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あなたには「貴方」でいて欲しいと
命ある限り、私はきっと思ってゆくのだろう

そのためにどれだけ黒く染まろうと
どれだけ赤に染まろうと。
やがてはこの手が、ひいやりと冷えて
温度を失う最期まで…

それがこの、伝えぬ想いの証なのだから




 

 沖田は馬を駆って走っていた。乗りこなせるもんなんだな、と舌を噛まぬよう気をつけながら静かに笑う。耳が千切れて落ちてしまいそうに、鋭く冷たい空気が、布で半ば覆った彼の顔に吹き付けていた。

 山道をゆく町人に刃をかざし、脅して借りた馬だ。こうして顔を隠して、念のため声も低くつとめて。ここらでは馬泥棒も増えていると聞いて、咄嗟にそうすると決めていた。背中に背負っている布包みの中は、土方の着物のひと揃え。

 斉藤さんは、間に合っただろうか。こうして用意した着物を、あの人の、冷たい骸に掛けることになるのかもしれない。そんなことが、ちらりと脳裏に過ぎる。噛んだ唇に血の味。

「……ごめんね…もっと、速く駆けて…ッ…」

 拾った枝で馬の尻を、酷く打った。来たとおりの街道は遠回りだが、それ以外の道など知らないから、そこを目指す以外ないと、焦る気持ちで思う。それとも、勘に頼って山を突っ切るか。そうするのならぎりぎりまで山の中へ踏み込んで、進めなくなったら馬は捨てることになる。

 駆けながら沖田は空を仰ぎ見た。星が遠く瞬き、それへ答えを求めるように、彼は白い息を吐く。教えて、誰か。あの人の傍へゆく近道を。

 あぁ、よく判ってるよ。
 守るものがなきゃあ、本当は私は
 からきし駄目なんだ…ぁ…。

 判っていて救い出す役目を、自分の手から斉藤へと渡したのは、それが最善と知っていたからだ。

 ずっと長い間、傍にいた弟分なんかに、
 惨めなとこを見られて助けられたりなんかしたら、
 貴方きっと、壊れてしまうよね。

 鞭代わりの枝を握る手に、力が籠もる。もう一打ちしようと腕を振り上げた時、遠くゆくてに人影が見えた。まろぶように狂ったように走ってくる人影を、沖田の目が捕える。そうしてその目が、すい、と細められた。その目の奥に、闇が宿る。

 沖田は馬の走る速さを、ゆっくりと落とした。そうして身軽く飛び降りると、馬と並んで歩きながら気遣うようにその首を軽く叩き、撫でてやる。ぶるる、と馬は鼻を鳴らして、あれほど酷い走りを強いた沖田を、澄んだ目で眺めた。

「…ねぇ、お前たちは、汚くなくていいよねぇ。比べて人間はさ」

 するり、とたずなを握る手が離れた。馬はそこで足を止めて、道の脇に生えている草を食べ、傍らの田んぼに鼻を突っ込んで水を飲んだ。少し、馬よりも先へと歩いて、足を止めた沖田に、人影が段々と近付いてくる。

「ひ、人だ…人だぁぁ…ッ。たっ、た、助け…っ」
「……何があったんです…?」

 首へと下がっていた布を持ち上げて、顔半分を隠しながら、沖田は酷く静かに言った。自分の中で、何かが濁るのを感じる。そのまま濁れ、良心なんか今は要らない。憎んで当然の相手。

「人斬りだよぉっ、あの山んなかで…っ。おらぁ一人だけ、逃げて来たんだ、もう歩けねぇ、医者に連れてってくれよぉ…っ」
「山の中? 何処でですか? 遠くで?」
「とっ、遠かねぇよ。藪ん中、真っ直ぐ突っ切ってっ、ここまで…っ」
「それは、災難、でしたよねぇ」

