幾 鳴 幾 夜 五
「ここへ来い、島田。俺の言った意味が判るだろう? 判りたくもないだろうが、俺ぁは元々、今までだって他の」
「知ってます。知ってますとも…っ」
言われて土方はゆっくりと顔を上げた。項垂れて萎れかけた花のようだった顔に、驚いたような表情を浮かべ、彼は長いこと黙ったあとに言ったのだ。
「…噂でも聞いたか? 異人の誰かとでも、懇ろだとか、そういう」
「違う。違います。そんな根も葉もない噂なんか、もし聞いても俺は信じない。あなたはそんな人じゃない。ただ…俺は、見たんです。京であなたと、さ、三番隊隊長が、茶屋で」
「……あぁ…花一の茶屋…か。あんときゃぁ、な…」
ふ、と遠い目になる。唇が「さい…とう…」と、呟いているように思えた。そうしてずり落ちかけた着物を、土方はゆっくりと両肩まで引き上げる。
「見られていたとは、知らなかった…。お前以外のものも、知ってたんだろうか。必死んなって、隠し通してたつもりだったのに、俺ぁも、あいつも」
「いえ。いいえ…。俺も、偶然…見ただけですから」
あいつ、と言った声の、なんて寂しげだろう。この人の求めているのは、俺なんかじゃないのだ。茶屋で見たと、言った途端、店の名までするりと出るのは、すべての思い出がまだ、彼の中で鮮明だからだ。
「……きっと…」
島田は自分で判りもせぬまま、ぽつりとこう呟いていた。
「虚しいばかりですよ。…俺なんかと、もし」
だって貴方の求めているのは、今もただ一人の相手だけだ。
「だから、今夜はもうお暇します。よく眠ってください。部屋へ戻ってから、貴方がいい夢を見られるように、この島田、朝まででも祈っていますよ。…御酒を、ありがとうございました。とても、美味しかった。今度また、お誘いいただけるなら、誰か別のものとともに、昼の明るいうちの珈琲にしてもらえたら、嬉しいです。…おやすみなさい、副長」
後退り、背中を向けて、島田は部屋を出た。ぱたり、と閉じた扉の向こうは、しんと静まり返っていて、呼び止める声は聞こえなかった。指が手のひらに食い込むほどこぶしを握って、唇を強く噛んで、島田は顔を歪めていた。
やっぱり自分には、何も出来ないのだと思い知り、そのことが死にたくなるほど悔しかった。では何のためにここにいるのかと、彼は思うのだ。大儀など、もうどうでも、土方さんに付き従うことだけが、自分の目的だったし願いだったのに、それでは、この命に何ひとつ意味は無い。
たった今からすぐに海を渡り、土方さんとあの人が、離れ離れになったあの地へ行って、意味など告げずとも、ここへ「斉藤一」を連れて来たいと思う。ただそれだけしか、土方さんを救う術などないのだ。
「それも出来ぬ俺など…なんの価値も…」
きし、と廊下の板が軋む。窓の外は雪だった。そのまま外へ出て、吹き付ける雪で真っ白になりながら、土方のいる部屋の窓の前へと近付いていく。今一度、その窓を見る気などなかったから、下を向いたまま歩いた。
その視野に、裸足の、足。
「島田。命令すれば、聞くのか…?」
「ひ…じか…」
そこに立っていたのは、裸に一枚、着物を纏い付けただけの、土方の姿だった。
「…抱けと、命じればいいのか? 島田。でなればお前など切腹だ。役に立たぬゆえ、腹を斬れとでも言えば?」
「……なんて姿で…っ」
「お前を好きだと言えばいいのか? お前だから抱かれたいと、そう嘘を言えばいいのか。あいつの代わりをしろと、はっきり言えばいいのか。…守りてぇと、言ったくせに! あいつと同じ事を言うんなら、あいつと同じに、俺を抱けばいいだろう…ッ。さい、とぉ…」
壁には沢山の窓が並んでいる。どの窓に誰がいるなど、島田が知るはずもなかったが、それでも彼はその大きな体で土方の身を隠した。泣き叫ぶような彼の声が、もう誰かの耳に届いただろうか。誰かの眠りを覚ましただろうか。
裸同然の姿をして、部下に「抱け」と縋る彼を、知られてはならない。強く抱いて、抱き締めて、島田は言った。
「判りました。抱いて差し上げます…。だから、静かにしててください」
