花 刀 56
あぁ…。
そうだ、この人も、
その時が来たなら死ぬのだ。
居なくなるかもしれないのだ。
それは、
今かもしれなかった…。
そう思ったら、芯から怖くて、
怖くて、堪らなかったんだよ…。
数日帰ってこなかった近藤がやっと戻ってきて、人の手を借りて彼の隣に横になった時、沖田はまだそのことを知らなかった。狙撃されたのは聞いた。松本良順が手当てをしたことも聞いていて、でもそれ以上のことを、誰も教えてくれなかったのだ。
部屋に二人だけになった後、近藤は真っ青な顔をして、それでも沖田には無理にでも笑顔を向けてこう言った。
「やっと戻れたよ。総司…」
横になって、右腕を布団の下にしまうことも出来ないで、近藤は天井を見ている。
「聞いたろう? 総司。幕府は今、大変なことになっているんだ。俺たちは今まで以上に強くあらねばならん。横になってる場合じゃない。いつまでもこうして居られないんだ。なのに」
沖田は近藤の隣で顔だけを彼の方に向けて、何も見逃すまいとじっと見つめている。近藤の大きな顎や大きな口には、ずっと変な風に力が入って歪んでいた。
近藤に何があったのかは何日も前に聞いた。でもきっと、まだ聞いていないことがあるんだと、沖田は思った。その聞いてないことのせいで、きっと近藤はこんな顔をしている。力になりたくて、その為にどう言ったらいいか迷って、迷って、結局沖田は真っ直ぐ言った。
「近藤先生が狙撃されたのは聞きました。良順が手当てしたことも。あのお医者、腹が立つぐらい本当のことを言うから、近藤先生にも色々、ずけずけと言ったんでしょう? なんて言われたんですか。教えてください」
「……いや、総」
「動けない私には関係ないですか。何も出来ないから言ったって仕方ないですか。そんな顔して近藤先生が此処に居るのに、今隣に居るのは他の誰でもなく私なのに、それでもなんにも話してくれないんですか。私の居る意味なんて、もう、無いですか」
何か言い掛けた言葉を、近藤は飲み込んだ。そうしてそれから、半刻もの間、怖い顔をして黙っていた。沖田は沖田で、近藤の横顔をずっと睨んでいて、そうしたら、掛布団の上に乗っていた近藤の右腕が、ぐっと上に持ち上げられたのだ。
でもその腕は、いつまで待っても肩より上には持ち上がらなかった。近藤は顔を真っ赤にして、脂汗をかいて震えていた。酷い痛みに耐えていると分かったけれど、それでも腕はそれ以上あがらなかった。
「この通りなんだ。もう剣は振れない、と言われたんだよ。時間が経っても、どんなに鍛錬しても、俺は」
「……」
聞いた沖田は声も無かった。肺に病が巣食って、もう長くは生きられないと知った時の気持ちを思い出した。でもその時以上に、息が苦しいような気持ちになった。真っ黒な穴に、今にも飲み込まれていくような。でも今、黒い穴の前に居るのは彼自身ではなくて。
「そうですか。でもそれ、右腕の話なんでしょう?」
なるべく明るく、沖田は言った。言われた近藤はびっくりしたような顔をして、彼の顔を見た。
「…あぁ、撃たれたのは右肩だから」
「じゃあ先生、今度からは左腕で剣を振りましょうよ。簡単です。右腕でしていたことを左でやるだけです」
沖田は夕の色の滲む部屋で、よいしょ、と言って布団に起き上がり。刀を振る仕草をして見せた。
「普通刀は両手で持つから、上段は難しいかもしれない。でも構えだって色々ありますよ。実は私もこの頃、刀が重くて上にあげるのは疲れてしまうんです。だからどうやって構えたらいいのかって、考え始めていました。もしそのことが先生の役にも立つのなら嬉しいです」
近藤は呆気にとられた様子で、沖田の顔をまじまじと眺めていた。それから彼は笑い出した。体を揺すって笑いながら、いてててと言って左手で右肩を押さえた。
「お前は…。お前ってヤツはなぁ、総司。いや、参った。考えもしなかった。あぁ、そうだなぁっ、そうだよなぁ…」
近藤は横になったまま、強い目をして天井を睨む。そうして今度は左腕に力を入れ、ぐっと強く上へと上げてみせた。
