十
九
道場へ行ってぴったりと戸を閉じて、暗がりの中、斎藤は竹刀を振った。酷く荒れた剣筋だった。力が入り過ぎていて、剣先が震えて乱れる。こんなことでは鍛錬にならないと、よく分かっていても正すことが出来ない。ただ、力任せに竹刀を振り下ろし、斎藤は目に見えない何かを、滅多やたらに打ち据えていた。
消せない欲望。いつ叶うとも知れない願い。それらが、今にも暴走しそうで恐ろしいのだ。
そして、待っていさえすればいつかは、と、自分勝手にそう思っていた感情を、自身の中の別の誰かが鼻で笑っている。あの人にとって自分は、ただ押しつけがましく剣を教える相手。対等な友人ですらなく、よくてもずっと年下の、弟みたいなものじゃないか。
夕餉の間、理性の全部を搔き集めて、ぎりぎりいつもの自分で居られたけれど、笑い掛けられるのさえ辛かった。可愛いだなんて言われて、女に興味がないことを心配などされて、本当は、叫び出したいような気持だったのだ。
「…土方さん、俺が欲しいのは、あんただ」
唯一、あんただけが欲しいんだ。
あんたの、心も、からだも、全部。
露わだった項に欲情した。後れ毛の幾筋かが、はらはらと零れかかる、あの白い首筋に歯を立てたかった。おんなの話をする唇を、自分の唇で塞いで、夜具の上で甘い息を吐かせ喘がせたかった。夢で何度もそうしたように。
「…っ…!」
ばぁんっ、と鋭い音が道場に響く。激しく振り下ろした両手が汗で滑って、竹刀を床に打ち付けてしまったのだ。竹刀は折れ、跳ね飛んだ欠片で、斎藤の頬には傷がついた。
今の音を聞いて、土方が心配して見に来てしまうのではないかと狼狽したが、その気配はなく。頬の傷から流れる血を、斎藤はぐい、と手の甲で拭った。痛みのせいで、ほんの少し冷静になった。冷たい道場の床に、仰向けに横になり、彼は目を閉じる。
「ハジメさん…」
斎藤は、もうこの世にいない師匠に話しかけた。
「ハジメさんは、願いが叶うまでの間、どんなふうに、気持ちを殺してたんですか? 苦しくなかったですか…?」
閉じた瞼の裏で、老いた姿のハジメが笑う。憐れむような笑みだったが、不思議と嫌ではなかった。
そう言えば、ハジメとトシゾウは、同じ部屋で寝起きをしたりなんかしていなかった。一緒に居られる時間だって、殆どなかったことを知っている。ハジメの口からも聞いたし、夢でだってその通りだったのだ。
『贅沢ものが』
まだよく覚えている、静かなハジメの声が、そんなふうに言った気がして、斎藤は微かに苦笑した。あぁ、そうかもしれない。こんなに一緒に居られて、怪我した時なんて、あんなに心配してもらって、これからだって、剣術が一緒に出来て。
でも。
自分はこれからも、あの人に劣情を抱き続けてしまう。贅沢なのだと自覚しても、欲望は消せない。きっと酷く、苦しいだろう。
ついさっき、土方に話したことを、斎藤は改めて思い出した。あれは、十五になったばかりの頃だったと思う。あの日、斎藤は初めて夢精したのだ。
朝、目が覚めた時、下着がぬるついていた。それまで排泄に使うだけだった性器が、どくどくと熱く脈打っていて、何故自分がそんなふうになっているのか、彼には分からなかった。汚した下着を洗っているところをハジメに見られ、その日の夕に、女郎屋に連れて行かれたのだった。
『そろそろお前もそういう年だろうと思ってはいた。今現在好いた女はいなくとも、知っておくべきことだからな。今日は相手がいいようにしてくれる、肩の力を抜いておけばいい』
軽く笑んでそう言われて、初めていく店に行き、初めて入った小部屋で、赤い着物の知らない女と引き合わされ、言われるままに、そこでするべきことをした。そして、その最中に彼は、前の晩に自分が見て忘れていた夢を、酷く生々しく思い出したのだ。
華奢なおんなの体を、誘われるままに抱きながら、脳裏に浮かんで見えていたのは、自分と同じ男の体だった。だけれどその体は、女郎屋のおんなよりもずっと綺麗で、ずっと色っぽくて、彼の心は、その姿に眩んで、溺れた。それが誰なのかも、よく分かっていた。
何処かうわの空のまま部屋を出る前、おんながこう言った。
お客さん、まだ若いけど、好いた人がいるんでしょう?
