんだろうと噂される。薬売りなどと言って、その実何を売っているのだかわかったものではないとまで。
そのうえ、うっかり姓を知られれば、なんで逆賊と同じ名だと謗られるのだ。
「好きでこの名じゃねぇや…」
くさくさして、薄暗い道場の冷たい床の上、黙って座っているのが嫌になった。表へ出れば月が出ていて、そいつが真っ直ぐ自分を見下ろしているように思えた。浮かんでくるのは、今はもうこの世にいない人間の顔と声。
名に恥じぬよう。
と言ったのは父で祖父で。何十年も前に死んだ知らない人間の名を、誇らしいものだと繰り返し言われて彼は育ったのだ。勿論嘘に決まっているが、見目まで似ているなどとも言われた。
ならそいつもこんな顔に生まれちまって、さんざ苦労したろうさ。と、舌打ちをした口で土方は悪態ついた。ふらふらと適当に彼は歩いて、道場の裏へと行った。小さな庭があり、庭木がある。露に濡れて黒々とした枝の、その枝振りでわかった。梅であった。
勝手に庭を横切って、勝手に縁側に腰を下ろし、花の無い梅の枝の向こうに、さっきと同じく月を見た。満月少し手前の、ほんの微か欠いた月。梅の枝越しに月を見れば、不思議とさっきと違って見える。いったい何故だったろう。濁った心が、しずかに、しずかに…。
気付けば後ろに気配があって、その気配はそうっと背中に触れるように、彼を呼んだのである。
「土方さん」
「………あぁ」
返事を、していた。まだ名乗ってもいない。そもそも簡単に口にしてはならない名だ。そして彼は、力の抜けたように微か首を傾けて、見えない梅の花を思い浮べてこう言った。
「…そりゃあ、郷里の英雄の名でな。俺の名じゃねぇんだよ」
縁側に面した障子を開けば、そこは立派な客間だった。部屋へ上がっても梅の木と、まだ空に低い月が見え、小さな池に灯籠まで設えてある。その池の面に、身を乗り出すような紅葉の枝葉が、輪郭を朧にして映っていた。
「郷里。多摩郡石田村ですか」
斎藤が、徳利を差し出しながら問い掛けてきた。さっきまでよりは余程かしこまった物言いだった。膳の上にはわずかばかりの肴が用意されており、盃が土方の手元に。
「おめぇ、それ、お神酒じゃねぇのか」
ついさっきまで、道場の神棚の上にあった徳利だと気付いて、呆れたように土方が言えば、斎藤は微かに目元で笑って見せる。
「よく見ている。あんたになら、剣の神様も怒りません。出さねば寧ろ、何故馳走しないと神罰が下りそうだ」
「なんでだよ、俺は土方トシゾウじゃねぇぜ?」
「……いいんだ」
奇妙な、と土方は思っていた。さっき、名乗りもしない名を呼ばれて答えた時から。いや、橋の袂で顔を見られた時からだ。言ってはならぬと言われてきたこと、ずっと禍にしかならなかったこと、これまで秘めてきたことを、この青年の前に全部溢してしまいたくなっていた。
「石田村。俺の郷里をなんで知ってんだい?」
「石田散薬を生業っているなら、この辺のものにはわかります。そう離れていない」
「あのなぁ、こいつは石田散薬じゃねぇよ。ケイヒ、センキュウ、センヤクやら、諸々を煎じた治打撲てぇ薬だ」
「え」
ほかり、と目を見開いた顔が、急に少し幼く見えた。土方は、く、と盃を干し、目元を和らげて問い掛けた。
「石田散薬としか思ってなかったってかい。なんだかな。おめぇ、年は」
「二十」
「見えねぇなぁ、もうちょいいって見える。俺ぁは三十だ」
「あんたこそ、見えない」
「若く見られたって別にいいこたねぇよ、舐められる。この顔だしな」
言って土方は盃を差し出す。注がれ、飲み干し、肴もつついた。特に漬け物が彼の口に合った。よく漬かった沢庵。斎藤は眩んだような顔をして彼の斜め前に居て、乞われるままに何度も酒を注いだ。やがて、ほんのかすかに朱を帯びた顔で、土方は言うのだ。
「ほんとに薬、買ってくれんのか?」
「嘘は言わない」
「治打撲は石田散薬より値が張るぜ? あんまし売れてねぇから、此処にたんと詰まってる」
身脇の葛籠を叩いてそう言われて、不安げな顔になる斎藤に、また土方は笑う顔を見せた。
「半分でいいさ。三分の一でも。それだって半月みっちり売り歩いた以上になる。願ってもねぇ。石田散薬のが欲しいかい? なんならそっちを持ってこようか。三日がとこ待ってくれりゃあ」
土方がそう言うと、斎藤はお神酒の徳利を、自分の膳の隅に一度置いた。両の膝の上に、両の手をこぶしに握って、じっと土方のことを見る。また年相応に見えた。
