土方は斎藤の居ない部屋でひとり、夢を見ていた。
 
 夢の中、彼はトシゾウとして黙々と歩いている。大きな薬箱を背負い、その上には竹刀を縛り付けてあった。百姓にしてはでかい家の門から出て、川の傍の道を延々と行く。里人とすれ違っても表情を変えず、したとしてもあるかなしかの会釈ぐらいだ。

 ただただ、彼は行く。山の道へと分け入り、草に足首をなぶられながら、その向こうの街へ行き、お得意先の道場へ薬を卸して歩く。数軒まわるとまた次の里へ行って、その繰り返しだ。そして、郷里から随分離れた場所まで行くと、初めて訪ねる道場で、薬代の代わりに剣術の指南を求めた。

 そんなふうに人に習っているところを、知人の誰かに見られたら嫌だからだ。竹刀を持ち歩くのも、万が一のための護身用だと言っている。昔馴染の近藤にも、勿論沖田にも話していない。もしも何か問われても、とことんしらを切るつもりだ。

 誰にも知られずに強くなりたい。無様を曝すのは芯から嫌だ。そんなふうに、トシゾウは思っている。でもそれを、甘い考えだとは思っていない。



 深夜、夢から覚めた土方は、布団に居るままで体を丸めて、気怠いため息を吐くのだ。

 夢をよく見る。それはもう、疲れてしまうほどしょっちゅう。夢の中で自分が土方トシゾウでいて、土方トシゾウとして振る舞い、土方トシゾウとして考えている夢だ。目を覚ましたあと、土方はサイゾウに戻って、見ていた夢を思い返す。

 今日の夢には近藤も沖田も居なかった。永倉、原田など、試衛館に出入りする男たちは誰も居なくて、勿論斎藤ハジメも居なかった。それを少し、詰まらないと土方は思ってしまう。
  
 トシゾウは見栄っ張りで意地っ張りだな、と彼は思うのだ。そんなに強くなりたいなら、試衛館で近藤に習えばいいのに、馬鹿だな、と。でもそう思う傍から、自分にそっくりだと思ってしまう。

 夢を見る順番はばらばらなようだった。見栄よりも実をとり、道場で沖田たちと肩を並べて、素振りしている夢も何度か見ている。それは今日の夢よりずっと後のことだろう。かと思えば、薬売りまで投げ出して、河岸で詰まらなそうに草を蹴り、そのままそこにごろ寝して、日が暮れるまで空を見ている退屈な夢も見る。

 彼がそんなふうに無為に過ごしているのを、近藤が叱ったこともあった。トシゾウは拗ねて返事もしなかった。沖田にはしょっちゅうからかわれて、でも、一度はこんなことを言われた。

『私が先に強くなっておきますよ。ちょっとやそっとじゃ追い付けない先輩になりますから、いつでも追い掛けてきて下さい』

 待っているという意味だと土方は思うのに、夢の中のトシゾウは、心の中だけで悔しがっている。遥か遠くまで行商に行って、知らない道場の知らない師範を相手に、いつかは、いつかはと思いながら竹刀を振るのだ。

 いつかだなんて、愚かな考えだ。無駄に時間を過ごしているようにしか思えない。どうせそのうち試衛館で学ぶなら、早くしろよと、夢の自分をもどかしく思って、土方はごろり、ごろりと何度も寝返りを打つ。終いには布団から転がり出てしまった。

「…はは。ひとりでもはみ出ちまったよ」

 もそもそと布団に戻ったころ、夜が明けた。起き出して、顔を洗いながら、飯を食いながらでも彼は夢を反芻する。斎藤が居なくて、家にひとりだから、誰も思考を遮ってくれない。

 なぁ、じいさん。
 トシゾウのどこに憧れた?
 さっぱりわかんねぇ。

 夢の中のトシゾウがぱっとしなくて、何処かでほっとしている自分が居る。名に恥じぬよう、だなんてお笑い草だ。だけれどほっとする以上に、なんだよ、と思ってしまう。

 試衛館には、彼よりずっと年下が沢山いるのだ。沖田と永倉、後から混じった藤堂、それに斎藤ハジメ。随分無口で、殆ど声も聞かない。どころか、トシゾウの方を見もしない。沖田や近藤とは話をしているから、きっと、トシゾウのことが嫌いなのだろう。そりゃそうだろう。あんな姿を見ていりゃあ。

