其は常の褒美にて  7





『くだんの料亭傍にてお待ち申し上げ候』

 斉藤の隠れ家に着き、卓の上にその文を見て、土方は派手に眉を顰めた。斉藤一の働きで、あの料亭での一件は昨日、すべて終わったのではなかったか。何かまた新たな出来事があったか、何か大きな企みごとでも発覚したかと、彼の身にぴりぴりとした緊張が走る。

 一緒に飲もうと思い、携えてきた酒の壷を放り、彼は急いでそこを出た。顔を下へと傾け、体を少し前のめりにしたような、彼特有の静かな走りで、土方はその場所へとすぐに到達する。
 
 料亭の前は閑散としていた。夕までの間に、組のものが入っての調べごとは終わっており、今はもう誰もいないようだ。

 どこにいる? 斉藤…。

 油断無く視線を走らせていると、目の前の路地の奥に、ふうわりと灯りが灯った。

 ちらちらと揺れている、あれは提灯の光か…?

 その灯りは揺れながら、路地を大通りまで出てきて、土方の目の前でゆっくりと止まった。それを手にした見覚えの無い爺が、満面に嬉しげな笑みを浮かべてこう言ったのだ。

「これはこれは、ご立派なお侍様のお役に立てまして、この爺、嬉しゅうてなりませんわ」

 土方の眉間の皺がますます深くなる。爺はそれに気付いて、少しばかり困惑を見せ、それから怯えたように少し後ろへと下がった。

「あ、あのぅ…せせこましい湯屋ではございますが、どうぞ夜半まででも明けまででも、ゆるりとお使いくださいまし」
「湯屋、だと」
「副長」

 路地の中から呼びかけられて、土方は弾かれたように顔を上げた。斉藤は素早く土方の傍までくると、いきなりその腕を掴んで路地の中へと引き入れる。

「ど、どういうことなんだ、説明しろ、説明っ」
「あ…。いや、夕べの捕り物で、この…湯屋の…」
「はいはい、さようでございます。お助け頂きました、ささやかなお礼、でございましてな、お侍様。湯屋を御所望とうかがいましたので、この湯屋の弥助が、それならばぜひにと、こう」

 さすがは京の商人、というべきであろうか。ついさっき土方の滲ませた気迫にたじろいだことなど、とうに忘れたふうで、爺はするすると説明した。話によれば、用意されたのは、一晩の間、誰の邪魔も入らぬ広い湯屋の借り切りだという。

 それは土方が、たって、と望んでいた場所でもあったから、あまりの急なことに呆けながらも、土方はその「礼」とやらを二つ返事で受けることにした。



「ほんとに…おめぇのするこたぁ、訳が判らねぇ」

 ちゃぷん、と雫の音が響く。少し熱めの湯に、肩まで浸かって目を閉じながら、顔には出さなくても土方は嬉しそうだ。

「で、おめぇは何で入らねぇんだ?」

 不可解そうにそう言われ、ずっと向こうで背中を向けている斉藤の肩が、ぴくりと揺れた。白い白い湯気の向こうに、彼はじっと控えている。

 ひっくり返した桶のひとつに、軽く腰を乗せ、今すぐにでも立ち上がれそうな姿勢のままで、斉藤は脇差を杖にして、柄に両手のひらを乗せて寡黙に口を閉じている。大刀が腰にあるままなのは、ここが室内で、ここでの戦闘には脇差が有利と読んでのことだろう。

 彼の横には、濡れぬよう大桶に入った、新しそうな浴衣。紺の綺麗な色で、よく見れば細かい麻の実の模様が、うっすらと袖やら前身やらに、ところどころ染めてある。

 買い求めたんだろうか、俺のために…?

 土方はまた、ちゃぷん、と音を鳴らして。大きな浴槽の縁に胸を寄せ、そこへ両腕を乗せて斉藤に話しかける。と、言うより命じる。

「いい湯だぞ。入れ、お前も」
「…俺はいい」
「命じてるんだ、入れ」
「いや。ここで万一、ことがあった時、この剣であんたを守れなければ、俺の生きてる甲斐が無い」

 土方は、細く長く息をついて、姿勢のせいかいつもより痩せて見える斉藤の背中を見つめている。

「そんなに命がけかよ」
「……あぁ」

 からん、と桶の鳴る音がした。そうして、ざばぁ、と水の音。それでも振り向かない斉藤が、次の一瞬には鋭く振り向く。同時に抜いた刀で、何かを防ごうとし、次の一瞬では、逆の手にあった鞘を前に突き出した。

 鞘と、固い何かがぶつかった。それは跳ね返り、湯屋の床を転がり、端の方まで転げていく。

「…な…っ」

 さすがの斉藤も、目を見開いていた。彼は頭からずぶ濡れで、髪も着物も、着物の中の体まで、白く湯気を上げる湯に濡れそぼち、すぐには一言の言葉もない。

「そんなに命がけならな、裸んなってでも俺ぁを守って見せろ」

 にや、と笑う顔が目前にあって、それにもまして、白い肌もすぐ目の前にあって、こんなことをされたというのに、斉藤の目は眩んだ。その視野を上から下へと、雫が次々と落ちる。乱れてほつれた額の髪から、珠になって滴る湯の、ひとつ、ふたつ。

「…あんたには…敵わない」
「あぁ? じゃあ、今までは敵う気でいたってのか。ほんとに可愛げがねぇな、おめぇは」
「餓鬼扱いはやめてくれ」
「とぉも年下のくせに、何言いやがる」

