「おめぇよっか、俺のが強いに決まってら!」
「なんだぁ? こっちだって負けてねぇぞっ」

 とある昼下がりのことである。道場の生徒が喧嘩を始めた。元々張り合うことが多い二人で、こうなるとちょっとやそっとじゃ収まらないのが常だった。溜息を付きながら、斎藤が彼らを止めようと近付いた時、後ろから土方がこう言った。

「なら、手合わせしてみりゃいいじゃねぇか。その手にあるのは何のための道具だい?」

 そのまま取っ組み合いを始めそうだったクマ吉と伍平は、揃って自分の竹刀を見下ろし、顔を突き合わせてにやりと笑う。

「おうっ、やるかっ!」
「望むところだっ、伸してやらぁっ」

 うまくいなして、そのまま二人を帰らせようとしていた斎藤は、少し恨めしそうに土方を見た。

「土方さん」
「んな顔すんなよ。決まりごと無しで掴み合いされるよっか、防具をしっかりつけて向き合わせた方が、危なくなくていいだろ? それでも怪我しちまったら、俺がきっちり手当てしてやっからよ」

 などと言っておきながら、土方は首筋の汗を手拭いで拭きつつ、道場の外へ出て行こうとしているのだ。

「ほんとに怪我があったら呼んでくれ」
「どこに行くんですか?」
「薬の準備。縁側んとこにいるよ」

 もう鍛錬の時刻は済んでいたが、他の生徒は全員見物していくらしい。師範の斎藤も勿論その場を離れるわけに行かず、二人がちゃんと防具を付けるのを見届け、試合の合図を出してやる。三本勝負だ。二本取った方を勝ちとする。

 威勢のいい掛け声と、竹刀のぶつかり合う音が、二合、三合と続いて、すぐには決着がつかない。どちらもそれほど熱心な生徒ではないのだが、勝ち負けが絡むと突然本気になるのが似ている二人だ。

「おらぁッ」
「くそっ、次は負けねぇっ」

 一本ずつ交互にとって、最後は伍平がクマ吉の竹刀を見事に跳ね飛ばした。飛んだ竹刀は見ていたソウ助の方へ飛んでいき、斎藤が咄嗟にそれを竹刀で叩き落す。

「伍平さん、一本っ」
「ちっくしょうっ」
「どうだっ、見やがったかぁっ」

 おおーっ。と見ていた皆が声を上げる。悔しがるクマ吉も勝った伍平も、防具を脱いで皆と共に外へ出て行こうとするが、それを斎藤が淡々と引き止める。

「二人とも、折角なので今の反省会をやりましょうか。少し残って」
「えぇー?」
「いや、それは次ん時でも」
「強くなりたいなら、忘れないうちがいいです」

 道場から聞こえた雄たけびと、ぞろぞろと出てきた生徒たち。それでも斎藤が中々出てこないので、縁側に居た土方はひとりをつかまえてこう聞いた。

「試合、終わったんだよな? どっちが勝った?」
「伍平でさぁ。面白かったぜ」
「そんで今は何してんだ?」
「反省会だって。先生、真面目だからなぁ」

 土方は軽く吹き出して、開いたままの道場の扉の方を見ながら笑みを作る。

「剣術馬鹿ってんだ、あいつのは」

 帰っていく皆を目だけで見送り、土方は出しておいた石田散薬を仕舞う。そして今度は、薬作りの手道具を目の前に並べた。葛籠から幾つかの抽斗を取り出して、小分けにしてある乾いた薬草を、少量ずつ薬研で押し砕く。

 ややあって、クマ吉と伍平も帰って行った。笑いながら、試合の最中のことなど話していて、ついさっき喧嘩していたとは思えない様子である。そんな二人の姿が遠ざかった後、ようやく斎藤が外へと出てきて、道場の扉を閉めていた。

「うまく収まったみてぇだな」

 作業の手を止めず、細かくなっていく薬を見ながら土方は言ったが、すぐ其処にいる筈の斎藤の返事が聞こえない。妙に思って顔を上げると、片手で手拭いをぶら提げたまま、彼はぼんやりと土方を見ていた。