「もし…これから先も、この道場と付き合いを続けてくれる、という意味なら、願ってもないです」
そう言ってしまってから、斎藤はおろおろと言い訳を付け足した。
「不慣れな者も多いので、打ち身やらの怪我もいつものことで。いや、俺の指導も良くないのだろうが。だから、薬は絶やさずおきたいと」
「おめえも飲めよ」
聞いているのだか聞いていないのだか、土方は投げるようにそう言った。手を伸べて斎藤の手元の徳利を取ると、乾いたままの盃の上にかざして催促する。差し出された盃に、溢れる寸前まで注ぎながら、彼はすっと深い目になって斎藤を見たのだ。
「…で? なんでそんなに俺ぁのことを知ってる? 郷里のこと、薬のこと、酒が強くねぇことまで。おめぇいったい何なんだ?」
「……」
斎藤の持つ盃から、ものの見事に酒が零れた。紺青の袴が濡れて、そこだけ更に濃い色になる。零しながら一息に飲み干し、彼は視線を泳がせた。
「説明は、します。でも、すぐは無理だ。簡単に言えることでもない。俺にも本当のところは、まだ分らない」
「あ?」
「土方さん」
真摯な目をして、彼は土方を見た。女々しくなどは少しも無いが、眼差しで縋るかのようだ。
「時間が欲しい。どう話すか考える時間が。俺が薬を買い取れば、暫し売り歩いた以上になると、あんたはさっき言っていた。なら此処に居て欲しい。居られるだけ、此処に」
「此処に居て何してろって? 飽きちまうよ」
またこいつは妙なことを、と土方がぞんざいに言葉を返せば、斎藤は強く彼を見詰めて言ったのだ。
「良ければ、剣術を」
「……」
その時、何処かから、強い風が吹いた気がした。葛籠を負って歩き、行く先々で薬を売る以外、さして使うことも無い体の何処かを、その風が吹き抜けていったのだ。何も言わない土方を、斎藤の真っ直ぐな目が見つめ続けている。
「まったくしたことが無い、というわけじゃないのは、見ればわかります。歩き方とか、視線とか。…嫌ですか」
「…い…」
嫌じゃねぇ。と、土方は言わなかった。言わずに酒をもう少し飲み、漬物を齧った。斉藤は途中ではたと気付き、用意してあったらしい握り飯と味噌汁を出してきて、食べた後には茶まで入れてくれた。問われたことに返事をせぬまま、夕餉は終わり、隣室に敷かれていた布団に土方は横になっている。
風呂は、などと言われたが、初めて上がった家で其処まで無防備にはなれなかった。薄汚れたなりのままで布団に横になることを、多少悪いと思いつつ、眠れる気もせずずっと天井を睨み据えている。
あいつ、なんなんだ。
いったい、誰だ?
どうして俺を知っている?
なんでそんなに俺に拘る?
斎藤ひと、という名前なのは聞いた。嫌でも思い浮かぶのは、新選組隊士の名前だ。三番隊隊長、斎藤一。一昔前、会津まで歳三と共に戦った男。そういうふうに聞いている。それを聞かせてくれた父の声を思い出す。祖父の言葉も覚えている。
『俺もついて行きたかったんだ、断られちまったがなあ』
父も祖父も、多摩郡の薬屋だ。石田散薬を絶やすことの無いよう懸命だった。その前の代までは雇われ百姓だったと聞く。名前も、土方ではなかった。何故そこまでしたのかも、聞いていた。耳にタコが出来るほど。
「…爺さんが歳三について行ってたら、俺は生まれちゃいねぇなぁ」
ぼんやりと、そんなことを思ったあたりで、天井が遠くなったように思え、意識がぼやけた。
布団を敷いた部屋に客人を案内した後、斎藤は二人分の膳を順に下げていた。台所へ運んだあと、空になったお神酒徳利に酒を満たし、土方の使った盃と共に、それを道場へと持って行く。
奥の高い場所にある神棚に、踏み台を使ってそれを置き、それから床に膝を付いて、見上げた。
「一さん」
と、彼は言うのだ。記憶の中で、静かに自分を振り向いている老いた男を思い出す。背筋のぴんと伸びた、寡黙な佇まい。己の祖父ではないからじいさんとは呼んでいなかった。そう呼べと言われて、ずっと一さん、と。随分と遠縁だが、可愛がってもらっていた。
「夢ですかね、これは」
神棚を見上げる彼の目が、不安そうにゆらりと揺れるのだ。
「だとしたら信じられないような、嬉しい夢だ。もしも全部消えたら、きっと立ち直れない。………居たんだ、この世に、本当に」
あの人が。
あの人が。
あの人が。
一さんの口から呆れるほど聞いた、あの人。居る筈のない人。もう、死んだはずの人が。
「その盃、あの人が使った」
そこまでやっと言って、斎藤は項垂れた。
だから、一さん、それは、あなたに。
続

