其は常の褒美にて 10
背を向けたまま立ち上がった土方を、黙って見る斉藤の目が、たったこれだけのことなのに、山ほどの絶望を飲んで翳っている。
「斉藤、お前ぇも立て。そんで、そこに座れ。俺はこっちだ、隣に座る。まだ帰らねぇよ、なんて目ぇしてやがる。捨てられた犬っころか、お前ぇは」
言ったとおりに並んで湯舟の縁に座って、土方は手ぬぐいをそこらに広げてのせる。斉藤の方にも、まるで小さな子供の世話でも焼くように、手ぬぐいを広げて隠させた。
別に男同士だから構いやしねぇ、などと、言って曝け出したままでは、どうにも目のやり場に困る。さっきの一幕で、舌の上にまだあの感触があるくらいだから。
「…言っとくが、俺ほど口の下手なヤツも、本当はねぇんだ。物事を伝えたり、指図したりするのとは別だぜ。それは得意だからな。ただ、自分の胸ん中のことを言うのは、なんか、ここんとこが『うずうず』するようでいけねぇ」
そう言って、さも嫌そうに裸の腹をするりと撫でて、それでも土方は視線を微妙に合わせないままに言ったのだ。
「斉藤。お前ぇほど立派な部下はねぇよ。常に指図以上のことができるし、それも差し出たとこまで決して飛び出たりしねぇ。仕事を安心して任せ切れる男は、この大人数の組ん中でも少ねぇんだ」
ちらり、土方は斉藤を見て、どんな顔をしているのか確かめた。別に嬉しそうでもなんでもない。ここじゃねぇのか、と半ば落胆して、それでも引くものかと次を考える。
「俺は有能な奴は好きだから、お前ぇのことも好きだが、…その、それだけじゃ、ねぇよ、好きなのは」
ここまで割りとすんなり言えたのに、土方は次のことを伝えようとして、喉に何かが詰まりかけたような心地になる。
良い部下だから好きなだけじゃない。もっと色々、気に入っているところがある。言葉にして伝えたことなど一度としてないが、それを今夜は言ってやろうと力んで、結局、何を言えばいいのか戸惑った。
自分がこの男のどこをこんなに好いているのか、よくよく考えれば、言葉が繋がらない。まさか見た目だろうか、と馬鹿を考えて、それと同じ問いを、つい昨日、斉藤にしていた自分の声を耳に聞いた。答えた斉藤の言葉も。
見てくれが、いいのか?
それもある。花のようだ。
凄いことを言うもんだ。そう思った。だけれど、相手の容姿が好きだというのも、想いのひとつだと判っている。では、自分は斉藤の外見は好きだろうか、と、問いを自分へと向けてみた。
無意識に目を閉じる。そうして普段の姿の斉藤を思い浮かべようとした。そうしたら脳裏に浮かんだのは、いつか雑木林かどこかに偶然見た、一人稽古の最中のこの男。
握った柄から汗を滴らせ、剣先に風を唸らせ、舞い飛ぶ木の葉の一枚ずつを、一振りごとに切り裂いていた、その姿。いつも、そんなふうには見せないくせ、逆に、ねじくれているのではないかと思える斜めな態度なのに、この男の剣は、なんて真っ直ぐで、尖っていて…。
いつの何かうっすらと目を開いて、だけれどそのまま、土方は記憶の中の斉藤を見つめていた。体がいつの間にか熱くなっていて、彼は見惚れている。記憶の中に残っている斉藤の姿に。
「剣…」
「……剣」
「そうだ、お前ぇの、剣が…俺ぁは好きだ。見てて惚れ惚れしちまったこともある。そんでその剣が、俺ぁの好きな強い真っ直ぐな剣が、俺ぁのことを、守るためのもんだと、お前ぇはそう言うだろ…?」
不器用な言葉で、土方は言った。それは、いつもいつも理性的に言葉を選ぶ、新選組副長の彼ではなかった。頬がうっすらと上気して、目まで少し潤ませている。
「いつだか、浪士に囲まれたとき、真っ先に俺の前に飛び出してきた、お前ぇの背中も覚えてる。剣を振るうときの、お前ぇの…迷いの無さが、きれいで、凄ぇ…って、俺ぁは」
はぁ、と雄弁に息をついて、土方は真正面から斉藤を見た。べらぼうに強くて、剣技に鋭い美しさを備えたこの男は、何か感じ入ったように黙っていた。それへ満足そうに笑って、土方はこう言い添える。
「だからな、俺ぁはお前ぇを、好きなんだ」
まるで少年のように頬を染めて、けれど、土方は最後には堂々と言い放った。そうして今度は挑むような目になって斉藤を見据える。
「もっと堂々としていろ。俺ぁがこんなことを言うのは、斉藤、誓ってお前ぇにだけだ」
そんな土方とは対照的に、斉藤は項垂れて、それでもぽつぽつと言い始めた。
