十
三
「なんだ、今の」
土方は、身じろぎもせず目を覚ました。心臓がばくばくと鳴っていて、自分のそれがやけにうるさい。ついさっきまで火照っていた体が冷たくて、身を起こしはだけだ夜着を胸元で掻き合わせた。そして無意識に、視線だけであたりを見回す。此処は中庭からは離れていて、自分以外誰も居ない。
石田村じゃ、ねぇ。
当然だ。
今のは過去で、
しかも夢だ。
でも、今見た顔。
あれは…。
夢など辻褄が合わなくて当然なんだと、頭では分かっているのに、可笑しいほどに動揺している。そこへ竹刀を片手に下げた斎藤が来て、ちらと彼を見ながら台所の方へ行ってしまった。すぐに戻ってきた斎藤は、濡らして絞った手拭いを土方へと差し出すのだ。
「汗が冷えたんじゃないですか? ちゃんと拭かないと」
斎藤は丁寧に木刀の柄を拭き、腕や首、胸元の汗を拭いて、最後に足や足首を拭っていた。手拭いを渡された土方も真似るように体を拭いたが、彼はぼんやりしたままだった。
渡り廊下に座っている土方からは視線を逸らして、自分は少し離れたところに腰を下ろし、斎藤はぽつりぽつりと言う。
「土方さん、手は大丈夫ですか? まだ痺れているようだったら、少しの間使わない方が。今日分の稽古は終えたことにして、なんなら今から少し、寝て下さい。俺も朝稽古を、早めに切り上げようかと思ってます。来るとしても、近くに住んでる人だけなので。それで、あの…」
言葉を途切れさせた斎藤は、濡れた手ぬぐいをうっかり地面に落として焦っている。拾って土をはたき、妙に小さく畳みながら、なにやら言い訳のようなことを呟いている。
「ええと…。夜中からいきなり素振りしたりして、おかしく思ったかもしれませんが、眠れないと俺、時々そんなふうで、昔からのことだから気にしないで欲しいです。ちゃんと寝て下さい、つ、次から」
どうやら斎藤は素振りをしているうちに、土方と同じ部屋で寝る覚悟をしたようだった。それでも言い終えると、土方の手にある手拭いを奪い取り、また台所の方へと行ってしまった。
朝餉は漬物と梅干と味噌汁。飯は昨日より少し多めで、ふたりは黙々とそれを口に運ぶ。姿勢のいい斎藤は、なんでか首だけ妙に下に向けていて、殆ど土方の方を見ない。もう食べ終える、というところまできて、彼は困ったように言った。
「…食べにくいんですが」
最後の一口を二、三度咀嚼し、ごくりと飲む。その口と喉元を、土方が見ていた。
「なんでそんなに見るんですか」
「別に、見てねぇ」
「見てますよね。さっきの渡り廊下の時から、ずっと。急に素振りした理由はさっき説明したし、まだ、何か」
彼が土方の方を見ると、感じていたのよりもずっとはっきり見られている。盗み見る、という概念がないのではと思うぐらい、真っ直ぐで強い眼差しだった。膳の前に座ったまま、斎藤は思わず少し身を引いた。
「な、何か言いたいことがあるんだったら、言って下さい」
ごく、と斎藤が唾を飲む。土方の視線はそんな斎藤の眉や目元、鼻筋や唇を見ているのだ。
「どうぞ、土方さん。聞きますから」
「なら、聞く」
ぎゅ、と膝の上で、斎藤が握りこぶしを作る。
「遠縁だと言ってたが、お前と斎藤一はちょっとは似てるのか?」
問われた斎藤は、無言で少し目を見開いた。膝の上の自分の手を見ていた彼の目が、驚いたように土方を映す。
「……どうしてですか?」
「いや…別に…」
答えるより先に斎藤が問い返すと、土方は彼らしくなく変に口籠る。そんな彼の前から膳を取り上げて脇に除け、ついで自分の膳もその隣にずらしてから、斎藤は体ごとで土方へ向き直った。
今度はさっきまでとは真逆になった。斎藤が土方をじっと見つめ、土方が視線を庭の方へと逸らしている。逸らした視線はけれど、庭にあるもののひとつさえ映しては居なかった。朝の光が眩しく差し、雀の囀りが賑わしい。表の通りを歩くものの足音も、ひとつふたつとしているのに、土方の中にも、斎藤の中にも、そんなものは入って来ない。
次に口を開いたのは、斎藤だった。彼は問いに答える代わりに、同じ問いを土方へと向けた。
「あんたと土方トシゾウは、似てるんでしたよね」
すると土方は、跳ね返すように否定する。
「俺が? まさか。祖父さんが勝手にそう思ってそう言ってただけだ。血の繋がりなんざ微塵もねぇのに、有り得ねぇだろ」
斎藤は彼を見詰めていた。何一つ見逃すまいとする目であった。今、自分と彼との間に、何かが起きかけているとはっきり分かる。知りたいことと、知って欲しいことが、彼の中で騒ぐのだ。いつかと思っていたけれど、もしもそれが今なら、捕まえたい。彼を。土方サイゾウという、自分にとって唯一のヒトを。
