十
四
えいっ、やぁっ、とうっ。
道場の方から元気のいい子供の声がする。それへ指導しているらしい斎藤の声も時々微かに聞こえていた。軽くいなしているらしい、竹刀の乾いた音もしていて、土方はそれらを聞きながら、縁側で朝の光を浴びている。
傍らには、握り飯がふたつ乗った皿。それはたった今道場で指導を受けている少年の姉が、その子と一緒に来て差し入れだと置いて行ったものだった。
「今朝餉が済んだばかりだし、お昼に頂きましょう、土方さん。俺はこの子に稽古をつけて来ますから、本当に少し寝て下さい」
やぁっ、やぁっ、とうっ。
竹刀が下がってる。
気を抜くな。
しっかり握って。
はいっ!
まだ声は聞こえているけれど、その声や音は段々と土方の中から遠ざかった。
さっきの話は、一体なんだったのだろう。嘘みたいな話だった。でも斎藤は終始ふざけてなどいなかったし、笑い飛ばすことなど、土方にはとても出来なかった。彼の言葉は斎藤のことであって、土方自身のことでもあるからだ。
橋の袂で初めて会った時、見たことがあると言われた。名乗ってもいないのに姓を言い当てられた。石田村から来たことも知っていたし、食べ物の好みや風呂が好きなことまで、斎藤は知っていたのだ。
「…なんなんだ、一体」
ぶる、と土方は身を震わせる。気付けば両腕にうっすらと鳥肌。秋風のせいだ、肌寒いだけだと思おうとしても無理だった。斎藤の言葉が、斎藤の声で、耳奥にもう一度聞こえてくる。
知らない筈のこと夢で見て、
会ったことも無い人間と夢で逢う。
別にそんなのはよくあることだ。不思議なことなんかじゃない筈だ。だけれど斎藤が言うのはそうではない。彼の傍には斎藤ハジメがいて、弟子が話す夢の話を、ひとつひとつ、肯定したのだろう。それはただの夢じゃない、と、ハジメは言ったのだろうか。その声が聞こえてくる気がする。
それは全部、俺が過去に体験したことだ。
ひと、お前は過去を、夢で見ている。
「……っ…」
土方は縁側で、あたたかな日差しを浴びながら震え上がった。鳥肌がさっきよりも酷くなっている。背を丸め、両腕で己の体を抱いて、彼はきつく目を閉じた。
じゃあ、本当なのか? 本当にあいつは、斎藤ハジメの生まれ変わり、或いはそれに近いものなのか。そんなことがもしも有り得るなら、まさか、自分も、土方トシゾウの…?
強く閉ざした瞼の裏に、懐かしい顔が見えてきた。祖父の太吉の顔だった。常から土方トシゾウの話ばかりしていたが、酒に酔うと決まってサイゾウの顔に触れ、嬉しそうに言ったのだ。
トシよ、おめぇはほんとうに、
あの人にそっくりだ。
顔も、声も、喋り方も。
あの人は遠くで死んじまったけど、
こうやって帰ってきてくれたんだ。
おめぇは信じちゃいねぇだろうが、
ほんとうだからしょうがない。
座ったままだというのに、くら、と眩暈がした。トシじゃねぇや、と心の中で反発したが、その思いに被さるように、でも、と思う。今までのように、平気で反発できない。有り得ないとずっと思ってきたことが、斎藤の言葉で、覆されてしまったからだった。
眩暈だけではなく全身怠くて、己を抱いた腕が震えていた。徹夜で素振りなんかしていたせいだ、他に理由なんかない。そう決めつけて、土方は荒々しく布団へ潜り込んだ。
いつの間にか斎藤の布団だけが、きちんと畳まれて部屋の隅に寄せてあり、こんな時にそんなふうに出来る彼の冷静さが、腹立たしいような気持ちだった。
頭の中はぐちゃぐちゃになっているのに、横になった途端に、土方は睡魔に攫われていく。今眠ったら、また夢を見るかもしれないと慄いて、慄いた自分にまた腹が立った。
来るなら来てみやがれ。
見せてみやがれ。
何を見せられたって、
俺は俺でしかねぇ
あぁ、でも。
でも…。
寝返りを打って、布団の中で猫のように体を丸め、深い眠りに彼は落ちていくのだった。
その、数時間後のこと、音も立てずに襖があいて、部屋に斎藤が入ってきた。こんもりと盛り上がった掛け布団が、盛大にずれているので、彼はそうっと屈んで両手を伸ばし、そろりそろりとそれを直す。
ぎゅっと握られた土方の手が見えて、彼はほんの少しだけ、布団を捲ってみた。眠っている土方の顔は、少し顰められていたけれど、それでもとても綺麗だった。
土方さん。
と、彼は息だけの音で言う。土方の手か、髪か、肩か、頬か、どこかに触れたいと強く思ったが、思うだけで何もせず、斎藤は布団でしっかりと土方の体をくるんだ。
「よく眠ってましたね」
顔を漱ごうと台所へ行った途端に、土方はそう言われた。斎藤は二つ並べた湯飲みに茶を入れているところだった。