「俺は…、あんたの、全部を好きだ。姿かたちも、声も、頭のいいとこも、頭が固いとこも、決めたことに向かう姿勢も、大事なもんを守る意思も、勿論、案外我流で、場を与えりゃ暴れ出すような、あんたの剣も」
一度言葉を切って、斉藤は何故か、ごく、と息を飲む。
「あんたの…その、からだも、好きだ」
「……からだを好いてんのは、よっ…く判ってるよ。抱かせりゃいつも、ちょっとやそっとじゃ離れねぇじゃねぇか」
それだけが目当てなのかと苛立ったことも、いつかあったかもしれない。でもすぐに判った。色事のみの欲望ならば、澄んだ水に引き込まれそうになったみてぇな、不思議な感じはしない。ただただヤりたくて無茶苦茶をしているのとは違うと、心に直に、いつも響いてくるのだ。
「それにだって、別に不満はねぇ。欲しけりゃ欲しがれ。喰らいたきゃ喰らえ。喰われる俺が構わねぇと言っている。寧ろそういうお前ぇを判ってて、夕べも今夜も、こうして『褒美』自ら会いにきてんじゃねぇか」
斉藤の、いつもわかり難い表情が、今夜ばかりはやや判りやすく動いた。まず首筋がうっすらと赤くて、眉は少しばかり困ったように下げられていて、視線が土方と自分との間の、丁度真ん中あたりを漂っているのだ。
「土方さん…。ひとつ、聞いていいだろうか?」
「あぁ、好きに何でも聞けよ」
「…湯…。湯は、どうだろうか…?」
「ゆ? この湯、か。勿論」
なんで今こんなときに湯の話なのかと、土方は一瞬思った。でも答えた。必死な顔の斉藤が、じっと自分を見つめている。
「なら、そこの…ゆ、浴衣は、好きな柄だろうか?」
「……あぁ、粋で渋みのある藍で…。多摩に居た頃の祭りじゃあ、そういうのを着たこともあったかもしれねぇ。お前ぇはよく俺ぁの好みが判るな」
本当にそう思ったから、嬉しそうに土方は笑う。
「多摩か…。あぁ、思い出すよ、あの頃をな。もう、やけに懐かしい。そんな何年も経っちゃいねぇのに、なんなんだろうな。…浴衣は俺ぁにかもしれねぇが、屯所じゃ着てるってわけにもいかねぇ、お前ぇに会いにきた時には着させて貰うが、普段はお前ぇが持っててくれるか? 斉藤」
言い終えると、土方はちょっと寂しげにくすりと笑った。斉藤の事を判ろうとしたのに、彼を喜ばせようとしたのに、どれもこれもうまくいきゃあしねぇ、と、己の不器用さを笑ったのだ。
ざぁ、と水を零しながら、土方は立ち上がって湯舟から出て、大桶にかけてある手ぬぐいを取った。そうして手早く肌の水滴を拭い、髪から滴る水を拭いて、用意されてある浴衣を手に取る。
さらりと広げ、ふわりと纏う、その流れるような仕草で、美しい藍の色の浴衣の中に、真っ白な素肌が隠された。
「あぁ、そこの小窓から少し風を入れてんのか。汗がひいて…気持ちいいな。こんな贅沢はねぇよ、斉藤。俺ぁの風呂好き、誰かに聞いてたのか?」
「…え…っ? それはあんたが、湯屋に行きたいと、そう…」
「そうだったか? いつ言ったっけ」
土方は髪から滴って首を濡らす水滴を、手ぬぐいで拭っている。斉藤はといえば、あんまり拍子抜けして、眉までしかめて湯舟の湯を眺めるばかりだ。
そんな…。湯屋にいきてぇ、と、あんたが言ったから、俺は。
それでも斉藤は土方を守って、あの隠れ家まで戻らなければならないのだ。半ば呆然としたまま、項垂れて着物を身につけ、二本の刀を手にして…。二人湯屋を出ようとした時、ぽかり、と気付いたふうに土方がこう言った。
「…あぁ、もしかするとお前ぇ、そんないつ言ったか判らねぇこと覚えてて、今日のことを思いついたのか? そうか…そりゃ、ありがとうよ。いい湯だった。また入りてぇけど、難しいだろうなぁ」
背中を向けたまま、軽く振り向いて、そう礼を言う土方の体は唐突に後ろから抱きすくめられていた。唇まで塞がれて、思わず反射的に抵抗しかかる。
「さ…い…っ、何、い、いきなりッ」
「俺はいつもあんたに、振り回されてばかりだ。でも、あんたを好きなんだ。好きだ…」
続
いやぁ、土方さん、酷いよ…。自分の言ったこと忘れてるなんて…。
書いてて私もびっくりしました。斉藤の気持ち台無しなのでしょうか。でも浴衣もお風呂も気に入っててくれたみたいで、良かったじゃないですか、ものごとは良いように考えようっ。
というか、土方さんと貸切入浴って時点で、恵まれているじゃないかー。みたいな。…ふざけたコメントでごめんなさいでした。
というか2、10話で終わりじゃなかったのか…。あれぇ?
10/07/25