抱きかかえるようにして、島田は土方を元の部屋へと運んだ。ベッドまで抱いていって、そこへ下ろそうとするが、背中に回された腕は離れなかった。女子か子供を抱いているような、細い感触に思えるのは、きっと土方が震えていたからだと思う。
「少しでいい、落ち着いて。俺は…斉藤さんじゃないですよ。判るでしょう、副長」
「…お前ぇが、あいつじゃねぇのなんか、判ってる……」
小さく言って、土方はやっと彼の背から腕を離した。ぱたり、とベッドの上に両腕が落ちると、島田の目の前に曝されるのは、何も纏わぬ白いカラダだった。
「お前ぇが、俺をそういう目で見てるのも判ってる。餓鬼の頃からそうだったんだ、そういう意味の野郎の視線には敏感なんでな。でも、嫌だと思わねぇのは珍しいんだ。斉藤と、お前ぇとくらいだぜ。……ほんと、なんだ」
じゃぁ、沖田さんは? と、聞きかけて島田は黙る。なんとなく判る気がした。あの人は最期まで隠し通した。そういうことのできる男だった。
「……言い当てられた通りだ。俺、ずっと貴方を欲しいと思ってました。京の頃からです。だからあの頃、斉藤さんを…殺したいと思ったこともあったんだと言ったら、引いてくれますか」
さすがに驚いた目をして…。だけれど土方は笑って、少し残酷な事を言った。
「…しねぇでよかったな。お前よりあいつのが腕は数段上だろう。それに、もしもそんなことでお前ぇを失ったら、俺は自分を恨んでた。直ぐなお前ぇを、前から、いい男だと思ってたよ」
部下として、同志として、同じ道をゆく者として。けして恋心ではない思いで、それでも好きだと、土方は笑んだ。島田は顔を歪めて懇願する。最後にもう一度縋るような声だった。
「そろそろ、手を、離してくださいませんか…」
背中からは外れたものの、土方の片手はずっと島田の袖を握っていた。
「離さねぇ。離せばお前ぇは逃げるだろ。捨て身で引き止めたんだ、離すはずがねぇ」
「判ってください。…こんな、こんな大きな俺の体で、もしも万が一貴方と、何かあったら、貴方を壊してしまう」
「そんな柔じゃねぇ。…後悔はしねぇよ。…ヤってくれ」
あんなに何もかも曝して哀願したくせに、土方は「勝ち」を確信している。多摩のころから、何にでも勝敗をつけたがった性格が、こんなところで零れている。
「ひとつだけ、条件をつけていいですか…?」
「条件…?」
とうとう屈服した男の言葉に、土方の眼差しが、またふとあどけなくなった。その目が幼女のようで、魔物のようで、島田の背筋がぞくりと戦く。
「ことが済むまで、何でも俺の言うとおりに」
「何でも…」
「そうです。それと、貴方はその手で、俺に触れてはなりません」
「……判ったよ」
土方が返事をすると、島田はやっと手を伸ばす。彼は土方の髪に触った。どれだけ強く、長い間想ってこようと、こうして触れることなど永遠にあり得ないと、島田はずっとそう思っていたのだ。彼は無骨な指で土方の髪をすいて、それから頬に、首筋に触れた。
怯えたような目をしたままで、首筋の後は肩に触れ、胸にまで触れることは出来ずにその片手をベッドの上につく。
「う…」
と、小さく島田は呻いた。首を項垂れて額を土方の右肩に乗せる仕草は、まるで祈りを捧げているようだ。
それなのに、息は幾ら押し殺しても荒く、獣のようだ、と島田は自分で自分をそう思っているのだ。こんなに、人形のように綺麗な人に、雄臭い獣のような自分が触れていいなど、何かのバチが当たりそうだと。
長いこと待ったあとで、恐らくは島田の唇が、土方の鎖骨の上にそっと触れてきた。それを目を閉じて感じながら、土方は救うように言ったのだ。
「なぁ…島田? 口くらい、吸ってくれよ、寂しいだろう、こんなに待つばっかりじゃ」
続
コメント、壊れています注意! いつものことだけど。
…と、思って書いたコメント、ブログに貼りなおしておきましたぁ。
ほんともう、今更なんだけど、やっぱり島田に悪いと思ったのでした。
今更だよ、ほんとにね。
10/07/04
