数日は、正直、あまり眠れなかった。土方も眠れない時があるようで、そんな時は極小さく行燈を灯し、淡い光の中でいろんな話をした。斎藤が話すのは剣術のことや、道場に来ている生徒一人一人のこと。土方が話すのは、多摩郡の田舎のことや、薬売りという生業のことなど、他愛のない話。

 話がふと途切れた時、斎藤が言った。

「…少し、冷えますね」
「だな。もう冬だ。こうして二人でいるから、これでもあったけぇんだぜ」
「……そうですね。だけど今にもっと寒くなるから、行火でも用意しましょうか」

 すると土方は斎藤の方へ寝返り打って、ちょっと嬉しそうな声を出した。

「行火なんかあんのか? 使ったことねぇ」
「いえ、買ってこなきゃならないですけど」
「なんだ。わざわざ買うんならいいよ」
 
 土方はまた仰向けになって、うっすら見える天井の木目を、無意味に視線でなぞっている。
 
「あと十年も前だったらなあ。お前ぇはまだ十の子供だろ。俺とひとつ布団でくっついて寝るのもありだっただろうが、流石に二十歳と三十路でってのは出来ねぇよなぁ」
「じっ、十年前だって、出来ないですよ」
「そうか? 掛け布団からはみ出ちまうかなぁ」

 会話が途切れて、やがて土方の静かな寝息が聞こえてきた。斎藤も彼に背中を向け、深く布団をかぶって目を閉じる。閉じた瞼の裏に、竹刀を振る自分を思い浮べて、百でも二百でももっとでも、数えているとそのうち寝られる。

 それからまた暫くが過ぎたある日、斎藤は夜半にぼんやりと目を覚ました。ふと見ると、土方の布団がからっぽになっている。手を伸べ触れると、ひいやりと冷たい。

 どこへ、と思った。前の時のように、また急に石田村へ帰ったのではないかと、不安になった。起き上がり雨戸をあける寸前に、外の気配と音に気付いた。竹刀が空気を切る音だ。斎藤は、出来る限り音を立てないように雨戸にほんの少しの隙間を開ける。

 開けた途端に、その向こうで竹刀を振っている土方と目が合った。でも彼は何も言わず、ふい、と視線を逸らして素振りを続けるのだ。真っ直ぐな目をしていた。斎藤は暫くその姿を見ていたけれど、結局は彼の邪魔をせず、静かに雨戸を閉じた。

 布団に戻って、仰向けの胸の上で指を組んで、斎藤はその指に、ぎゅ、と力を込める。あれから土方は、夢のことを一言も話さない。見ていないからだと斎藤は思っていた。でも、そうではなかったのだと、今分かった。
 
 夢を見て、目を覚まして、そのあと眠れなくなって、心を落ち着かせるために素振りをする。自分もそうしていたから、よくわかる。今日が初めてのようには見えなかったから、きっとあの日から、土方は何度もこんな夜を過ごしていたのだ。

 どうして教えてくれないのか、と、思いはしたけれど、きっとまだ彼は受け止められないでいるのだと、何も言わないことに決めた。自分だって、様々なことを伝えられないでいる。寝返りを打って布団に潜り込み。目を閉じてまた数を数えた。百、二百、もっと。

 こうして数を数えなければ眠れないぐらい、彼が大切なのだから、まだ待てると、そう思う。

 待ちますよ、土方さん。




 とある日の稽古の時、全員で素振りをしたのち、皆を座らせて斎藤が言ったのだ。

「今日は、打ち合いをしてもらおうと思います」

 そして彼は力のなるべく釣り合う者を二人選んだ。呼ばれた二人は緊張した顔で面頬を付けて、道場の中央で向かい合う。

 斎藤の掛け声と共に、ぱんっ、ぱぁん…ッ、という乾いた音が道場に鳴り響く。ど…っ、だだんっ、という音が床で鳴って、その上に気合の声が被さった。他の皆は見物人だ。そこだ、負けるな、などやんやと囃し立て、両方を応援した。

 斎藤は師範らしく、応援の声をかけることはなかったが、時々指導と、褒める言葉をかけた。一組が終わると、次の二人の名が呼ばれる。そうやって次々、小さな試合が行われている途中に、斎藤が土方の方へ顔を向けてこう言った。

「…最後は、俺とあんただ」
「わかった」
「きっと、一人で竹刀を振るより、頭がすっきりしますよ、土方さん」

 何のことを言っているのか、土方には、よく分かった。夜半の素振りを見られたのは一度きりだが、気付かれたのはあの時だけではなかったのだろう。何故素振りをしているかということも、きっと斎藤は分かっているのだ。

