其は常の褒美にて  2







 ふらり、と何気ないふりで路地へと入って、そこで斉藤は眉をしかめた。

 表通りの明かるさの届かぬこの路の奥には、いつもなら飴売りの子供が待っていて、その子供に彼は文を渡す。そうして子供はとある廓の表を掃いている爺に文を渡し、それが今度は副長へと届けられる。そういう手筈になっている。

 なのに飴売りは居ない。もっと路を奥まで行けば、その向こうへと抜け出てしまい、仕方なくそこで少しの間待ったが、いつもの子供は現れなかった。袖の中に隠してある文を、袖の中にあるままで指先でこねくり回し、短い路の中で、斉藤は手持ち無沙汰。

 四半時も過ぎてしまうと、もう街は薄暗くなって、かえってこんなところに武士のなりのものがいては目立つ。幸い文の中身は、いつもの「異な様無し」。斉藤は諦めて顔を上げると、何食わぬ様子を装い、路を出て行った。


 * ** ***** ** *


 ガタ、と戸でもないものを揺らして、本来入り口ではない筈の場所から、彼はここのところの彼の住まいへと入った。窓の一つもなく、当然日も差さない狭い家。長屋を建てた奥が少し余って、物入れになっていた場所だった。
 
 暗くて狭くて湿っぽくて、それでも綺麗に拭き清められてはある、四畳に足らぬ空間だが、密偵が寝に帰るだけの場所なのだから、充分過ぎるほど、として、斉藤自身が選んだ隠れ家。

 身を屈めて中へと踏み入り、隙間だけ開いた入り口を閉じようとした手を止めて、斉藤は奥の暗がりへと目を細めた。

「誰だ」

 言いながら戸を閉め、刀の鍔へと手を触れる。斉藤の指先に、ひいやりと冷たい温度と、鯉口を小さく切る無音の感触。奥へ立てかけられた古い畳の向こうに、ゆらり、気配が揺れて、姿の見えた人影に、斉藤は眉をしかめていた。

「…な……」
「おめぇな、密偵の隠れ家なんざ、目立たねぇのが確かに基本だが、そもここは『家』ですらねぇじゃねぇか。入り口探すのに骨が折れた」

 呆れた声で言って、彼は部屋の真ん中に屈み、携えてきたらしい部屋灯籠に灯りを入れる。ジジ…と悶えて揺れた火で、土方の顔が橙の光に照らされた。

 はた、と我に返った斉藤が、袖の中で半ば皺になりかけた手紙を取り出して差し出す。

「繋ぎ役の飴売りが、今日はいなかった」
「…あぁ、今日から不要だと言って俺が帰したんだ。俺が毎日ここにいるから、わざわざ文を描く必要はねぇ」
「……は…?」

 入ってきた時の場所で突っ立ったまま、斉藤はまだ意味が判っていない。

「おめぇはなんだ、さっきから微動だにしねぇで。こっちきて座れ。大したこっちゃねぇが、説明してやる」

 手招きされて、畳も無い冷たい板の間に座ろうとしたら、土方は奥に立てかけられてある畳を取りに行っている。呆けそうになりながら、斉藤も慌ててそれの一枚を運んで床に敷いた。

 部屋は四畳足らずで畳は三枚。だが、物置だった名残らしい、壊れかけの家具などが邪魔で、二枚敷くのがやっとだ。ったく、渡した金が足りねぇこともねぇだろに、もちっとマシなとこにすりゃあ、などと、土方がぶつぶつ言っている。

「まぁいい、実はへまをやって昼に怪我をした」

 言いながら餓鬼のように、土方は畳の上に両脚を投げ出した。包帯の巻かれた左足を見ると、一瞬で斉藤の顔色が変わる。

「お、お…いッ」

 掴み掛かるように、斉藤は土方の左足を捕らえた。巻いてある晒しを解いて取り払い、深くも無いが浅くも見えない傷跡を見る。血はもう止まっているのだが、生々しくも鮮やかな紅色の一条が、真っ白な肌に斜めに走っていて、その傷の上を、斉藤の親指の腹が、するりと辿った。

「斬…る…。命じてくれ、俺に」
「おめぇ」

 見た目ほど酷くは無いただの浅手だ。勿論、命に別状なければ、治るまで何かに支障があるわけでもない。せいぜいが数日は正座が辛い、と言った程度なのに、斉藤から放たれている殺気は本物だ。

「あんたに怪我をさせた。充分死に値する…」
「そんなことを命じにきたんじゃねぇ! よく見てみろ、ほんの薄皮一枚切れただけだ。しかも相手の手から飛ばされた剣を、俺がよそ見していて避けなかったせいだ。その剣を飛ばしたヤツなんかな、自分はもう切腹になるってんで、屯所じゃ大騒ぎ。それに辟易して面ぁ隠しにここに来たんだ、おれぁ!」