頷いていいか分からなくて、押し黙ったまま戸を閉めた。
『どうだった? ひと』
その帰り、店の近くの車屋まで歩きながら、ハジメがそう聞いた。変に押し黙っているのを、案じているような声だった。
『……ハジメさん、俺…夕べ、夢を見てたんです。そのことを…思い出した。おんな…を、抱いてる間、ずっと、思い出していました』
それを聞いたハジメは、特に驚いた風も無かったが、暫く黙って、ただ、もう行きたくないか? と、彼に聞いた。
『行くのは構わないです。あのおんなの人、夕顔、さんが、言ってた。もう一回だけでも呼んで貰えたら、馴染がついたってことになって、お給金が増えるんだって。だから、俺で、いいなら、行ってもいい』
『そうか』
ずっと小さな頃から数え切れないほど見てきた夢は、師匠のハジメと、その上司だった土方トシゾウのことだと、その時にはもう知っていた。だから、そんな夢を見たことで、ハジメとトシゾウが、そういう関係だったこともその日に知ってしまったことになる。
だけれど、おかしいとは少しも思わなかったのだ。ましてや穢らわしいなんて、思う筈も無い。ハジメとトシゾウの間にあるものが、他の何にも換え難い強いものであることを、よく知っていたからだ。体と体を求めあうこと、肌を重ねることも、きっとそれ故なのだ、と。
ただ。
『ハジメさん』
『…どうした?』
『夢で見て、凄い、なって、思いました。あんな、きれいな人と』
『あぁ。今でも、夢だったかと思う時があるぐらいだ。もしかして、羨ましいか? ひと』
珍しいぐらい、はっきりと笑んだハジメの声が、そう聞いた。
『はい、羨ましい、です』
『だろう?』
ゆめまぼろしのように、あの人は綺麗だったからな。
大切そうに言ったハジメの言葉を、帰り道を頼んだ車屋が耳に挟んで、多分、遊女のことだと思ったのだろう。名を聞きたがって、少しうるさかった。
真っ暗な中で、くす、と斎藤は笑う。トシゾウのことを話す時だけ、随分饒舌になった師匠を思い出したのだ。表情もその時だけ、いつもと違っていたっけ、と。
今現在の悩みが消えたわけではなかったけれど、こうしている今だって、充分幸せなのだと思うことが出来た。身を起こし、折ってしまった竹刀を手探りで拾い、道場の裏に置きに行った時、表の通りを遠ざかっていく土方の姿が見えた。
「土方さん? どこに…」
斎藤が道へ出てみた時、足の速い土方はもう遠くの角を曲がるところだった。なにやら、隠れるような様子に見えたし、大声で呼ぶにはもう時刻が遅い。かといってそのままにしておくことは出来ず、斎藤は彼を追い掛けるように、土方の行った方へと走った。
道の先の四つ辻で、どちらへ行ったか分からなくなったが、それでもほどなく斎藤は土方の背中を見つける。彼は畑の脇の道具小屋の傍に屈んで、その向こうをじっと覗き込んでいるのだった。
少し前のサイゾウである。こんな夜遅く、人目を盗んでこそこそと道をゆく男を見て、彼はその影を追い掛けていた。もしかしなくとも良からぬ輩だ、斎藤と比べたらまだまだだが、自分だって悪人の一人や二人、捕まえてやると思ってのことだった。
そうしたらあいつもきっと、機嫌を直して凄いと言ってくれるんじゃないか、などと思っている自分の気持ちに、つむじ曲がりの土方は気付いていない。
だけれど追い掛けている影は、何軒かの人家を通り過ぎた後、畑の方へ進んでいく。おかしいな、泥棒じゃないのか、と思った時、人影はやっと足を緩め、畑脇の道具小屋の裏の方へと入っていったのだ。土方も足音を立てないように其処へと近付き、小屋の裏を覗き込んだ。
道の方から見えない其処は、月明かりが差していて案外明るく、さっきの男の姿ともうひとり、若い女が見えた。そして二人はひたと見つめ合い、抱き合ったのである。どこからどう見ても、それはただの逢引きだった。
なんだよ、と土方は肩の力を抜くも、今動いたら覗いていると気付かれてしまう。仕方ないので、しばらくそのまま見ていることにした。
「おチヨ…会いたかった…」