 土方以外の生徒の打ち合いが終わって、皆の視線が彼に向いた時、その隣に立ち上がった斎藤の姿に、皆はどよめいた。

「え…っ、サイゾウさんは先生とやんのかい?」
「なんか様になってんな、って思ってたけど、それはちっと」

 相手にならないだろう、と其処に居る全員が思っている。その空気を払うように、土方は堂々と立ち上がり、防具を身に着けた。斎藤も同じく、面頬を付ける。この道場で、師範の斎藤がすべての防具を付ける姿を、生徒の誰も見たことは無かった。

 向かい合い、其処にぴりりと緊張の糸が張る。面の中で斎藤は薄く笑う。土方はそれ以上に、もっとはっきり笑んでいるだろうと、斎藤にだけはわかった。

「加減、しません」
「ったりめぇだ…っ」

 開始の掛け声を誰かが代わりに言う間など無かった。向かい合い、互いに構えて、ほんの一瞬静止した、それだけを合図に始まっている。

 最初に打ち込んだのはやはり土方だった。真っ直ぐ前に打ち込みながら、竹刀を右に払われて、怯むどころか跳ね返るように胴を狙う。 斎藤は二度目の竹刀を受け止めて、そのまま後ろへ深く引き、土方の重心を崩しにかかる。
 
 受け止められた土方の竹刀は、まるで斎藤の竹刀に貼り付いたように引っ張られ、容易に姿勢を保てない。ならばと自分からもっと押して、体を低く、更に鋭く懐へ入り込み、片膝が床に付くまで沈んでから、弾けるように後ろへと飛んだ。

「……」

 はぁ…、と熱い息が、土方の唇から零れる。斎藤の息も、今のほんの一瞬で軽く乱れていた。

「何度でも、言いたくなるな」

 ほんの僅か、笑みを含んで斎藤が言い、あ?と応じた、土方の声に更に言葉を被せてくる。

「あんたって人は」

 やっぱり強い。毎日の稽古で、あれだけ繰り返し決まった「型」をやっているのに、それが何処にも見えない。だからといって、それらがひとつも身についていないわけではなく、もうすべて彼の中に溶けているのだ。そしてその正しい基本の上に、あまりに自由の過ぎる彼だけの技が成立しているのだろう。

「あんたみたいに受け難い相手、そうはない…ッ」

 今度は斎藤の方から攻めに転じた。胴を打つと見せかけて、竹刀は舞い上がるように斜め上へと走っていく。受けようとした土方の竹刀は、あっと言う間に跳ね上げられて、脇に隙が出来た。当然のように、無防備な胴へと再び来る斎藤の竹刀の鍔を、土方はぎりぎりおのれの柄頭で弾いたのだ。

 斎藤が生まれてこの方、見たこともない我流の動きだ。それへとついて行くのは難しいが、同時に面白くて、楽しい。さらに二、三合打ち合ったが、勝負はつかない。いつまでもやっていたい気持ちを殺して、斎藤の方から竹刀を下ろした。

「降参か?」
「違いますけど、稽古を終える時間なんです」
「なんだよ、つまんねぇな」

 がっかりして防具の紐を解き、面を外すと、そこにいた十人もの生徒たちは、全員ぽかんと口を開けて無言だった。

「す…っ」
「あ?」
「ずっげぇなあんたっ、こ、こんなすげぇの初めて見たっ」
「強ぇ強ぇっ、こりゃあ確かに、先生しか相手ができねえや」

 対する土方は、本気で不思議そうな顔をした。

「強いのか、俺が?」
「いやいやいや、強いのなんのっ」
「速すぎて、竹刀が見えねかったぞっ」
「…そうか。でも俺は、もっと強くなりてぇんだ」

 興奮冷めらやらぬまま、生徒たちが帰っていき、土方と斎藤は道場に二人になった。斎藤は防具を解き、神棚の前に膝を付いて一礼する。いつもの稽古の時と同じに、土方もその横に並んで礼をした。

「俺は強いのか?」

 真正面から聞いてきた土方に、斎藤はさらりと流すように返事をする。

「強いですよ、とても」
「そうなのか。自分じゃよく分からねぇ。どう強い?」

 などと、土方は難しいことを聞いてくる。

「物凄く我流、ですけど、我武者羅ではなく、ひとつひとつの動作が理にかなっているし、反射のように判断が速くて、無駄な躊躇いが無い。あと、目がいい、んだと思います」
「……今、なんて言った? 我流? …ためらい?」