 一瞬見せた悔しげな表情を消して、目をそらしながら斉藤は立ち上がり、腰の大刀を抜き取り、脇差とともにそろえて、大桶の上へわたすように置いた。土方へは斜めに体を向けて、観念したように彼は腰の帯を解く。

 が、濡れていて解けにくい。それを乱暴に、ほとんど力だけで強引に結び目を解き、手早く裸になっていく。

 下帯一つになった彼の姿を、目の前に立ったままで見ていた土方は、それそのものを目にした途端、はた、と我に返ったように背中を向けた。

 そういえば、灯りをあちこちに灯した、こんな広くて明るい場所で、互いに裸になるなんぞ、初めてのことだ。斉藤の体の隅々までが自分の目に見える。

「ち…。おめぇだって、見事な体躯、ってぇわけじゃねぇじゃねえか」

 ちら、と見て、酷く忌々しそうに土方が言う。浴槽の縁に掛け、手ぬぐいをそこらへ広げて当てただけの、一糸纏わぬ彼の姿と、斉藤の体のどちらが男らしいか、など、もし問われたら答えるものによって意見は違いそうだ。

 背格好は、少しばかり似ている。どちらも細身で、すら、とした立ち居ぶるまいなのたが、言ってみれば土方の物腰の方が少し、ゆったりとしているように見えるかも知れぬ。斉藤の動作は冴え冴えとしていて、彼の振るう剣もまたそうだった。

「…剣士は、体が大きければいい、というものではないと思うが」
「あぁ、その通りだよ。だからって、華奢だの色白だの言われて、男が嬉しい筈もねぇだろ」

 それに、さっきも言ったとおり、斉藤はまだ二十歳を過ぎたくらいの年で、土方はそれの十も上なのに、体つきは同じくらいってのが、どうにも悔しい気がしてならない。

 ざぶ、と湯へ身を沈めながら、両腕をすっかり出して縁へ寄りかかって、斜めの眼差しで彼は斉藤を見ていた。

 細ぇが、筋肉はしっかりついてやがる。無駄なとこはどこもねぇ。早く動くためにも、それなりの重い剣を振るうためにも、程よい身体ってのは、こういうのを指すんだろう。手首の内側や、膝裏に、動くたびに張ってみえる腱が、力強く見事だった。

「俺はそんなことを、そんなにいつもあんたに…」
「おめぇじゃねぇよ。そう言われてるらしい、ってのが、総司やなんかから聞こえてくんだ」

 片手で頬杖付いて、いかにも不機嫌そうな土方を、斉藤はひそかに残念そうに見ている。もっと、もっと喜んでもらえると思っていた。広い湯屋を借り切るみたいにして、ゆっくりと身体を清めたり、物思いにふけったりしてもらって、それを自分は傍らで、剣を抱えて守ろうと思っていたのだ。

「土方さん。…湯は、その…。どうだろうか、ちょうどい…」

「いかがでございますか、湯の熱さの方は」

 さっき奥へと、引っ込んでいった筈の湯屋の爺だ。

「こう、痺れるくらいに、熱っつうして入るんが流行とは申せ、それはそこ、人それぞれですしな。今夜は明けまで、お二方だけのこの湯屋ですんで、どうでもお気に召すように、調じて温ぅでも、熱ぅでも。なんならこの爺が、お背なでも流しましょか?」

 きん、と、かすかに刀の鯉口を切る音がして、土方は視線を上げた。そのまま彼は慌てたように湯船の中で立ち上がる。

「斉藤っ、お前なに、抜いてっ」
「湯屋、入ってくるな。この方の姿を見たら、この場で…斬るぞ」
「…ひ! はい、はいはい、っ、判りましたっ、判りましたです。ほしたら、御用の際は御遠慮のぅ…っ」

 あっ、と言う間に爺が引っ込んでいった戸口へ行って、そこから向こうを窺うまでしてから、斉藤はやっと剣を鞘へと納めた。

「……あんたが、そんな、きれいだからだ」

 ぽつり、と言った言葉を聞き、素裸のなりで刀を下げている斉藤を見て、土方は微かに頬を染めた。「華奢」も「色白」も「綺麗」も、彼にとっては似たような言葉で、下手をすれば不遜な物言い。武士としての辱めと思えるときもあるのに、不思議な心地がする。

「そんな綺麗か? 俺ぁが」
「……あぁ、きれいだ」
「ふぅん。どこがどんなふうに?」
「……え…っ」

 尋ねられた途端に、斉藤は狼狽した。剣をもう一度桶の上において、湯船の縁に手を掛けたままで凍り付いている。

「その…肌がしろ…。いや、か、髪…とか」

 狼狽する様子が妙におかしい。あぁ、もう、判ったよ、と笑って言って、土方は斉藤の素の腕を掴まえた。強引に引っ張って湯の中に引き入れ、差し向かいで肩まで浸かると、斉藤は明らかに視線を逃がして、何にもない壁の方ばかりにらみ付けているのだった。















 やっと風呂シーン〜っっっっっ。なんかこういう展開って、そもそも無理があるもんだから、どーにもこーにもうまく行かなくて、風呂屋のスケベ爺が乱入しそうに…。アハハハハハ。そりゃ斉藤、怒るよね。そんなんで斬られちゃたまんないけどさ。

 爺のその日の覚書にさぁ。『類稀なる美人…いや美丈夫が、湯に花、咲かせゆくがごとし』とかなんとか書いてるかも知れません。いやぁ、その湯に私も入りたい。

 そして、斉藤のうろたえぶりが、なにげに楽しい惑い星でしたっ。それにしてもこの展開は、前に書いたような気がすることは、気にしない方向で邁進。汗。 




10/05/23