幾 鳴 幾 夜  三






「その…。その…ふ、副長。お、遅くなりまして、もう…眠ってしまわれた、でしょうか…?」

 たどたどしく聞こえた声に、土方は、さ、と顔を上げ、声を掛けるだけのみならず、立ち上がって自ら扉を開けた。急いでいたせいか、開いた扉の向こうにあった島田の顔と、彼の顔が酷く近い。

「いや。待っていた。さぁ入れ、酒の用意は出来ている」

 招き入れた部屋の中央の円卓で、しかし硝子の器は横倒しになっていたし、卓の上は溶けた氷で水浸しだ。くわえて零れた水が滲みて、土方の服の片袖と、片膝までが濡れている。

「ちょっと、零しちまったんだ。は…可笑しいな、俺は。今朝も珈琲を零して、着物でいたっていうのに」

 土方は苦笑して、そのままの格好で、脇の棚にあった布巾を取り、濡れた卓を拭いていた。彼の服は案外と広範囲に濡れていて、放っておいていいのだろうか、と、島田は困惑し、ついで慌てたように土方の手元へと手を伸ばす。

「お、俺が拭きます…!」
「…構わねぇでいい、俺が粗相したんだ、てめぇでやるさ」
「いえ、そんな」
「いいんだって…っ」

 少々意地になったように、土方は島田の手を振り払い、卓の隅々までを丁寧に拭いている。酒であるらしい蓋付きのビイドロの銚子と、二つ置かれている茶碗を、手際よく順によけながら。

「こないだ…お前に、馬鹿を言ったな」
「…は?」
「女子供のように言われるのが侮辱だとか、変に偉そうなことを言ったろう、俺ぁは」
「はあ…、偉そうな…?」

 奇妙なことを言われたと思った。偉そうなも何も、土方は実際「偉い」のだし、彼の言葉のどこも何も、間違いなどあるとは思わない。土方は丁寧に、幾らか神経質なほど卓の隅々までを拭いてから、窓へと行ってそこを開く。

 途端に、びゅう、とばかりに吹き付けた風に、総髪の黒髪を乱しながら、布を固く絞っていた。絞り終えた布巾を、ぱん、と音立てて伸ばしたあと、窓枠に干すように広げる様が、妙に手馴れている。

「知ってるだろうが、俺なんぞは別に武家の出でも、生まれつきの侍でもありゃしねぇんだ。もし今もこんなとこまで来ていなけりゃあ、身の回りのことやら何やら、小姓になんぞして貰えねぇで、何でも自分でやってるただの農家の倅だよ」
「は…、いえ、その…。その…」

 く、と土方は笑った。あまりに島田が口下手でいて、今は傍らにいないある男と、寡黙という点で似ているかと思っていたが、それが少しも似ていないことに気付いてしまって可笑しかった。

「まぁ、座れ。まぁ、飲め、島田。そう固くなるな。さっきも言ったが、俺ぁなんぞは偉ぶれるわけも何もねぇ、ただの…」

 土方は不意に言葉を止めた。そうして黙ってしまいながら、島田の分の酒を注ぎ、少し水で割って氷を浮かせる。黙って差し出すと、島田は椅子に座りもせず、それを両手のひらで丁寧に受け取った。

 額の高さまで持ち上げて頭を下げてから、ぐい、と一気に飲み干してしまうのだ。あ、と思う間も何も無い。

「こ…っ、これは中々…中々その…」
「そう一気に飲む奴があるか、おめぇは…っ」

 かー、と顔中を赤くして、目を丸くしてまじまじと、氷だけが残った茶碗を見ている島田。大丈夫か、と気遣って、土方は今度はその茶碗へ、水を注ぎ足してやった。

 それをまた両手で捧げ上げ、もう一度同じ仕草で頭を下げてから、今度は恐る恐る飲んで、首を傾げて島田は言う。

「これはまた、飲みやすい酒ですね。ただの水に似ていて」
「ぷ、そりゃそうだ。ただの水だからな」

 土方は笑う。酷く可笑しそうに。島田は呆けたようにその綺麗な顔を見つめて、急に何かを思い出し、顔を歪めたかと思うと、卓の上に音を立てて茶碗を置いたのだ。

「…そろそろ、おいとま、致します」
「来たばかりじゃねぇか、何言ってる」

 弾かれたように顔を上げ、島田に言ったその声が、言葉が、まるで縋るような響きを滲ませた。

「いえ、そろそろ副長もお休みになった方がいいですし。もう随分遅い。その御着物も、濡れたまま着ていては体に毒です」
「…遅ぇのはおめぇが、中々来ねぇからだ…っ。服なんざ、こんなもん」

 激しく言われ、島田は狼狽した。こんな土方を見たことは無い。伸ばされてきた土方の手が、島田の腕に掛かって、その指が震えているのに気付く。白い指だ。勿論、女子のそれのように、細くて折れそうだなどとは言わないが、自分のと比べれば、細すぎるように思う。