「そうですね、似ているわけがない。普通なら」
「ふ、普通もなにも…っ」
「土方さん」
心の中で、斎藤は彼の方へと手を伸べる。その腕を掴んで、跡の付くほどしっかりと捕まえて、引き寄せたいと思った。でもそうする代わりに、息をひとつ吐く間目を閉じて、それからもう一度強く見て、そして言った。
「俺と師匠は、似ている。ハジメさんの若い頃と、まるで生き写しみたいに、似てるんだそうです」
「だ、誰が言ったんだよ、それ」
土方の声は震えていた。その動揺の理由を今、何よりも知りたいと斎藤は思っていた。
「ハジメさんです」
「…って」
至極真面目な斎藤の前で、いきなり土方は吹き出すように笑う。
「それでお前ぇの師匠がお前ぇのこと、自分の生まれ変わりだと言ったってのか? 死んでもねぇのに? おかしいだろ、どう考えたって」
「そうじゃないです」
子供の戯言を聞いて笑うように、土方は言ったが、斎藤は少しも怯まない。怯む要素など一つもないからだ。
彼にとってはそれは事実でしかない。むしろ、そうでなければ説明のつかないことが、彼の生きてきた年月といくつも重なっている。それゆえ今、此処に居ると言い切ることさえ、彼には出来る。
「お茶を入れてきますよ。喉が渇いた。勿論あんたの分も」
手際よく朝餉の膳を片付け、二人分を重ねて斎藤は運んでいく。そしてすぐに茶を入れて戻ってきた。此処へ来てからずっと使っている、大振りな土方の湯飲みと、それより少し小さい斎藤の湯飲み。順にそれを畳の上へ置いて、彼は静かに言った。
「生まれ変わり、というのとは少し違うのかもしれない。でも、土方さん、俺は誰かに言われてそう思ったんじゃない。自分で思ったんです。夢を、見ていたから。ずっと小さい頃から見てました。実際に在ったことだけれどずっと昔の、俺が知らない筈のこと。会ったことのない人とも、夢で」
「さ…い…」
「えぇ、土方さん」
かすれた声で、土方は斎藤の名を呼び掛けて、途中で喉がからからになった。まだ半分しか呼べていないのに、斎藤は彼を真っ直ぐ見据えて、返事をした。
「俺は、夢で、あんたと同じ姿の」
「ま、待ってくれ」
土方はその時、酷くうるさい音を聞いていたのだ。自分の鼓動の音だ。息遣いの音もうるさかった。それへさらに重なって、轟轟と風のような音がする。それはだけれど、風の音ではないのだ。水の流れる音。間近で聞く川の音。それから、多分、大勢の人の声の、重なった音。
ぎゅっと目を閉じると、何か翻るものが目の前に見えた。大きな大きな一文字が染め抜かれた、旗だと思った。
突然、酷く動揺し始めた土方のことを、斎藤は、苦しいような不思議な気持ちで見ていた。土方は斎藤の方を見ずに顔をそむけて、肩でせいせいと息をしている。その浅い息の合間に、彼は告げた。
「…俺も、見た」
それは夢のことだろうと、斎藤は思う。どんな夢ですか、と聞きたい気持ちを、彼は押し殺した。激しい動揺に翻弄される土方を、追い打つようなものだと思ったからだった。
でも嬉しかった。心底、喜びで胸が騒いでいる。これは、サイゾウと自分との切れぬ絆だと、斎藤は思う。
「…こんな顔で良かったら、いくらでも見て下さい。顔だけじゃなくて、姿も、仕草も。ことに竹刀を振っている時なんか、そっくりだと言われたんです」
さっきまでの真摯な様子を、ずっと奥へと大事に秘めて、斎藤は笑んでいる。そんな彼のことを、まだ少し慄くように、土方は見た。
「…お前ぇ、嫌じゃねぇのか? そんな」
「何がですか?」
「だってお前ぇは、斎藤ひとなのに。なんでそんな、笑ってんだ?」
もう居ない人間と重ねられて、嫌ではないのかと、土方は言っているのだろう。似た境遇だと思えばこその言葉だ。それを聞いて、斎藤は少し考える。
「…そうですね。それは、もう。えぇ、複雑過ぎて。一言では言えない気持ちです、土方さん」
やけに嬉しそうにしている斎藤を、困惑と奇妙が混じったような目で土方は見る。斎藤は目の前の茶をぐい、と飲み干し、居ても立っていられないように、そわそわと立ち上がった。
「素振りしてこようかな」
「はぁ? やめろ、この剣術馬鹿」
「ひどいです」
少し緊張を解いた後の、そんな遠慮の無い言いようさえも、斎藤は嬉しかった。
そのあとすぐ、朝稽古に訪れた生徒は一人。一対一で稽古をつけてくれながら、日頃滅多に笑わない師範の斎藤が、時々何かを思い出して笑むものだから、彼は妙にやりにくい思いをしたのだった。
続