 でも、最初に見た夢で、ハジメはトシゾウのすぐ隣に居たのだ。川風を浴びながら、ずっと傍にいる、と確かに言っていた。

「わかんねぇなぁ、どっちが本当なんだか」

 不安になるのだ。生まれ変わりのことは置いておいても、トシゾウが立派なのはずっと信じていた。なのに、全部嘘になりそうで怖い。じっとしていられず、土方はひとりで道場に行って竹刀を振った。ずっと同じ姿勢で素振りしながら、いつの間にか彼は願っていた。

 もういっぺん、信じさせて欲しい。
 じいさんや多摩の誰もが信じる英雄の姿。
 そういうのを、夢で俺に見せてくれよ。 

 繰り返し振っていた竹刀を、土方はぴたりと止めた。汗が頬からも、髪からも滴って、熱かった体がすうっと冷えていく。熱はけれども、心の中に灯っていた。全部嘘な筈はない。だって、新選組を作った男の一人なんだろう?

 あぁ、そうだ、京での姿が見れりゃあ。
 きっとトシゾウは見違えるようになってんだろう。
 そうしたら、斎藤ハジメも、
 最初のあの夢みたいに、トシゾウを。
  
 見る夢を自分で決めるなど無理だ。それは分かっているが、今夜見られるような気がして、彼は夜が待ち遠しかった。 



 願い通り、その夜、彼は京に居る夢を見た。

 トシゾウはまた歩いている。けれど今度は夜だった。立派な羽織袴の上下を身に着け、手には行燈を持っているが、月が無くて随分と暗い。ただ、道の両側には途切れずずっと家が並んでいるとわかる。
 
 それは確かに、京の街であった。彼の後ろを、誰かが歩いている。ちら、と振り向くトシゾウの目に映ったのは、共についている斎藤ハジメ。

 二人だけだ、他に誰も居ない。そう思えていたのに、突然、その行く手を阻んだものが居る。一人、二人。いや三人だ。みんな抜き身の刀を持っていた。闇の中に、刀身がぎらりと光る。トシゾウは驚きもせず、腰の刀を抜こうとするが、瞬時彼の前を塞ぐように進み出たハジメが、何も言わずに鋭く剣を抜いていた。

 投げ捨てられた提灯が、視界の端でめらめらと燃え上がり、闇に慣れた目に眩しい。抜き打ちで斬られていた男の体が、崩れるように傾いて、どう、と地面に横倒しになる。血が、じわじわと着物の腹に滲み出す。男はもうぴくりとも動かなかった。

 トシゾウは己の柄の上に、するりと手首を滑らせた。もう抜く気さえ失せている。その時には二人目が仰向けに倒れていて、最後の一人がハジメへと斬りかかっていた。きん…っ、と初めて鋭い音。二、三弾ける眩しい火花。

 けれど、そのあと体を揺らめかせたのは敵ではなく、ハジメの方だったのだ。彼の足元に、ぽたり、ぽたりと血が滴り、その量があっというのに増える。生々しい匂いがしていた。

 トシゾウは凍り付いたかのように動かない。ただ、敵と自分との間に立ちはだかる、ハジメの背中を、剣も抜かずに見ていた。燃えていた提灯が燃え尽きて、また少し、闇が濃くなった。

 

「…っ…」

 夢から覚めた土方は、声も出せずに目を見開いた。動悸が体を突き破りそうだ。なのに息がうまく付けなくて苦しい。起き上がって、何かに助けを求めるように視線を彷徨わせて、土方はやっと気付いた。

 すぐ隣の布団に斎藤が居る。だけれど彼の顔を見た土方は、一層恐ろしくなった。薄暗い部屋の中、目を閉じて眠っている斎藤の顔が、死人のように青白く見えていた。

「さ…っ、さ…いと…」

 声もろくに出てこない。体も強張ってちゃんと動かない。それでも彼は必死で斎藤の方へと這って、布団を乱暴に剥ぎ取ったのだ。そして斎藤が着ている寝間の着物の襟を掴むと、激しい仕草で左右に開いた。