「今呼びに行くところだったんです。もう昼ですから、貰った握り飯をひとつずつ食べましょう。中味、沢庵だそうですよ」
「……あぁ」
「寝てても、腹は減りますよね。疲れる夢なんか見たりすると、特に」
「かも、しんねえな」
土方は夢は見なかった。或いは、見たのに忘れてしまったのかもしれない。目を覚ました時、安堵したのとがっかりしたのと両方で、知りたい気持ちもあるのだと気付いてしまっている。無為に慄いているより、ずっと自分らしいと思うから、朝よりは随分すっきりしていた。
縁側に座って食べた、沢庵入りの握り飯は美味かった。細かく刻まれた沢庵の味が飯に滲みて、もう二つ三つ食べたいぐらいだった。表情でそれと気付いたのか、斎藤が湯飲みを手にこう言った。
「おハツさんの握り飯、美味しいですよね。ソウ助の稽古料が払えない分、よく持ってくるので、沢庵のが美味しいって今度言っておきます。そしたらまた作ってきてくれますよ」
「随分小せぇ生徒だったな、十くらいか?」
「十二です。事故で父親を亡くしていて、母親と姉と妹がいるんですが、家に一人の男子だから、自分が守るんだ、って熱心に通ってきてます。だから、こっちもつい熱が入ってしまって」
そんな話をしながら、斎藤は少し笑った。なんで笑うんだと聞きかけて、問う前に土方は気付いてしまった。多分、自分がずっと斎藤の顔を見ているからだ。つい、と斎藤は立ち上がり、土方へは背中を向ける。
「…似ているでしょう?」
風が吹いて、彼の草履の足元に、庭のもみじの葉が一瞬ひっかかり、そのあとまた吹き飛ばされていく。赤を少しくすませたような乾いた色で、枯れかけて丸まっていたが、まだ十分に美しい色をしていた。土方の見ているその足が、くるり、彼の方を向く。
「あんたの夢の中にいた人と、俺の顔」
土方が答えずにいると、斎藤は自分の足元を見て、もみじの次に足元に寄せてきた、あざやかなイチョウの葉を眺めた。その黄色を足先で軽くもてあそんで、また斎藤が言う。
「俺の見る夢の中で、俺は斎藤ハジメなので、顔は見えないんです。でも、俺の目の前に居る土方トシゾウが、俺をいつも斎藤ハジメとして呼ぶ。だからそのたびに俺は…」
斎藤と土方の目が合った。斎藤の目は随分静かで、土方の目ははっきりと慄いていた。ひときわ強い風が、斎藤の頬に吹き付けた。彼の短い髪は風に乱れたりはしないのに、斎藤は乱れた髪を押さえるように、右耳の辺りに手を彷徨わせ、そして己の仕草の無意味さを笑うのだ。
「嫌ですか。こんな話。聞きたくないですか…?」
「…別に、怖かねぇ」
怖いかと、聞かれたわけじゃなかったのに、土方はそう答えた。知り合ったばかりの斎藤ひとの家の縁側、すぐ目の前には斎心道場があって、確かに其処で話しているのに、何処にいるのか分からないような心地になる。
川の音がして、水と草の匂いがして、風に揺れる柳の葉が見える気がしていた。そしてさっき強い風が吹いた時、その風に結った髪を揺らす斎藤が見えた。同じ風に揺れる自分の着物の袖を、目の前に居る斎藤の手が掴む。
あぁ、と土方は思っていた。さっきは思い出さなかっただけで、俺はまた夢を見ていたのだ。斎藤ひととそっくりな、斎藤ハジメの顔を見て、そこで途切れた夢の続きを見ていた。土方トシゾウとして道場で太吉を打ち負かし、それから川の傍で斎藤ハジメと会っている。それだけの、ほんの短い夢。
たったそれだけの夢で、自分はこんなにも心を乱されているというのに、斎藤はそんな夢を幾つも見続けてきたのだという。子供の頃から、ずっと繰り返し。
「…おめぇはいったい、どんな夢を」
「どんな」
問われて、斎藤は目を細めた。眩しいものを見るように彼は土方を見て、それから軽く身を屈め、足元に幾つも吹きだまっていた落ち葉の幾つかを片手で拾い上げる。まだ美しい赤いもみじ、黄色いイチョウ、乾ききって茶色くなった桜の葉。もう朽ちていて、そうして拾っただけでぼろぼろと崩れたものもあった。
「あんまり沢山見てきたから、どれをどう話したらいいかわかりません。でもきっと」
斎藤の手の中からも、風が落ち葉をさらっていく。たった数枚残った葉は、どれもまだ美しい色をしていた。
「土方さんもまた見ると思いますよ、その夢。もしも待ち切れないって思ったら、その時は言ってください。話します、幾らでも」
斎藤は手の中にあった赤いもみじを、土方の胸へと差し出した。そしてもう一枚のイチョウを指先でくるくると回しながら、奥の部屋へと行ってしまうのだった。
続

