古い葛籠に、商売道具の薬を様々詰め込んで、彼は宿に泊まり賃を支払う。顔馴染だから安いものだが、それを他の客には見られないようにする。一度、なんでお前だけ安いのだと咎められ、あらぬ疑いをかけられたことがあるからだ。

「トシさん、街へ行くんだったら、あたしに流行りの髪飾りを買ってきておくれなぁ。お金は払うからさ。鉄道駅の傍に店があるんだって。ねぇったら」
「トシじゃねぇって」

 向かいの茶屋の娘は飽きもせず色目を使ってくるが、急いでいるんだよ、と軽く笑ってあしらって、土方は其処を遠ざかった。

 それを名乗ることはまず無いが、彼は名を『土方歳三』という。読みはトシゾウではなくてサイゾウで、どういうつもりでこの名を付けたのかと、当人は腑に落ちないと思うばかりだ。名付けた親は流行り病で随分前に亡くなって、父の仕事を継いだのがこの流しの薬売りであった。

「街、か。騒がしいのは苦手だが、久しぶりに行って、情報を仕入れてくるのも悪かぁねぇか」

 山を越えるつもりであったのを、彼は分かれ道で違う方を選んだ。広くて緩い下りの街道へと抜け、じき日暮れというころ土方は宿場町へと入っていく。そこは本当にがやがやと煩い。多過ぎる人々の喧騒、馬車馬のいななく声、鉄道の音。物売りや新聞屋の売り文句は、競うように甲高い。 

 さて何処で情報を仕入れるか、橋の手前で足を止めた途端、後ろから、どんと誰かがぶつかった。相手がどんなヤツか見る前に、不機嫌そうな顔をしたりなど土方はしない。

 表情を変えず振り向いた目に映ったのは、若い男であった。古風な袴穿き、腰には刀のひと振りが。まさか本物の刀ではあるまいが。髪は短く。そしてその男は何故か、はっとしたような顔で土方を見ていた。

 なんだ? 気に障ったのか。
 悪くも無いのに詫びたくないが、
 厄介ごとも面倒だな。

 そう思った土方が、詫びの代わりに会釈しようとした時だった。相手は体ごと振り向いて、いぶかしむように彼の顔を凝視していたのである。通る邪魔をした土方に、腹を立てている風でも無かった。

「…何か?」
「あんた、見たことがある」
「こっちは覚えが無いが?」
「そう、だろうな」

 わけのわからないことを言われるものだと、土方は思った。急ぐから、と低く言って土方は踵を返した。特に行き先も決まっていないのに、俯いてどんどん速足に歩きながら、彼は無意識に、かり、と爪を噛む。

「変なヤツだ」
 
 そう、ただのおかしな奴だ。初対面の自分を捕まえて、見たことがあるだのなんだの。はたと気付くと、もう街を出てしまいそうなところまで来ていた。引き返そうと辺りを見回すと、目の前に古びた道場の看板があった。

 『 斎心道場 』

 中から竹刀の音もして、お誂え向きだと、土方は門の外から中を覗き込む。立派な門構えだが古びている。響く竹刀の音もそう多くはないようだったけれど、駄目で元々と足を踏み入れた。

「もうし、御入用ならよく効く薬を」

 打ち身などに、と続けようとした土方の声を、真後ろから掛けられた声が遮る。

「薬屋だったのか、あんた」
 
 ぎょっとして振り向けば、後ろに居たのはさっきの男。橋のところで、妙なことを言ってきた男である。まさかついてきたのかと驚くが、男は土方を追い抜くようにして、慣れた様子で中へと進んでいく。どうやらこの道場の人間らしい。

「俺は藤田一助。この道場の師範をしてる。あんたの生業ってるのは打ち身とか捻挫なんかに効く薬かい? あんまり高いと無理だが、少しなら買う。話を聞くから中へ」

 土方は正直気が進まなかったが、商売になるのならとその背中を追い掛ける。門を抜け、建物の脇を周っていくと、その奥には道場が、入り口を大きく開けて立っていた。

 ぱんッ、ぱあん…ッ、と小気味のいい音がする。威勢のいい掛け声も。まだまだ不慣れな感じの声も混じっていて、土方はちらとその中を覗き込む。

「まぁ、夜盗やなんかから身を護る程度の護身を教えてる。今はあんまり、堂々と刀を持ち歩ける時勢でもない。俺のこいつも格好だけで、中味は木刀なんだ」

 聞かれもしないのによく喋る。けれど元来、饒舌なように見えないのが不思議だった。男が道場に入っていくので、土方もそれへと続いて、空いている奥の方へ向かい合って座す。師範である男が入っていったことで、手の空いているものが挨拶をする。