 その言葉を聞いた途端、土方は何かを思い出しそうになった。あれはいつのことだったか、誰かに、似たことを言われたことがある。そう、浅川の脇を通る、細っこい野道で。

 思い出そうとして目を閉じる。でも、見えてきたのは郷里の川の光だけだった。日が差して、きらきらと煌めいていた、眩しい光。夢でも見た、郷里の風景。

「…少しは、すっきりしましたか? 土方さん」
「あぁ、まぁな」

 考えていることを、見通すような深い目で見られて、土方は立ち上がり、道場の外に出た。思い出したかった何かは、結局分からなかった。

「夜に素振りする時は、そんな長い時間やってねぇし、体があったまった後は、すとんと寝られるんだ。大丈夫さ」
「なら、いいですけど」

 夢を見ているんでしょう、と、問われるかと土方は思った。どんな夢を見て、どう思ったか、斎藤が気にならない筈はない。なのに彼は何も言わず、ただ静かに、案じてだけいる。

「大丈夫だ」

 斎藤も道場を出てきて、引き戸を片側ずつ引っ張り、ぴたりと閉める。いつもは道場に置いてくる竹刀を、片手で持っているのに気付いて、土方が視線をやると、斎藤はこんなことを言ったのだ。

「実はちょっと、頼まれごとをしたんです。すみませんが、今から出掛けてきます。多分二日ほど留守にしますが、元々稽古は無いし、自由にしてて下さい」
「頼まれごと?」
「見張り、というか用心棒、のようなものかな」

 気ぃつけてな、と何気なく言うと、斎藤は酷く嬉しそうな顔をした。見咎めると、ますます笑みを深くする。

「あんたが待っていてくれると思うと、嬉しいんです。それだけですよ」

 斎藤は腰に木刀、という名目の剣を差し、袋に入れた竹刀を背負って出掛けて行った。出向く先は川を挟んだ隣町にある、小さな小物屋とのことだった。生徒の一人の遠縁であるらしいが、此処からだとかなり距離がある。

 斎藤が出掛けているということは、近所の者も分かっているらしく、土方の食べる分だけ、なにくれと差し入れが届けられた。だからなにも不自由が無いが、斎藤がいる筈の家の中に、斎藤が居ないのが、なんだか変な感じがして、土方は落ち着かなかった。かと言って、留守を守っている以上、ふらふらと出歩くことも出来ない。

 寒くないよう丹前を背にかけ、庭を見渡せる廊下に座って、土方は雲のかかった空を見上げた。夜である。そうしてじっとしていると、脳裏に浮かぶのは、夢のこと。

 あれから、二日に一度は夢を見る。夢の中で、彼はいつも土方トシゾウだった。近藤勇であるらしい、体格のいい男が出てきて、彼をトシと呼んだ。沖田総司も居て、ずっと年長である筈のトシゾウの周りをちょろちょろして、彼のことをからかった。

 井上、永倉、原田もいた、山南も居た。そして勿論、斎藤も。彼はあまりトシゾウの傍には居なかった。まだ「新選組」は始まってはいないらしい。夢の中では彼はトシゾウだから、何の戸惑いもないのだが、夢から覚めると途端にその夢の「濃さ」に眩暈がするのだ。

 ただ、俺じゃない、と思う。そう思わなければ、平気でなんかいられない。あれは俺じゃない。土方トシゾウだ。そう思うのに夢の中ではトシゾウになっていて、夢に出てくる他の誰よりも、彼の思っていることが分かる。

 あんなにも、不器用な男だったんだなぁ。
 怒っていないなら怒ってない顔をしろ。
 嬉しいなら、もっとちゃんと笑え。 
 好きなら好きと、言えばいいのに。
   
 斎藤も…。ひとも、斎藤ハジメを夢で見る時、同じように思っただろうか。夢から覚めたあと、もどかしくてたまらなくなったんだろうか。

「はは」

 土方は笑う。夢のトシゾウにとやかく言えないぐらいに、俺も随分不器用だ。知りたいのなら、聞けばいい。帰ってきたら、聞けるだろうか。

 随分寒い夜だった。土方は背にかぶっている丹前を、胸の前まで引き寄せて掻き合わせる。そのままそれを引きずって、敷いた敷布団の上で丸くなる。斎藤が居ないから、余計に寒いのだろうと、思った。


















時差邂逅