 斉藤の手首を掴んで、土方は自身の足の傷に触れさせた。つ、と指を滑らせれば、確かに浅い怪我に過ぎないと判る。

「判ったか。判ったら剣を仕舞え。大したことねぇのに、こんな狭ぇとこで簡単に抜くな」

 ついつい叫ぶように言ってしまった土方は、気付いてばつが悪そうに口元に手の甲を当てる。隠れ家で喚き声を上げていいかどうかくらい、彼にだってわかることだった。

「にしても、何にもねぇな。おめぇ、ここに戻って毎晩何してんだ」
「…剣の手入れ。後は寝るだけだから、何も必要ない」
「なるほどな」

 立ち上がり、改めて部屋の中を見回している土方に、斉藤は淡々と言う。

「で、何ゆえここに」
「局長がな、俺が休息所も持ってなくて、屯所にいるまんまじゃ怪我もろくろく癒せねぇだろ、って気にするからだ」
「…ここには何もない」
「判ってる。でも、おめぇがいるだろ?」

 言い放たれて、ほんの少し斉藤の様子が変わった。別に物音がしたわけでもないのに、彼は立ち上がり、ちらりと後ろの入り口を見て、次には部屋の奥の方を見透かし、そのあとやっと彼の目が土方へと戻ってくる。

 斉藤は無造作に腰の二本を抜いて片手に下げ、一歩、土方へと近付いて言った。

「判った。ここにいる間、あんたのことは、俺が守る。安心して怪我を癒してくれ」
「……斉…」

 ぷ、と小さく吹いて、土方はその端正な顔に笑みを作る。負傷中だからといって、守って貰いたくて来たわけじゃない。それだったら数いる隊士たちの只中で、屯所に篭っていた方が安心、ということになる。

 くっくっ、と一頻り笑ったあとで、土方は今度は自分から斉藤に近付いて、彼の方に片方の肘をのせながら耳に唇を寄せて聞かせた。

「なら、その任を託す褒美を先払いするが、受けるか、斉藤」
 
 言いながら、土方は斜めに顔を寄せている。零れた息が、斉藤の唇にかかった。

「っんとに…。おめぇは、鈍いのが珠に傷だ。皆まで言わすんじゃねぇ」
 
 唇に、触れないままで遠ざかっていく土方の顔。それを追いかけるように、斉藤は土方の唇を塞いだ。触れながら、ひと月もふた月も、触れていなかったのを思い出す。

 こんなに柔らかだったろうか。こんなにいい匂いだったろうか。

 片手に二本を下げ持っているので、あいている左手だけで、斉藤は土方の髪に触れた。高く結わえた黒髪が、顔を斜めに傾けるごと、さらりと揺れて土方自身のうなじに擦れる。濡れたような冷たい感触は、多分、部屋が冷えているからだ。

「なんにもなくても、布団くらい…あるんだろう」
「ああ、ある」
「そんなら…充分だ」

 
 * ** ***** ** *


 このところ、何かと市中は物騒だ。そのせいか、夜半になる前に町中から人の気配は殆ど消える。何処かで猫が鳴いているとか、そんな音くらいしか聞こえなくなる。

 着物を脱がされる小さな音や、変に大きい斉藤の息遣いだけが、部屋の中で妙に大きく聞こえるのだ。

「…そういや、な。今日は身ぃ一つできちまった、から」
「あぁ」
「着替えがねぇ」
「…あぁ」

 ぽつり、ぽつりと語られる土方の声に、斉藤は短く二音ずつで返答するのだが、その間も彼は、土方の袴の横から手を入れて、その下の着物をたくし上げようとしている。乱暴なくらいの仕草でそうして、次には下帯に手を掛けて…。

「斉藤…っ」
「……」
「だから、皆まで言わすな、って言ってるだろうが」
「あぁ…」
「…明日は上から下まで、この着物を着て屯所へ戻るってこったからな、汚す前に脱ぎてぇんだ…っ」

 愛撫を始める前に、上から下まで全部、素っ裸に剥いてくれ、なんざ、どこをどうやったって口に出せるはずも無い。薄暗い灯籠の明かりの傍でも見えるくらい、土方の耳たぶが朱に染まっていた。

「なるほど、承知」

 承知、と言った斉藤の声には笑いが滲みていて、土方は理不尽にも、じろりと彼を睨みつけた。
















 えーと、なんというか。斉藤さんにも土方さんにも、なにやら「褒美」な展開ですね。このノベルは深刻な内容じゃないので、二人のイチャコラを気楽に書きますよー。なので、気楽に肩の力を抜いて読んでいただけたらな、と思います。

 気軽なお話だし、遊べるところは遊びたいわ。次回あたり、いろいろと考えてみようかなー。シャイな土方さんと、鈍い斉藤さんの、お泊りデートなノベルって感じでしょうか〜。お読みくださいましてありがとうございます♪



10/01/26