 血まみれの自分のなりを見て、今の訴えを聞いて。なのにあまりにも淡々とした若者の声を、その姿を、男は道に座り込んだまま、化け物でも見るような顔で見上げた。

「本当に、もしも、なんにも悪いこともしてないのに、そんなことになったんだったら、そりゃあ、酷い目にあったもんですよ」
「…あ、あんた…。あんた…」
「おや? 私に見覚えでもありますか?」

 ぶらりと両手を下げたまま、沖田は男に近付いていく。斉藤さんも、一人逃がすなんて、随分焦ってたんだろうな、と、そう思っている。でも生き残ったのはこの男だけだって。

「…枯れ井戸かなぁ、あれ。いいところにありますよ? あんまりここは見通しがいいから、ここでやっちゃあ、朝になったらすぐに見つかってしまうでしょうし」
「な…っ、何、何の、話…っ」
「勿論、あなたの屍のことですよ」

 ゆら。沖田の体が揺れたと思ったら、その手には脇差が握られている。片手で真っ直ぐにそれを前へ。男の喉に切っ先を突きつけて、一歩、一歩と追い詰めた。

「あぁ、本当に嫌だなぁ。私、初めてなんです。人を殺すのなんて」

 沖田の声は淡々としたままだ。瞳は暗く、星明りの一つも映してはいない。

「あなた、あの人が誰だか知ってましたか? 私の大事な人なんです。もしも誰かに傷つけられたら、百倍返しにするくらい、大事なんですよね。でも見てたわけじゃないけど、多分、百倍なんてしたら、あなたもう、人の形じゃないんじゃないかなぁ」

 ひぃ、と、喉の奥で男が鳴いた。それを聞いて沖田はにこりと笑う。虫も殺さぬ優しい顔で。

「それでね。考えたんです。目が、いいんじゃないかって。ねぇ、痛そうでしょう…?」

 言うと同時に沖田の刀の切っ先は、男の目玉へと向けられた。

「そぅら、後ろはもう井戸だ。このまま落ちれば、目を抉られずに済みますよ。…でも、もう遅いですけどねぇ」
「た…っ、たす…け…っ」
「ケダモノの言葉なんて、聞こえません。…ちっともね」

 ぐちゅ、と、切っ先が、柔らかいものに突き刺さる感触。長い刀身を伝って、それが手のひらに届いたとき、一瞬、沖田は背筋を走る嫌悪と快感を同時に感じた。

 見開いたままのその片目の中で、刺さった刀の切っ先が、ぐるりと回されて、男の濁ったその目は切り崩される。そのまま強く押し入れれば、少し刺さった先で、切っ先がこつりと頭蓋の奥に突き当たった。男は泡を吹いて、声一つ立てずに、こと切れている。

「…なんだ、案外、何も感じないなぁ」

 沖田はぽつりと言った。それから片足を上げて、男の腹を蹴る。屍は井戸の中に落ちて、ぐしゃりと嫌な音を一度だけ響かせた。

 彼は背中を向けて、すぐに馬の傍へと戻ると、さっき男が歩いてきた方向へと馬を駆けさせた。山の際ぎりぎりまで近付き、そこでまた馬を下りて、躊躇い無く藪へと入っていく。進むべき道ははっきりわかった。

 あの男が、だらだらと尽きぬ血を垂らしながら、笹や枝を掻き分けて這った跡が残っていたからだ。やがては道の先に小屋が見える。小さな川の畔だ。中から感じる気配は、ただの一つだけ。

 声も掛けず、もの音の一つもさせぬように中を覗く。小さな、本当に小さな子供のように、背中を丸めて横たわっている姿が見えた。土方だと判ったが、沖田には声などかけるつもりはなかった。暗がりに目を凝らし、耳を澄ませる。

 聞こえてくる呼吸の音と、その息遣いに上下する体を確かめて、沖田は静かに微笑んだ。死なずにいてくれたのなら、よかった。後は無事に、何もなかったような顔をしながら、自分の傍に戻ってくれるのを待つだけだ。

