
其は常の褒美にて 5
「…なんだ、も…いいのかよ?」
ぐったりと横になったままで問えば、青い頬をして横を向いた斉藤の顔が見える。
「嫌われたくない」
「……馬鹿。んなこたぁ、こんな暴行はたらく前に言うこった」
「…ひじか…。副長」
「今…ここで、その呼び名を使うのは何でだ」
咎める口調を聞いて、斉藤の顔が更に青くなる。怯えた子供のような、泣きそうな目で、彼は土方を見るのだ。
「き、嫌われたくない」
は、と土方は笑った。どうやら悲鳴を堪えるために、唇を噛んでいて切ったらしい。口の中に血の味がした。今度は斉藤の方が、かすかに首を横に振って、座り込んだまま、土方から逃げるように後ずさる。
今更、ケダモノから人間に戻りやがって、と土方は内心で失笑し、力の抜けた体を励まして身を起こし、まだ片方残っていた足袋を脱いで放り出した。これですっかり丸裸だ。髪も解けて背中に流れ、頬には涙の跡がある。こんな彼の姿を見たものは、この世の何処にもいないかもしれない。
土方は長い長いため息をついて、壁を背にして脚を投げ出した。そういや包帯も解けちまって、どこに行ったのか判らない。紅い筋になった傷跡からは、この手酷い無体のせいで血が滲んでいた。
「血ぃ出ちまった。…これで治りが遅くなりゃ、まだ養生してろとか言われて、俺ぁは連日ここに来るんだぜ。毎日こうじゃ、おめぇの仕事にも障る。箍を外すのも程ほどにしとけ」
怪我を治すためにここに来たのに、どう考えてもこれじゃ毎日悪化させる一方だろう。
「いつまでしょぼくれてやがんだ。…嫌いになんか、ならねぇよ。ヒトじゃいられねぇほど、この俺を好いてる奴を、嫌ったりしてちゃ釣り合いがとれねぇ」
そこまで言われても斉藤はまだ項垂れていた。今日の彼の姿に驚愕したのは、土方よりも寧ろ彼自身だったろうか。土方はまたため息をついて、乱れた髪を手で僅かばかり撫でつけ、なるべく普通の調子で言った。
「斉藤。湯はどうしてんだ」
「……ゆ…」
「湯だよ。風呂は?」
「…向かいの空き家の竈を、夜中に借りて沸かして」
「それで体を拭いてんのか」
乱れた髪や、汗ばんだ体を気にしている土方を、それでも斉藤は気付いたのだろう。無言で彼は部屋の隅にある桶を手にして、殆ど音も立てずに外へ出て行った。
* ** ***** ** *
ちゃぷん、と水の音が部屋に響く。狭い部屋の真ん中で差し向かい。土方は斉藤の前に座り、彼の手が小さな布切れ一枚と湯で、肌を拭ってくれるに任せている。
袖にたすきを掛けて、大きな桶に二つ分、たっぷりの湯を沸かして持ってきた斉藤は、命じられるままに黙々と土方の世話を焼いた。白い肌のあちこちには、真新しい小さな傷が無数にある。血が滲んでいる場所もあって。不思議そうな顔をする彼を睨んで、土方は言ったのだ。
「なんの傷だか判らねぇなんて言ったら、その舌引っこ抜くからな、斉藤。これはさっき散々てめぇが俺を噛んだ跡だろう」
「俺が…?」
「あぁ、そうだ。てめぇがこうして…」
と、土方は布切れを持った斉藤の手首を掴み、その腕の内側に歯を立てた。がり、と噛まれ、かなり痛いと感じても血は出ていない。それならばどんな強さで、乱暴さで、自分は土方の肌を噛んだのか。
脇腹、鎖骨、首、乳首の傍には何箇所も。見れば腿の内側は、吸い付かれて紅く色を変えた場所も多い。今更詫びてなんになろうかと、言葉も出せずにいる斉藤の頭を、ごつ、と小突いて土方は小さく言った。
