十
七
布団に身を起こし、互いに寄り添うような二人の姿を、行燈の淡い光が照らしていた。重なり合う影はひとつに見えて、それを意識した途端、斎藤はどうしていいか分からなくなった。大の大人の土方を、小さな子供を癒すように腕に抱いて…。
「あの、ひ、ひじか……」
「なんで今日帰ってきたんだ。けっこう遠いだろ」
その時、話し掛けようとした斎藤の声を、土方の声が遮ったのだ。土方は彼の胸から、さっと身を離して言葉を続ける。どこか怒ったような響きに思えて、斎藤はぽつぽつを理由を言った。
「用心棒の仕事は終わったし、だったらもう、居る意味がないと思っ」
「怪我した体で無理すんな、って、前にも言っただろうが」
「あ…」
何故土方が怒っているのか、やっと理解して、斎藤は困ったように言葉を連ねた。
「でも、かすり傷だし、こんなのは怪我のうちに…」
「言い訳すんなってんだ。手当もちゃんとしてねぇんだろう。今、膏薬持ってきてやるから、じっとして」
向き直り、斎藤の胸の傷をじろじろと見た土方が、ぱちりとひとつ、瞬きをする。
「…ほんとに大したことねぇな。さっき見た時はもっと」
「だからこれは、菜切り包丁がちょっとかすめただけなので」
「菜切り包丁? おめぇ、誰を相手に用心棒してきたんだよ?」
大したことがないと分かっても、土方は手当てをしてくれるつもりらしい。わざわざ別室から薬箱を持ってきて、行燈の覆いを外して明るくすると、斎藤の胸の傷に膏薬を塗り始める。丁寧に塗って当て布を貼り、晒をきっちりと巻き直す。
こっち体向けろ、腕をどけろ、そこちょっと押さえてろ、などと、ぶっきら棒に言いながら、彼は斎藤の体に抱き着くようにしてくるのだ。その間、ずっと無言で居るのが気詰まりで、問われもしないうちから、斎藤は今夜の経緯を話した。
「二人居た物取りの得物は匕首でした。それに、その時には伸して縛ったあとだったんです。でも、一人は積んであった薪に倒れ込んだし、もう一人は表戸にぶち当たっていったりで、夜中なのに随分騒がしくしてしまって。家の中でそれを聞いてた小間物屋の御夫婦は、俺の方がやられてしまったと思ったみたいなんです。それで…」
もう済みました、と伝えて安心させようと戸を開けた途端、怖くて怖くて目を閉じたままの女将さんが、菜切り包丁を振り回しながら斎藤に向かってきた、と。
「相手は女性ですから、木刀に物言わすわけに行かなくて」
包丁を取り上げようとして、一太刀浴びた、ということなのだった。
「…そりゃ、災難だったな」
「まぁ、そんなこともありますよ。それより、土方さんはどんな夢を見たんですか? 嫌でなければ、話して欲しいです」
「別に、大した夢じゃねぇよ」
問われた途端に、土方は斎藤に背を向けた。薬箱を引き寄せ、乱暴な仕草で手当の道具や膏薬を抽斗に押し込む。だけれどその手が震えているのを、斎藤は見逃さなかった。
「やっぱり、嫌でも話して下さい」
「もういいんだって。…けどよ、土方トシゾウなんて」
ぽつり、と零れた声も、震えているのだ。それを隠すように、ばんっ、と音を立てて箱の蓋を閉じ、振り向いた土方の顔は、どうしてか苛立っているように見えた。
「結局、大した男じゃなかったんだな。多摩に居る頃にゃ、意地とか見栄ばっか張って、ロクに剣の稽古もしねぇしっ。京に出たって、自分で自分の身も守りやがらねぇっ。斎藤に任せっきりだったぜ。そのせいであいつは、三人相手に、き、斬られて…っ」
覆いを外されている行燈の火は、土方の呼気を浴びて、激しく揺らめいていた。橙と薄墨色の陰影が、その揺らぎに従って部屋の壁や襖を照らしている。斎藤は土方の横顔を、強く見つめながらこう言った。
「違うと思います」
「なにが違う?」
「…それ、公用で行った暁屋っていう料亭の帰り、じゃなかったですか? 薄墨で『暁』と大書きされた黒提灯を、共についていた斎藤ハジメと二人でそれぞれ持っていて、屯所へ戻る途中」
言われた途端、土方の脳裏に夢の情景が浮かんできた。ついさっき、夢の中に居た時よりも余程鮮明に思えるほど。確かに、斎藤が投げ捨てた提灯は黒かったし、めらめらと燃えて消えていく『暁』の文字を土方は見たのだ。
「なんで、知って…」
「俺も、夢で見たことがあるから。それに、その時に限らず『あんた』を守って『俺』が大怪我をしたことなんかないんです。背中に『あんた』が居る時は、いつもより何倍も強くなれた」
無意識に、あんた、俺、と言っていたことに、言い終えてから気付いて、斎藤は小声で言い添えた。
「あんたと俺、じゃなくて、土方トシゾウと斎藤ハジメの話、でした。夢の中で、トシゾウはハジメのことを背中側から見ていて、斬られたところは見えていない筈です。ハジメは三人続けて斬ったので、血振りする前の刀から滴る血は流れるほどだったと思うし、斬った相手の血で血だまりが広がっていってたと思うので、」
だから、夢から覚めたあんたは、ハジメを案じるあまり、トシゾウを庇ってハジメが斬られた、血だまりはハジメの流した血だ、と思った。
「…トシゾウがあえて加勢しなかったのは、自分を守っている時のハジメの強さを、芯から分かっていたから。ただそれだけ、だと思います」
怪我は。
ある筈がない。
筈がねぇ、のかい?
