其は常の褒美にて 6
斉藤は実は、今朝からずっと思い悩んでいる。件の料亭から少し離れた道なりの茶屋で、小窓の前に陣取り、欲しくもない茶を啜りながら、答えの出ないことを延々と。
何か、まずかったのだろうか。
まずかったのだとすれば、何が…。
思えば、どれもこれもまずかった気がしてくる。
大したことがないとは言え、つまりは療養に来ていたはずの土方に、あんな無体を働いたし、最後にはろくに口も聞いてくれなくなっていて、土方は…拗ねていたのではないだろうか。
「……」
拗ねて…と思った途端、斉藤は自分の考えが愚かな繰言に過ぎないと思った。自分ごときにあの方が、拗ねるだなんて、ある筈がない。いくら組頭とは言え、自分は彼の部下なのだし、あんなに何でも出来る方が、自分を相手に子供のように拗ねたりなぞはあり得ない。
ずっとあの方に仕えて、あの方の為にだけ尽くすのが己の道だと、もう何度も誓った身ではないか。確かに、部下であるというところから激しく想いはつのって、それ以上に強く慕い、あの身を喰らいたいほどなのだが、その想いはどうやら、許されているようなのだ。
…俺ぁは、おめぇからは、逃げねぇ
……嫌いになんか、ならねぇよ。
確かに、そう言われた。つい夕べのことだ。なのに、それをろくろく聞いてもいずに、俺は…。
あぁ、もっと、もっと、あの方に尽くしたい。命じられた仕事のせいで、毎日姿を見られなくなった…だなんて、餓鬼のように拗ねていたのは自分の方だ。
そんな自分の飢えを満たしてくれるように、あの人の方から出向いてくれたのは、ただの偶然で、別の理由があっただけにしても、それでも斉藤にとっては、あまりに嬉しくて、夢のような一夜だったのに。
そ、そうだ。今夜も来て頂けるのだった。
今日こそは、もっと喜んで貰える様に…。
喜んでもらえるように、どうしたらいいだろう。
手柄…か。
命じられたことを命じられた以上にやり遂げて…
その時、目の前の小窓を、待ちかねた影が横切った。浪士、しかも、斉藤の勘が、これこそがずっと待っていた相手だと震えている。
台の上に、ちゃり…っと小銭を鳴らして置いて、彼は静かに素早く店を出た。いつもなら、喜びも興奮もない、敵と対峙しても心を上擦らせることなく、淡々と刀を振るう斉藤が、今日ばかりは気持ちが高ぶる。
手柄を立てたい、と言うより、とにかく何か、土方を喜ばせることをしたいとそう思って、彼は腰の刀の柄に手をかけた。駆け去った浪士の姿はもう見えない。が、いっそ動物的な勘で嗅ぎ当てて、斉藤はひとつの路地へと身を滑り込ませる。
そこは斉藤がずっと見張っていた料亭の裏手だ。路地へ入った途端、派手な物音が耳にぶつかってきた。
追ってきたのに気付いて、浪士が木樽を斉藤に向かって放り投げ、目晦ましにそれをぶった切ったのだ。細かい木っ端が飛んで、一瞬顔を逸らして木屑を避けた斉藤とその浪士と、狭い場所で斬り合いが始まる。
「……」
名乗りもしない。何か言うでもない。ただ、そこには一瞬にして血の匂いが広がる。血飛沫が飛ぶ。胸を浅く斬られ、焦った浪士の振るった刀が、すぐ横の別の戸口に食い込んで止まった。そうして大刀を失った浪士は、脇差を抜きながらその戸口の中に逃げていく。
追って入ると、真っ白い何かが視野に満ちて、斉藤は一瞬脚を止めた。ひぃぃ、と、震える誰かが声を上げている。見れば白髪の爺を掴まえて、浪士はその首に刀を擦り付けていたのだ。
「くるな…っ、来るなぁぁッ」
気の違ったようになって叫ぶ浪士。
室の中に、もうもうと立ち上るのは、沸いた湯から立ち上る湯気だった。
「…湯屋だな、老人」
「へぇ! へぇ、湯屋でございます…っ、お、お、お助け下さい…ぃッ」
「……承知」
淡々と言い、斉藤はまた一歩脚を進めた。家屋内で逃げ場を失い、人質を盾にとった浪士に対峙し、斬りかかるかと思いきや、何か不意に戦う気をなくしたように刀をおさめてしまう。
「お助け下さい、お侍様っ、どうか、お助けくださいぃッ」
「承知と、言った」
鬼気とは、この事なのだ、と老人がいずれ誰かに言ったかは、知らない。表情の一つもなく、静かだった斉藤の顔に、ほんの一瞬過ぎった鬼、それは彼のではなく、たとえば刀に宿る鬼の顔ででもあったかも知れない。
おさめた刀が、一瞬にして空を薙ぐ。その刀が浪人の体を、横腹から両断、赤い血が滝のように…。
「ひぃぃ…ひぃぃぃぃぃ…」
浪人に圧し掛かられて、老いた湯屋の老人は悲鳴を上げ続けていた。彼の目に映った赤い血飛沫が、長年手塩にかけた湯屋の壁も天井も、たっぷりたまった今夜の分も湯船の湯も、全部汚して台無しになった、かと思ったのだ。
「一つ、頼みだ、湯屋」
斉藤は、切っ先にのみ僅かに付着した血を、懐紙で軽く拭ってから言った。
「一晩、この湯屋を借り切りたい。ある方が広い湯屋の湯を望んでいる」
「…へ、へぇ……でも、血が…」
そう言って改めて見回せば、あたり一面を血に染めたかに思われていたものが、赤い色などほんの僅かしか見えない。目の前の淡々とした侍の顔と着物に、返り血が少しと、倒れて意識をなくしている浪人ものの、浅く斬られた胸に少しだけ。
「み…み…みね…打ち…っ?」
「でなければ、湯が汚れる」
ぱちん、と刀をおさめた斉藤は、珍しいことに少し笑っていた。
* ** ******* ** *
「もうお帰りになられていいですよ。怪我人なんですから」
沖田が笑んでそう言ったとき、土方には珍しく、彼も笑んでそれへ頷いた。夕暮れてから届けられた浪士捕縛の報が、土方をえらく上機嫌にしていると、沖田も判っていて何も言わない。
「すまんが、そうさせて貰う。調べのついたことは、明日の朝にでも報告を聞こう」
そう言って、今夜こそ着替えをちゃんと一式もって、彼が出向くのは当然、斉藤の隠れ家に決まっていた。褒美が必要だな、と無理に顔を引き締めながら、彼の足取りは自然と早くなる。
その褒美とやらを、夕べもあまりに過剰に支払ったばかりなのだが、そんなことは関係がないらしかった。
続
湯屋のシーンを早く書きたかった…。でも今日は時間切れ。寝坊した私が悪かったです。とほほー。それにしても書きたいシーンのためとはいえ、今回、殆ど斉藤しか出てないし、しかも面白くない展開でごめんなさい。斉藤が格好よく刀を振るうシーンが書きたかったのに、それも難しすぎた。
まだまだ勉強が必要なようです。
しかし次回は風呂のシーン! 少し後になるけれど、楽しみに書くと致します。お読み下さった方、ありがとうございましたっ。
10/04/11