「…トモスケさん、あ、あたしも」
あぁ、あぁ、そうかい、会えてよかったな、と半ば投げやりに思っている彼の目の前で、二人はそっと唇を重ね合う。見たところどちらもまだ随分若い。触れることを怖がるような、うぶでもどかしい触れ合いが、その時、土方に何かを思い出させた。
何故今思い出すんだ、と、そう思いながら、耳には声が、唇には触れられた感触が浮かぶ。
ひじかたさん
と、耳の奥に声がする。
おれを、みて
と、声は言った。
思い出し、その声を耳で反芻すると同時に、土方の鼓動は速くなった。あの時、震える体を、斎藤が抱いてくれた。自分を包む、あたたかで優しい腕に安堵して、静かに重ねられた唇を、心地いいと、確かに思ったのだ。喜びさえ、感じていた気がする。まるで、そうされることを、心底、待っていたように。
「んな…わけ…」
そんなわけが無いと、思うことがどうしてか出来なくて、あの時は考えるのをやめた。それを今、生々しいほどに思い出して。
「ひじかたさん」
その時、首筋の辺りで、唐突に囁かれたおのれの名。ひっ、と声に出しかけた。その口を手のひらで塞がれた。そうしてそのまま、強引に引っ張られ、道具小屋の裏から道の方へと、彼の体は引きずられた。
「何してるんですか、こんなところで」
ひそめた声で行ってくるのは斎藤だった。
「な、んでも…っ、ねぇよ。た、ただ俺は、あやしい男を見掛けて、それで…っ」
「あやしい男って、今見てたの、もしかしなくてもトモスケさんとおチヨさんの逢引きでしょう?」
「え…っ?」
掴んだ土方の手を、ぐいぐいと引っ張ってその場を離れながら、決まり切ったように斎藤が言うので、流石にそんな声が出た。
「狭い町なので、二人のことはみんな知ってるんです。隣町のトモスケさんと、ここいらの名主の娘のおチヨさん。相愛なのに、おチヨさんは立場上、なるべくこの町の人と一緒にならないといけなくて、おおっぴらに会えない。気の毒なんですよね」
「…も、もうわかったから、手ぇ離せってッ」
乱暴に振り解いて、土方は後ろを向いた。もう家の前まで来ていたので、これ以上引っ張る必要もなかったが、振り解かれた手を、斎藤はもう一度彼へと伸ばした。
「土方さん、手が冷たいですよ。いつから外に居たのか知りませんけど、風邪を」
「今現在の風邪っぴきに、わざわざ言われる筋合いはねぇよッ」
まだ掴んでもいない手を、また振り払われた。
「そうですけど…。心配なので、今夜はあんたが使って下さい。行火」
そう言って本当に斎藤は、彼の為に、行火に赤く熾った炭を入れた。あたたかなそれを土方に押し付け、いつも通りに二人分の布団を敷き、おやすみなさいと言って横になった。
土方は自分も布団にもぐり込んで、自分の方へと向けられた斎藤の後ろ頭を眺めている。少しだけ髪の伸びたその頭に、さっきは平気で触れられたのに、今はきっとあんなふうには出来ない。
「土方さん」
ぽつり、斎藤が言った。土方は微かに体を震わせて、
「なんだよ」
と、返事をした。
「…あんたにとって、俺は今、どんな存在ですか。知り合ったばかりの知人ですか、一緒に剣術をやる友ですか、それとも、年の離れた弟みたいなものですか?」
土方は長いこと黙っていて、結局、その問いに答えを返せなかった。
「わかんねえ」
「そうですか。そのうち分かったらでいいので、教えてください。知りたいです」
「…わかったらな」
「ええ、それでいいです、おやすみなさい」
続
書いた書いた。わりとガッとストーリーが進んだ19話を。え? そうでもない? あー、そうかもしれないですね。それでも、重要な過去のところは結構書いたので、満足しています。あとハジメさんが暫くぶりに書けたので満足してい…。もうちょっと外見を書けばよかったかもしんない。雰囲気で感じて貰えたら嬉しいです。
てーか、ほんとうに外見書いてないや。死ぬ一年前程前なので、多分、今のひと君ほどでなくとも、短い髪してると思います。
ではまたー。20話でーっ。
2023.04.02