「こういうの、見たことがねえのかい?」

 薬作りが物珍しいのかと、土方は思ってそう聞いた。ごりごりと地味に繰り返す動作は、特に変わったものではないと思うが、見たことがなければ面白いのかもしれない。

「…え、いえ。そう、ですね」
「どっちだよ。面白いんだったら、もっと近くで見りゃあいい」

 言われて、斎藤は土方の近くへやってきた。隣へ座るでもなく、すぐ傍に突っ立ったままでいる彼を、終いには土方が怪訝そうに見る。

「おめぇ、熱とかあるんじゃねぇだろうな。この間っから風邪っぽいだろ。夜中に歩いて帰ってきたりするからだぜ? 今、風邪薬を作ってっから、あとで飲めよ」
「あぁ、すみません。じゃあ…後で」

 などと、まだ心ここにあらずの返答だ。

「何ぼうっとしてんだ?」
「土方さん」
「んん?」

 やっと手を止めた土方が、彼の方に顔を向けると、斎藤は自分の頭へと手を触れて、もそもそとこんなことを言った。

「髪、結んでるの、初めて見ました、俺」
「髪ぃ? あぁ、長くなったんでな、ちょっと邪魔だったんだ。おかしいかい?」

 そんなことをわざわざ言ったり、変に見ていたりする斎藤の様子の方が面白くて、土方は首を少し傾けて笑う。伸びたとは言え、それほど長くは無いから、それだけの仕草で、ほどけた髪の幾すじかが、ぱらりと彼の首筋にかかり、白い頬を滑った。

 普段は髪に隠れて見えない耳のあたり、土方の整った顎の線や白い項に、斎藤の目が吸い寄せられている。無意識に、ごく、と彼は唾を飲んだ。

「…っ、に、似合っ」

 似合っている、と口籠りながら言おうとした斎藤の顔に、その時、土方の手が触れたのだ。手のひらが斎藤の頬に触れ、指先が彼の髪を、くしゃ、といじった。

「おめぇも、伸びたな」

 間近から真っ直ぐに見られて、斎藤は狼狽えたように視線を逸らす。

「お、俺ですか…? あ、そ、そうですね。父も、背は高かったので」
「ぷ…っ、馬鹿。誰が背の話なんかしてんだよ。それに、おめぇはそれ以上伸びなくていい。隣にいる俺がちびに見えるじゃねえか」

 そう言っている間も、土方の手は斎藤の髪に触れたままだ。髪どころではなくて、額にまで触れて来て、少し強めに彼の髪を掻き回す。

「前から思ってたけど、おめぇ、結構可愛いよな。すぐ狼狽えてよ?」
 
 土方がからかった途端、斎藤の視線が、すっ、と彼の顔に戻ってきた。さっきまでの様子が一変して、彼は真っ直ぐに土方の目を覗き込んでくる。遅れてゆっくりと上がってきた斎藤の手が、土方の手首にかかり、強く握った。

「…かわいくなんかないですよ、俺は」

 低く言いながら、斎藤はよりいっそう強く、土方の手首に指を喰い込ませる。

「なん、だよ。離せって。…怒ったのか?」

 振り解こうとして軽く揺らされた土方の手首から、斎藤はするりと指を外す。眼差しは一瞬で他所へと逸らして、そのまま彼は土方に背中を向けたのだ。まるで豹変したかのような、斎藤の態度が気になったが、土方は何故かそれ以上、声をかけることが出来なかった。

 咎めることも、笑い飛ばすことも出来ない違和感が、手首を掴まれた感触と共に長く残って、彼は意地になったように作業に専念する。日が傾いて、夕暮れが近付いても薬研を使い続け、しまいには辺りが薄暗くなって、手元が見えにくくなった。

 道具を洗うために台所へ行くと、いつもと同じ顔をした斎藤が、自分と土方の夕餉を作っている。

「ずっと薬を作っていたんですか? こんなに暗いのに」
「…あぁ。ちっと薬売りにもせいを出そうと思ってんだ。おめぇに飯代を渡してぇし、それに、たまには女ぐらい買いてぇと思ってよ」
「…おんな?」

 がちゃ、と不意に大きな音がした。斎藤が手にしていた茶碗が、他の茶碗にあたった音だ。うっかり落としそうになったそれを、寸でのところでつかまえて、斎藤はもう一度聞き返す。