「お、俺は」

 言い掛けた言葉を、途中でも止めるべきだと、心のどこかで警鐘が鳴っている。だけれどその音はあっという間に遠くなって、それの代わりに心の臓が激しく鳴っていた。

「俺は、不遜な男です。貴方を、守りたいと思った。今、貴方を守れるものは、俺しかないと思って、か、勝手な気持ちでいつも、あの松の木林で貴方のいるこの窓を見てたんです」
「………」

 土方は何も言わなかった。島田の腕に掛けた手を離して、俺は黒い深い夜のような目で、じっと島田を見上げた。

「…それで…?」
「え…? あ…の、その…」
「それで何処か不遜か? さっきも言ったろう、俺ぁなんざただの農家の倅だと。それでもおめぇが、守りたいってんなら…、守れるもんなら……」

 空に浮いていた土方の手が、自身の額の髪をくしゃりと掻き上げ、顔を隠すように項垂れる。

「おめぇは俺の部下だろう。いや、同志、だろう…?」

 声が震えていた。顔を隠して俯いて、泣いているのだと島田は思った。失敗、したな、と土方は消えそうな声で言う。どうしていいか判らずに、立ち尽くしている島田の耳に、意味の判らない言葉が続く。

「おめぇに、もっと地位を与えときゃよかった。…そうすりゃおめぇは、今みてぇに、腫れ物に触るように俺ぁを扱いやしなかったろ。その酒、もっとくれよ、とか、肴はねぇのか、とか、こっちの寝る時間のことなんざ、気にしやしねぇで、もっと……」

 両腕を伸ばして、土方は島田の両腕を捕まえ、そのままで、ぎゅ、と握った。そんな縋るような仕草のままで、彼は島田の体を後ろへと押すのだ。島田は押されるままに数歩下がり、自分の腕から土方の両手が離れるのを見ていた。

「帰りてぇなら帰れ、部屋へでも…京へでも、どこへでも」

 一瞬、上げられた土方の顔は、やはり涙に濡れていた。強がるようにきつい目をして、彼は背中を向けながら、もともと濡れている服の袖で顔を拭った。

 島田は力を失ったように、よろめいて下がり、背中で扉にぶつかって、強く唇を噛む。心から守りたいと願う相手が、自分の言葉や態度のせいで傷ついて泣いているのだと思うと、百も千もの鞭で打たれたように胸が痛んだ。

「帰りたくはないです。部屋へも、京へも、どこへも。俺は、貴方の居ない場所へなんかいかない…。例え命じられても、同じです」

 ぶる、と体が震えた。自分が何を言ったのか、島田はその時、よく判っていなかった。土方は彼に背中を向けたままで言う。その声を、拗ねた子供のような声だと、島田は思った。

「なら、も少しここに居ろ? いいだろう、島田…」
「…はい」

 なんて人だろう。そう島田は思った。泣いてしまった顔のまま、振り向いて嬉しげな笑みを浮かべたかと思うと、思い出したように項垂れて背中を向ける。土方は窓へと行ってそれを開け、窓枠に積もっている雪を指にすくうと、隠すようにしながら目元へと押し当てた。

「誰にも言うな」

 ぽつり、そう言った言葉がまた子供のようだ。

「言いませんよ。…言えません、こんなことは」
「鬼の土方ともあろうもんが、こんな醜態さらしたなんて、みっともなくて誰にも言えやしねぇか? …だろうな」

 震える声で、そんなことを言う土方の背中を見ながら、島田は何度も深く呼吸して、気持ちを少しでも落ち着かせようとした。とにかく、秘め事の多い人だ、と、彼はぼんやり思う。

 ずっと京の頃から、押し隠して想ってきたからかもしれないが、島田は本当は、土方について、いろんなことを知っていた。土方が、誰にも知られていないと信じているであろうことも。もしかしたら、土方自身知らないかもしれないことも。

…困りますよねぇ、そうは思いませんか。

 真っ青な月のような顔色をして、今は幻とまでも言われた剣技の主が、ある時、こう言っていたのを思い出す。

…土方さんときたら、私に好いた女子の一人もいないのを、今更からかうんです。あんな綺麗な姿かたちをして、あの人にずっと傍近くに居られたりしたら、滅多な女子になんか、目がいきやしない。そう思うでしょ? ねぇ、島田さん。

 思い出したあの青い顔が、水鏡に映る月のように、ゆらり、と揺れて記憶の底に消えていく。

「さっきの酒を、もう一杯、所望して構いませんか」

 島田は言った。しらふでなど居られない、そう思っていた。



 続
 















 あの、できれば、これ以後のコメントは、時間をおいてご覧ください。


 なんと驚くなかれ、沖田が土方さんに片恋だった!? しかも島田にそれを遠まわしに語っていた! つうことは、沖田は島田の想いを知っていたんですねぇ。そしてきっと、土方さんと斉藤さんの関係のことも? 

 侮りがたし! 沖田総司ー。って…そういう話じゃないですよね、すいません。つい。でもまぁ、島田が何を何処まで知っていたか、ってのも気になるところなので、次回あたりはそこらへ探りをいれてみたいと思います。…だから、そういう話じゃないけどね。

 不真面目ですみません。書いている最中は、至極真面目に書いていますので、信じてください、そして怒らないでくださいね! ではでは、またそのうちにー。


10/05/05