 持ってきた着物などの包みを、そっと入り口の横に引っ掛けて、沖田は、さっき来た通りの道を、藪を掻き分けて戻った。戻る途中で馬の蹄の音を聞く。斉藤が、自分と同じようになんとか馬を用意して、戻ってきたのだと判った。

「早く戻って…。あなたがいなけりゃ、私はこのまま、黒く腐っていきそうだから」


  * ** ***** ** *


「…  じか  さ  …」

 切れ切れの声が聞こえた。土方さん、と呼ばれたのだと感じる。まだ耳はよく聞こえない。

「…    がえを   …」

 もどかしげに振り向いたが、真っ暗で、自分の目が正常になったかどうかも判らなかった。そっと腕を取られ、布の感触が肌に触れて、さっきのは「着替えを」と、言われたのだろうと思った。身を起こす。深遠の闇の中で、差し出される着物を、手探りで身に着けた。

 両方の手首が少し痛くて、それから、両肩と両脚ががくがくと、少しばかりの震えがくる以外は、案外体は普通に動く。

「……   しだ…」
「え?」
「………」

 聞き返すと、耳元に気配が近付く。暖かな息が耳朶に触れて、今度ははっきりと聞こえた。

「握り飯だ。食べられるようなら食べてくれ。水もある」

 まだくぐもったように聞こえる、この声。何処かで知っているだろうか。朧にそう思いながら、手渡された握り飯は、人肌のように少しだけ暖かい。

「食べたら、街へ向かう。外に馬も用意した。夜半まで…できなければ、明け方まで、あんたを連れて行かなけりゃならない。まだ体が…辛いだろうが」

 斉藤も一度街へ出て、彼の着るものを買い求めようとしたが、時間に追われて焦る気持ちもあったし、浪士組と思しき一団が近付いてきて、うまく買い物もできなかったのだ。考えてみれば、その時、身を隠すことに、どれほどの意味があったかも判らない。

 満足な着替えを用意できずに戻って、戸口に引っ掛けてあった布包みの中身を見たとき、本当に助かったと思った。街からここまでは、かなり離れているのに、沖田がどうやってか浪士組を抜けてここへきたのだと思う。彼をそのまま連れて行かなかったのにも、きっと理由はあるのだ。

 それほどに、彼は土方を思っている。自分と同じように。もしかしたら自分以上に、深く。不思議と苦い思いがして、手のひらを握り締めた斉藤の横顔に、土方がかすれた声で言った。

「あんた…俺を、知って、いるのか…? 恩人の、名を…教えてくれ」
「…成り行き上助けただけだ。その…、密書を、運んでいるので素性も言えない。会ったことも、忘れてくれ」

 街への往復で、やっと思いついた言い訳を告げれば、それを信じたかどうか判らない声で、それでも土方は、判った、と言った。

「なら…俺ぁはこれから、段々見えてきてる目も、こうして閉じていよう。命の恩人を困らせたくない」

 声にはかすかに笑みが含まれた。そっと見れば、言葉の通り閉じた目で、土方は柔らかく笑っていた。青白い顔にその笑みが、不思議と酷く美しくて、斉藤の目は眩んだ。




















 執筆後コメントは、面白い方向に壊れていますんで、覚悟して読んで下さいね。いえ、いつものことですけど。
 
 えっと、あのぅー、みなさん大丈夫ですか、ここまで。

 沖田、黒いですね。純粋な子はほんと怖いです。純粋な悪になり得る怖さを、常に抱いているんですからね。沖田が用意周到なので、斉藤の駄目っぷりが目立ちますが、長い目で見てやってください。今に、土方さんが素で頼りたくなるような、いい男に育ちますんで!

 ってわけで、しばらく斉藤出ないし、そろそろ時間が大きく跳ぶ予定です。その先考えてないよ!ってなことは、どうもあるようだ。いえ、その…頑張ります。


10/11/28