……。
俺ぁを守ってる時のおめぇは、鬼ほど強ぇからなぁ。
鬼の副長のお墨付き。
…馬鹿。
遺体のことを番屋に届けさせるよう手回しした後の、小さなやり取りまでを、斎藤は随分前に夢で見て知っている。些細な言葉の間に流れた幸福感。胸の奥に、ほのりと灯った誇らしさ。そしてその後の、褒美と称した二人きりの時間さえ、脳裏に鮮明に浮かんできて。
顔が熱くなって、その顔を見られないように、斎藤は布団に潜り込んだ。かぶった布団の外で、土方が深く息を付くのが聞こえてくる。
「…よかった」
「何が、ですか?」
「い、いろいろだよ…っ」
斎藤ハジメが死んだりしなかったこと。
怪我すらしていなかったこと。
それに、土方トシゾウが、
部下任せの腑抜けじゃなかったこと。
「あ、そうだ」
何か思い出したらしく、斎藤が布団から、ちらと顔を出した。土方ももう横になっていて、同じく布団から出した顔が、彼の方を向いている。
「怪我をさせたお詫びに何かっていうので、小間物屋さんの店先にあったのを貰ってきたんです。行火。随分あったかいものだそうで、炭を入れて使うんだそうですよ。明日の夜、使ってみて下さい、土方さん」
行燈は消されていたが、そろそろ夜明けの明かりがあるからだろう。薄暗がりの中で、互いの目と目が合っている。ふ、と土方が笑った。
「一個っきゃねぇんだろ、お前が使えよ」
「え、じゃあ、交代で」
「うん」
土方は笑んだままで、ゆっくりと目を閉じた。視界が消えても、耳を澄ませれば斎藤の息遣いが聞こえる。また悪い夢を見ても、きっともうそんなに怖くない。斎藤が居るから、大丈夫だ、と。
昨夜遅く、歩き通しで帰ってきたのに、早くに目が覚めてしまった。台所で夕べの残りの汁をあたため、漬物を出すなど、朝餉の支度をしながら、斎藤はぐるぐると考えてしまっている。
いったいぜんたい、
夕べ、俺は何をしたんだ?
あの時あんなことをしなくたって、
もう土方さんは、
落ち着き始めていたっていうのに。
触れた時、まだあの唇は震えていた。重ねたあと、少しして震えが止まって、なのにすぐ離れたくなくて、それから息をひとつするほどの間、重ねたままで居た。吸う、とか、したわけじゃないが、それでもあれは、どうしたって、勝手にしていいものじゃ、なく。
「おぅ、早ぇな、斎藤」
「…ッ」
起き出してきた土方に、台所の入口から声を掛けられて、皿に乗せようとしていた切った沢庵を、べたり、まな板の上に落としてしまった。
「何飛び上がってんだ。おめぇはよ」
横合いから手を出した土方が、ちゃっかり大きめの一枚をつまんで、ぼりぼりと咀嚼する。
「ひっ、ひっ、ひじかっ、ゆ、夕べは…っ」
「やめろ馬鹿。大の男が怖い夢見て寝ぼけた挙句、年下のおめえに縋ったりとか、んな恥ずかしい話、蒸し返してんじゃねぇぞ」
べらべら、と、寧ろ蒸し返しているのは土方の方だった。思わず、ふっと笑み零れる斎藤を、少々赤くなった顔で土方は更にどやしつける。
「おい、人に言いやがったら、ただじゃおかねぇからな!」
「言いませんよ、そんな。土方さん」
ほんの少し尖らせている唇に、視線が吸い寄せられてしまいそうで、斎藤はもう数枚沢庵を切りながら、まな板の方を向いている。
「今朝は味噌汁しかないですけど、沢庵、何枚食べます?」
「そんなら三十枚ぐらいで」
「大根一本分食べる気ですか、駄目ですよ。沢庵貧乏になってしまう」
「おハツが自分の漬けたの持ってくるって、昨日、表であった時言ってたぜ?」
「ちょ…」
生徒の姉をいきなり呼び捨てとか、居ない間に何が、と斎藤は俄かに心配になる。
「おハツさんと、何かありました?!」
「何って、何がだよ。道場の前の落ち葉を掃いてくれてたから、礼を言ったぐれぇだ」
「だ、だったらいきなり呼び捨てとか」
「あー。悪ぃ、つい癖が」
どんな癖なんだろうと思ってしまう。
「土方さんって、多摩時代のトシゾウさんと、似てますよね…?」
「あ? あんな意地っ張りと似てねえよ」
「たらしなところが、って話です。やっぱり色々見てるんですよね、今度話して下さいよ。知りたいです、すごく」
また切られたばかりの沢庵に手を伸ばしながら、土方は言った。
「…じゃあ今度二人とも眠れねえ夜があったらよ。お前ぇの見たのと、俺のと、ひとつずつ」
もしもその時、話したくなければ、眠ったふりをすればいい。振り向いて見た土方の目の奥に、そんな隠れた意味が読み取れた。
「じゃあ、楽しみにしてますから」
斎藤の方は、数え切れないほど見て来た夢の中から、告げても構わない夢を選ぶことが出来る。どうしたってまだまだ話せない夢が、沢山あるから、それを思い出しながら、斎藤は真顔で沢庵を切っていた。やたらと慎重に、向こうが透けて見えるぐらいなるべく薄く、三十枚。
気付いた土方が、理解しがたいものを見た顔で、怪訝そうに眉をしかめた。
続