「…っあ、ぁ…ッ」

 斎藤の胸には真っ白なさらしが巻かれ、微かにだが、血の匂いがしていたのだ。土方は顔を歪めて取り縋る。巻かれたさらしまで剥ぎ取って、其処に斜めに走った傷があるのを見ると、ガクガクと震える手でそこに触れようとする。

 一方、布団を剥がれた途端に目を覚ました斎藤は、あまりのことにただ半端に身を起こしたまま、抗うことも忘れて土方の顔を見詰めていた。

 聞かずとも、斎藤には分かっていた。土方は夢を見ていたのだ。きっと何か恐ろしい夢を見て、その夢から覚めたばかりだから、彼の中で現実と夢とが混ざってしまっているのだろう。

「土方さん…。大丈夫ですから、落ち着い…」
「お、おめぇ、しっ…、死ん…ッ…」
「…大丈夫です。死なないです」
「さい、とう…っ。おめぇ…っ、俺を、か、かばっ…てっ」

 土方には斎藤の声が聞こえていない。ぶるぶると震えながら、彼は斎藤の胸に付いた傷ばかりを見ているのだ。その傷に触れようとして近付けた手で、触れることにすら怯えていた。困り果て、斎藤は土方の顔を覗き込んだ。土方は涙の浮かんだ目をして、その目を左右に彷徨わせている…。

「…死なないですから」
「で、も…っ。ち、血…が…」

 ひゅ…、と土方の喉が鳴る。土方は斎藤から顔をそむけ、ぎゅっと目を閉じて、ただただ震えてばかりいるのだ。こんなにも混乱して、怯えて、苦しんでいる土方に、何をしてやれるのか。

「土方さん、あんた今ちゃんと息も出来てない。…深く吸って。…さぁ」
「ひ…っ、う…。あ…」
「…俺を、見て」

 そもそも、俺は斎藤ハジメじゃない。ここは夢の中じゃないし、斎藤ハジメは、土方トシゾウの前で死なない。そんなふうに言おうとした時、やっと土方が斎藤の顔を見たのだ。

「さ、い…?」
「斎藤ハジメじゃなくて、ひとです」
「…ひ、と」
「えぇ…」
「ひと」

 ようやっと、土方は悪夢から今へと戻ってきた。まだ、彼の唇がわなないて苦しそうだった。その頬に、涙の一粒が零れていく。その震える唇に吸い寄せられるように、斎藤は静かに、顔を寄せた。

「…まず、ちゃんと息をしましょう、土方さん。そのままじゃ、斎藤ハジメじゃなくて、あんたの方が…死んでしまいそうですよ。ゆっくりでいいです。ゆっくり吸って、吐いて。そうです、そう…」

 斎藤の穏やかな声が、耳に心地よかった。いつの間にか強く胸に抱かれていて、確かに聞こえてくる鼓動にほっとする。夢の中で土方に取り憑いた恐怖が、ひといきに解けて消えていく。斎藤の呼吸と重なるように、土方の息遣いも緩やかになった頃、ぽつりと、斎藤は言った。

「…すみません」
「何、が?」
「いえ、あの。さっき…」

 何のことを言われているのか、ちゃんと分かって。でも、変なことのようにも思えず、土方は短く返す。

「別に、いい」

 十も年下の男の腕の中に、今も抱かれたままでいて、それも、嫌だと思わない。もしかしたら、まだ彼の心の半分は夢の中に居るのかもしれない。土方は薄闇の中に見える、畳の縁を目で撫でながら、そこにうっすら重なるものを見ていた。

 揺れている、浅い緑の柳の葉。ちらちらと葉裏の白。その向こうに見える斎藤ハジメ。夢で最初に見たハジメの顔だ。澄んでいて、それでも土方トシゾウに、強く強く焦がれた目をしていて。

 その目を見つめ返す土方トシゾウの想いが、分かった、気がした。



















時差邂逅