「おんなを、買うんですか…?」

 変なことでも言われたような反応だったから、土方は怪訝な顔になる。

「なんでそこ聞き返すんだよ? おめぇだって二十歳も超えてリゃ分かるだろ」
「俺はそういうの、無いです」
「無い? 無いってなんだよ、おめぇ、まさか経験が無いとか?」

 びっくりして今度は土方がそう聞いた。とっくにそういう年齢を超えていて、経験も、もしや興味もないのかと、つい彼は心配になる。そういえば、13で親を亡くしたと言っていた。年頃になる前に男親を亡くし、もしも一緒に悪所通いをするような友人もいなかったら、そういうことになるのかもしれない、と。

「斎藤、おめぇ」
「……ありますよ」

 さらに突っ込んで聞こうとした土方の耳に、ぼそり、と小さな声が届く。

「あります。ハジメさんが、そろそろ知っておくべきだと言って、何度か連れて行ってくれて。だから、経験が無いわけじゃ、ない」
「なんだ、そうか」

 一瞬で案じ、その直後にほっとして、土方はからりと笑った。斎藤の手許にあった菜っ葉を掴み、冷水で洗いながら、そのままさっきの続きを話す。

「女を買うにしても、ここらへんだと何処が近ぇのかな。あと、あんま敷居がたけぇと困るしな。おめぇが前に行ったとこも此処から近いか? 斎藤。なんなら今度一緒にいこうぜ」

 土方が話し掛けている言葉に、斎藤は返事をしなかった。真顔のままで土方の手許の菜っ葉を掴み、ざく、ざくと切っている。沸かした湯の中にそれを投げ入れて、箸でかき混ぜながら、彼は固い口調で言うのだ。

「俺はいいです。それに、あんたとこういう話はしたくない」
「なんでだよ?」
「なんででもですよ、土方さん。沢庵、まだあるので少し切りますね」

 なんだか居心地の悪いままで始まった夕餉だったが、そのあとの斎藤は殆どいつも通りに見えた。話し掛ければ返事をするし、土方が面白いことを言えばくすりと笑ったりもする。クマ吉と伍平の昼間の試合のこともこと細かに教えてくれて、土方が風邪薬を渡すと、礼を言って飲んだ。

 でも夕餉の片付けのあと、ひとは無言で外へと出て行こうとした。呼び止めると、素振りをするのだという。

「なら、俺も」
「今日はひとりでやりたいんです」
「風邪ひいてんだから、ほどほどにしろよ!」
「…えぇ」

 ちら、と振り向いた顔が、酷く静かで、あの夜の彼の顔と重なるように見えた。あの夜。そう、土方が過去の夢を見て斎藤に縋った、あの時の顔と、眼差し。

「なんだよ」

 文句でも言うように呟いた土方の、鼓動が速い。

「つまらねぇな。やっぱ怒ってんじゃねぇのか…?」

 そう言いながら部屋へ行って、布団も敷かずにごろ寝する。寝るにはまだ少し早い時刻だけれど、火の無い場所で横になるには寒すぎて、すぐに彼は身を起こす。

 余計に寒くなるのを分かっていて、土方は縁側へと出て行った。冷たい廊下へ腰を下ろし、空に散りばめられている星を眺める。きんと冷えているから、随分とよく見えて、寒さに身を縮めながら、ずっとその星々を見上げていた。

 体が冷え切って、いよいよ辛くなった頃、門の外を誰かが通った。何やら人目を忍ぶような、こそこそとした様子に思え、土方は、つ、と腰を上げる。何か良からぬ輩ではないのか。そう思ったのだ。馴染の茶屋で悪さを働こうとした男どもを、斎藤がひとりで伸したのを思い出す。

 すぐ目の前の道場では、斎藤が素振りをしているが、あえて声を掛けずに、土方はひとり、妖しい人影を追い掛けるのだった。










 予定になかったシーンをちょっと入れて、そのあとは書きたかったところが書けましたっ。サイゾウさんはひと君の気持ちを分かってませんからね~。とは言え彼も、前までとは少し違う気持ちになっているのではと思うのです。

 はーー、進展が待たれるっ。←自分が書かなきゃ進展しないんだからなっっ。頑張れ私っ。



2023.03.25


  








時差邂逅