「嫌じゃあねぇ…。嫌じゃあねぇが、こんな跡になるんじゃ色々とまずい。も少し、…そうだな、次から、も少し優しく、やってくれ」
言ってやると、斉藤は項垂れて、うっすらと頬を染めたようだった。伏し目がちのその瞳が、かすかに潤んでさえいるようだ。寡黙過ぎ、普段は殆ど表情も変えないこの男の、こういう顔を見るのは自分だけかもしれない、と、土方は思って嬉しくなった。
「あとは自分でやる。布を貸せ」
頬笑みながら手を差し出し、斉藤の手から布切れを奪うと、土方は彼の見ている前で、足の指から足首、傷のある脛、膝、大腿と順繰り丁寧に体を拭き清める。実は風呂好きな土方だから、これでは物足りないのだが、こんな疲れて傷だらけの格好では、湯屋など行けるはずもない。
どっちにしても今は夜中だし、町中の連中も出入りする湯屋に、新選組の幹部二人が、並んでいくのは元々無理だろう。
「あーぁ、たまにゃ湯屋に行きてぇな」
思わず呟いて同意を求めれば、斉藤は真後ろを向いて、じっとしている。少し前までのあのケダモノが、今じゃ借りてきた猫のようだ。もしも本当に彼が猫ならば、土方が下肢を洗い清める水音に、耳はすっかりこちらを向いて立っていることだろう。
「じゃ、寝るか」
「…寝てください」
斉藤は向こうを向いたまま、浴衣のようなものを土方に差し出した。さっき湯を沸かしに外へ出たとき、どこからか調達してきたらしい。それを渡した後、斉藤は自分も簡単に体を拭いて、それから部屋の隅の方へ行ってしまった。
壁を背にし、二本の刀を胸の前に抱くようにして、肩膝立てで目を閉じる。
「…おめぇもこっちへ来たらどうだ」
「布団はそれしかない」
「そんなこたぁ判ってる。一緒に」
「…いえ、副長。俺は眠くないので…。…っ!」
その瞬間、何かが斉藤目掛けて飛んできて、とっさに剣の柄を振るって防いだ。柄に当たって跳ねて転がったのは、土方が頭の下にしていたはずの枕だった。
「何を…副長…?」
「眠くないんなら、そこで一晩中、番兵でもしてろ。俺は寝る」
「…し、承知」
そうして翌朝、斉藤は一睡もせずに朝を迎えた。土方も明け切らぬうちから布団から出て、昨日着てきたのと同じ姿に身支度を整えた。髪も一度乱れて解けたのが嘘のように、きっちりと結い上げられて凛とした涼しい姿だ。
「あの」
と斉藤が言いかけると、土方は怒ったような顔で振り向いて、素早く色んなことをまくし立てた。今日も昨日と同じように来るから、報告の文はいらないとも言っていた。そうして斉藤が何か話しかける余地を与えず、すぐに出て行ってしまうのだ。
怒っているようにも思えたが、急いでいただけかもしれないと、斉藤は深く考えずに自分も身支度を整える。今夜もまた土方に会えると思うと、昨日の失態やら悩みやらが胸に引っかかっていてさえ、彼は充分に幸せだった。
続
今回、斉藤はワンコだったり狼だったり猫だったりします。多彩な表情を見せる彼が、書いててちょー楽しかったですー。ふふふふふ。ケダモノだけど臆病でもあって、その部分が土方さんに「こいつも所詮はまだガキだな、ふふん」と思わせているのでしょうか。
そういうとき、背伸びしたい斉藤はガックシきてると思うけど、それも魅力なんだよ、と言ってあげたい。土方さんから言って上げられるといいんだけど、それでも納得するかどうか。アハハハ。
いやぁ、とっても楽しんで書けました。次回も頑張りますねっ。
10/02/19