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あなたも共に来ませんか

だけど一つだけ気をつけて

もしもあの事が知られたら

きっとあの人は許さない

私のことも

貴方のことも








 土方は自室に戻り、たった一滴血の跳ねた着物を着替え終えていた。帰るなり監察に出先でのことを告げ、行って調べるように命じたので、今すぐにするべきことは済んでしまっている。勿論、土方の仕事は幾らでもあるのだが、じゃあどれを、と思うと何も浮かんではこなかった。

 文机の上に紙を広げ、筆や墨を用意して、格好だけは整えたものの、脳裏にあるのは斉藤のことだ。

  あの剣捌き、見事な…。

 刀が空を微かに鳴らして、聞こえたのはその物音だけ。あとは飛沫の散る音だった。肉を斬った瞬間の、鈍い音すら立てずに、ああも見事に人が斬れるものなのか。あいつは俺よりも強いだろう。そう認めることに、妬みも浮かばないほどの剣技だ。

 総司と比べたら、どうなのか。

 実力の程を判っていて、だからこそ伊東の傍に付かせたのだが、そうして半年も傍から離していたことが、今更のように勿体無く思えてくるほどだ。

 だがあいつは、どうも、使い難いから…。

 なにを、どこが、使い難いと思うのだろう。ここ半年を覗けば、もう何年も何年も傍にいる男なのに、どうしてもその理由に思い当たらない。しいて言えば、上を上と思ってないような、あの物の言い方か? 立ち居振る舞いか?

 それともやはり、考えていることが読めないのが、気になってしまうのだろうか。

 土方は多摩で既に、斉藤と会っていたことを、実はあまりよく覚えていない。近藤や沖田や、試衛館に入り浸りだった面々が、常に自分の周りでがやがやしていて、あんな寡黙な男のことは、視野に入っていなかったのだ。

 それが、京へ来て、最初の隊士募集の時に…。

 あの日は新人隊士たちが大勢庭にいて、その中に斉藤は立っていた。外で竹刀を振ったり、腕試しに試合っているものもいて、酷くにぎやかだったのに、面頬をつけて竹刀を片手に提げている、その立ち姿が妙に彼の目に付いた。

 土方は所用で遅れてその場にきたから、誰の試合うのも見ていなかったが、ただ一人、その男が竹刀を振るうところだけは、一度見たいと思ったのだ。

「…そこの、面をつけた男。お前だ。総司と試合ってみろ」

 いきなりそう言った言葉を聞いて、彼はゆっくりと土方を見た。

 いや、彼はいいんだ、歳。と、近藤が言う。何故だか可笑しそうに笑っている沖田は、すぐ傍にいた別の隊士の竹刀を奪い、構える姿勢をしつつ、やる気はまったく無さそうだった。その時、男は言ったのだ。必要ない。あんたは俺の…。

『必要ない。あんたは俺の剣を知っている』

 声がいきなり耳に飛び込んできた。びっくりして土方が振り向くと、閉じきっていた筈の障子を開いて、廊下から沖田がこちらを覗き込んでいたのだ。

「懐かしいですねぇ、それ」
「…それ?」
「嫌だなぁ、今、土方さんが呟いてたじゃないですか。斉藤さんと、京で再会したとき、彼、あなたに向かってそう言ったんだ。ほんとに懐かしいな、もう随分前になる」

 俺の頭の中を覗いたのか?などと言いたくなる。沖田はたまにこうして、土方の考えていることを言い当てるのだ。頭の中を悟られたような気がして、土方は少し険しい顔をした。けれども沖田は、ゆっくり障子を閉めながら、どこか面白がるような顔をちらりと見せて行ってしまった。

「…ったく、あいつときたら、いつまでも餓鬼みてぇに」

 土方はそう言って、理由の判らない苛立ちを抱いたまま、親指の爪を小さく噛むのだ。

 そして沖田は特に行く先も定めずに、屯所の廊下を歩いていた。足音が聞こえたわけじゃないのに、殆ど確信めいた思いで、彼はふと足を止める。

 あ、すぐそこの塀の向こうを、今、あの人が通った。

 土方の部屋から遠ざかる彼とは逆に、今、あの部屋の方へ向けて歩いて、そうしてその気配の主は、丁度土方の居場所に、一番近い場所で立ち止まる。廊下の向こうの庭。庭の向こうの塀の、さらに向こうに立つのだ。

 そうと決まっている。あの時のように…。
  
 くす、と小さく沖田は笑った。別に邪魔をする気などない。土方は沖田を、いつまでも餓鬼だと言うが、斉藤だってあの日から少しも変わらず、凄い執着を抱いたままなのだ。

 どこに行くでもない。ただ、そのままふらりと屯所を出て、冬の風の厳しい外を歩きながら、沖田は「あの日」のことを思い出すのだった。


* ** ***** ** *


 京に来て、隊士募集をしていた浪士組に、いきなりふらりと現れた斉藤。だが実は、その数日前の夜、沖田は彼と会っていたのだ。

 あの頃、沖田は他の面々と共に八木邸で寝泊りしていた。そしてある夜半のこと、ふと目を覚まし、彼は何かを感じ取った。けれど感じたのは一瞬だけのことで、一度は体を起こしたものの、それ以上は何も起こらなかった。

 その気配は次の日の夜にも現れた。そしてまた刹那に消えてしまい、塀の外まで出てみたものの、人影すら見られなかった。三日目、沖田は眠らずに待つことにした。布団は敷いたが横にはならず、部屋にすらいないで、庭を横切った塀の傍にじっと立っていた。