「素振りしててくれ」
「へぇっ」
「安さん、また腰が引けてる。タキは竹刀の握りが逆だ」
「うわ、はいっ」

 そうして二、三、声をかけている彼へと、土方は言った。

「いい道場だ」
「ならいいんだが。継ぐ者がいなくて親類がやってたのを引き継いだんだ。俺は口が下手だから、本当は性分じゃない」

 だろうな、と知ったようなことを言い掛けて、そんな自分に土方は首をひねるような気持ちでいる。会ったばかりだ、何も知らない。勿論顔も見たことが無い。なのに知っている気がして、知人にでも似ているのかと記憶の中を探るが、その傍から、誰とも似ている筈が無いと思えている。

「藤田、と言われたか?」
「あぁ、フジタ イチスケ。あんたの名前を聞いても?」
「俺は…」

 言おうとしたその時、何故か喉の奥が痺れたような気がした。言うなと誰かが言ったような。それで彼は、下の名前だけを教えた。ただの薬売り、姓を言い慣れていなくても普通だ。おかしくは思われないだろう、と。

「サイゾウ」
「……字は? どう書く?」
「字」
「漢字。無いのか?」
 
 問いながら、男は土方をじっと見た。向かい合って座していて、互いに手を伸ばせば、指なら触れそうな距離である。土方は手を伸ばして、男と自分の間の床に指先で触れた。人差し指を一本立てて、まず「止」の字を、それから、その下に付く部分も、ゆっくり。

 さっき喉奥が痺れて感じたように、どうしてか今は指先が痺れていた。悪いものでも喰っただろうか、などと、頭の片隅で考えながら、一文字目を書き終え、それから顔を上げて相手を見た。

「サイの字はこいつで、ゾウは数の、三」

 伝えると、土方の見ている前で、男は静かに目を閉じた。そして、音の聞こえるほどはっきりと、長く息を吐いたのだ。多分、少しの間息を止めていたのだろう。

「…トシゾウ、じゃないんだな」
「なんなんだあんた。橋んとこで会った時から、ずっと妙な」
「あぁ、妙だな。俺も混乱してる。でもあんた、見たところ流しの薬屋なんだろう。気を落ち着けてよく考えてからなんてしてたら、それきりになるかと思ったら、言うしかなかった」
「言うって、何」

 問おうとすると、男はあからさまに顔を横へ向けて、視線を逃がして言うのである。

「サイゾウさん、あんたが今持っている薬を全部買い取る。だから一晩、此処へ泊っていってくれ」
「なに言って…っ」

 頓狂が過ぎて聞き返すが、男は立ち上がって、素振りしているものたちに指導し始めた。竹刀の持ち方、足捌きや視線の配り方、相手がどう来たらどう受けるか、試合前の挨拶の仕方などまで、丁寧だ。それでも口下手というのは本当のようで、教え方はあまり分かり易くはなく拙い。

 教えを乞うもの全員が帰ってしまうまで、ざっと一刻ほど過ぎただろうか。空の色が赤を帯び、年かさの最後のひとりが帰る時にこう言ったのだ。

「斎藤先生、また頼んますっ」
「あぁ…」

 片手を上げて見送って、男は道場の隅でずっと見ていた土方の方を向いた。

「…藤田、じゃないのか?」

 土方が聞くと、竹刀を手にしたままの彼が、小さく首を傾げるようにして彼を見て、夕の光に染まりながらこう言った。

「本当の名前は、サイトウ ヒト、と言うんだ」
「………」

 知っている、と、どうしてか土方は思った。土方歳三と書く自分の名を、なんでこう名付けたのかと訝る理由と重なって、サイトウ ヒトの名前が脳裏で勝手に漢字に改まる。ヒトは数字の、一。

 斎藤一とするなら、読みは違えど、それは新選組隊士の名だ。土方歳三が副長を勤めた、新選組。子供の頃、親によく話を聞いていた。耳にタコができるほど。

 ゴ…っ、と鈍い音を立てて、斎藤は竹刀の先端で道場の床を真っ直ぐに突いた。土方の心臓は慄くように跳ねる。視線を外したら、消えてしまうとでも言うように、斎藤はずっと土方の姿を見つめ続けている。

「泊っていってくれ。話がしたいんだ。酒を飲みながらでもいいが、あんたも酒は、そんなに好きじゃぁないのかな」

 座ったまま、立ち上がることも忘れた土方の腕を、斎藤の手が掴んだ。触れられたところが少し痺れる気がしたのは、三度も続く気のせいだろうか。藤田ではなく、斎藤という名前だった男が、かすれた声で言う。

「まず、あんたの姓を教えて欲しい」

 頼む、と言葉が続かなくとも、それは懇願であった。













時差邂逅