 そして、その夜もまた、あの気配。手を伸ばし、沖田はぴったりと閉じていた裏木戸を開け、大刀を抱えたままで道へと出る。視線の先には影。暗がりにじっと立って、こちらを見ている相手が彼なのだと、沖田はすぐに気付いた。

「……やっぱり、あなたでしたか…。よく場所が判りましたね」
「浪士組のことは、元々噂で聞いていた。あの人は」
「少し、ここを離れませんか」

 沖田はつい、と身を近づけて斉藤に言うと、返事も待たずに歩き出した。暫く足早に歩いて、歩いて、八木邸から随分離れ、角も曲がって建物すら見えなくなると、やっと足を緩めて斉藤を見た。

「土方さんのことが聞きたいんでしょう?」
「あぁ、あの時は満足に手当ても出来なかった。俺が行ったとき、あの人は…」
「悪いんですけど、あまり、あの日のことは詳しく知りたくない。考えただけで、なんだかね…臓腑が掻き混ぜられるような感じがするんです。斉藤さんなら、判ってくれますよね?」

 うっすら笑いながらそんなことを言う沖田の目の奥には、僅かばかり、狂気に似た感情が揺れている。大刀を握る指先が、痺れてくるような気がするのだ。どろどろとした「コレ」が、憎しみの感情だと判る。もう、復讐するべき相手など、この世にはいないのに。

「…あの日から後のことはねぇ。…凄かったな、ほんとに。全部知ってる私だけには判ったけど、あの人、凄く苦しかった筈なんだ。痛みの続くとこもあったと思うし、怪我だって…。そもそも足にも腕にも、まともな力が入っていないように見えてて。
 なのに、翌朝になったら、あの人もう、しゃん、としてるんです。痛かろうと苦しかろうと、見た目だけはいつものあの人に戻ってた。脆いくせに強いから、かえってタチが悪い」

 不意に黙り込んだ沖田の脳裏に、あの夜のことがありありと浮かぶ。

 血の気の引いた顔をして、髪を乱し、震える声をして、土方は沖田の傍に戻った。上擦った声をして、なんでもない振りをする姿を見るのは辛かった。 

 誰が助けたのか気付いただろうけれど、そのことを確かめるわけには行かない。そしてもう一つ心配事もある。彼がこっそり斉藤に届けた着物は、土方本人のものだったから、もしもそれを気付かれてしまえば、何も知らないふりなど出来なくなるのだ。

 だけれど土方は、ずっと馬に揺られてきて、着物の尻のあたりに滲んでしまった血を見るなり真っ青になった。沖田に見られることを案じながら、着物それ自体に気を止める余裕もなく、それを布に幾重にも包み、荷物の奥深くに押し込めた。

 だから、私が知っているなんて、あの人は疑ったこともない。疑いの欠片も呼ばないように、私はあの人がそのことで、どんなに苦しくても、助けを必要としてても、知らないふりをしてなくちゃならなかった。 

「手首の傷は浅かったし、その…下の方の怪我も、歩きにくそうにしてたのは二、三日で、今はもう大丈夫みたいですよ。さすがに着替えを覗いたりできないから、ちゃんと確かめちゃいないですけど」

 にこり、と笑って沖田は斉藤にそう教え、それから自分が聞きたかったことを問い掛けた。

「土方さん…。とんでもないとこを斉藤さんに見られて、助けられて、その時、どうでした? 弟分の私が行くよりは、って思ってああしたんですけど…」
「気付かれてはいないはずだ。救い出したとき、あの人は意識を失ったし、目を覚ましてから、どうしてか暫く目が見えなかったようだから。あとは俺も、適当に言い訳して、素性を知られたくないと言ったら、目を閉じていてくれた」
「…声は」
「俺は無口だから、多摩にいるときの俺の声を、あの人が覚えているとは思えない」

 思わず沖田は笑い出す。

「あの頃、斉藤さんがあの人のことばかり見てるのは、私だって気付いてたのにな」
「……また、意味の判らないことを」
「だって、わざわざ浪士組をあんなとこまで追いかけてきたのは」
「こっちにくると聞いて、少し気になって見に行っただけだ。俺は今はこちらにいるから、それほどの距離を探したわけじゃない」

 足元の小石をコツリ、と沖田が蹴る。その石は転がって、斉藤の足元に止まった。

「浪士組はね、隊士を募集するんです。だから来ませんか。近藤さんはきっと貴方のことも覚えてるだろうし、腕の立つ貴方なら、土方さんだって喜ぶに決まってる」

 そこまで言うと、沖田は斉藤の返事も待たずに、八木邸へと戻っていく。

「私も貴方のことは、とりあえず『山口さん』て呼ばないと。待ってますよ、山口さん。だけどくれぐれも、あの事だけは気付かれないで。私たちの為に、あの人の為にもね」

 
   






















 回想シーンの中の回想…って。あぁぁぁぁ、判りにくくてすみませんっ。それもこれもあれもどれも、私があまりに時間を先にすっ飛ばしたせいなんだよねー。

 いい訳みたいなとこも色々…。あぁぁぁぁぁ、詰まんない展開で申し訳ないですー。もっといろいろ精進しなければ。

 ほんというと、土方さんの、ある一点において潔癖すぎるところとか書きたいです。そりゃもう、あんなことがあったから、ふざけてでも男に言い寄られるとか絶対許さなかったり、体を見られるの極端に嫌がったりとかね。

 どうやって書こう…。難問山積です。とほー。

 こんなお話でも、まだ続きを待ってくださる方がいるのを祈る…。




11/01/30