「怪我をしたのは右肩だけで、右腕は上に上がらないが動かないわけじゃない。左腕はこの通り自由に動く。よおしっ、この肩の痛みがマシになったら、お前の言う通り鍛錬するぞ。そうしたら総司、その時はお前が俺の先生だ。上に上がらない右腕で戦うのにどうやったらいいか。左腕で剣を振るうのにどうしたらいいか、お前の考えたことを教えてくれ!」
そうやって、近藤がやっと彼らしい顔になった時だ。障子の外で声がした。
「局長」
土方の声だった。沈んだ低い声。その声を聞いた途端、どうしてか近藤はまた強張った顔になった。沖田は不思議なものを見るように彼の顔を見た。そうしたら今度は近藤が、不思議なことを言ったのだ。
「歳か…。すまんな…。今、俺はお前の顔を見たくないよ」
「……近藤先生…?」
びっくりして。穴の開くほど強く、沖田は近藤の横顔を見て、何かを言おうとしたのだ。でも彼が言葉を発する前に、障子の外にいる土方が、上擦ったような声でこう言った。
「わかった。……よく、休んでくれ。良順が出してくれた痛み止めと化膿止めがあるが。あとで誰かに、届けさせる」
障子の外の気配は音もなく遠ざかって、沖田はまた近藤と二人になった。ついさっき、やっと少し和んだ近藤の顔は、また厳しい表情に戻ってしまっていた。
布団の上に置かれた近藤の右手は、強く握りこぶしを作り、震えていたのだった。
土方は自室の真ん中に、ぼんやりと座っていた。考えねばならないことも、やらなければならないことも山積みで、暇などひとつもないというのに、それでも体が動かない。そういえば朝からずっと、食事もしていないのではなかったか。昨日はどうだっただろう。その前は?
食べたのかもしれなかったが、何も思い出せない。頭の中にあるのは近藤の姿だった。狙撃され、右半身を血まみれにした姿。それでも雄々しく痛みに耐える顔。あの時、さすがは我らが局長だと、周囲に居た者たちは感嘆さえしていたが、土方はそんなふうに思えなかった。
彼は、それまで一度も考えたことが無かった。
あぁ…。そうだ、この人も、
その時が来たなら、死ぬのだ。
それは、今かもしれなかったのだ。
それでもあの日、端から見た土方は、一瞬も怯まずに周囲に指示を飛ばし、知らせるべきところに知らせ、手当の段取りを整えていた。そして自分も血に濡れながら、近藤の体を支え、こんなものはかすり傷だ、すぐに治る、と励ましていた。
狙撃から数日後の今日、近藤は松本良順の治療を受けた。長時間かかった手術の後、近藤本人の他は、副長の土方だけをその場に残らせ、下を向いたまま良順は言う。
「…武人にゃあちぃと酷なことを言う。その肩は完全には治らねぇ。近藤さん、あんたはもう前のようには戦えねぇよ。この先、剣を振るうのは、とっても無理だろう」
「……」
近藤はすぐには返事をしなかった。身を起こしたまま、目の前にある自身の右手を彼は見ている。五本の指がしっかりと揃っていて、握ることも開くこともできる手、以前と何処も違わないこの手なのに、もう剣を握れない。握っても、戦うことが出来ない、と…?
「…だ、だが、時間をかけて鍛錬をすりゃあ…」
良順は、ゆっくり首を横に振った。
「いいや無理だ。銃弾は肩のここんとこの大事な骨を砕いていて、それを完全に直すことが叶わねぇんだよ。刀は重てぇ。振り回すどころか、その肩じゃ、持ち上げることも出来ねぇだろうよ」
愕然とする近藤の傍から、その時、土方がこう問いかけた。
「ひとつだけ聞かせてください、先生。この負傷のせいで、命に関わるようなことには、ならないのですね?」
「あぁ。おめぇがすぐに傷を洗って、しっかり血止めをしたんだってな。そのお陰で悪い風も入ったりしねぇで済んだ。だからそれは大丈夫だよ」
真っ青な顔をして案じていた土方に、良順はそう言ってくれた。土方は心底安堵して、その時、思ったままを言葉にした。ぐっと詰めていた息を漸く吐いて、うっすら笑みの乗った声で、言ったのだ。
「…あぁ、よかった」
よかった、と言ったそれは、心底、土方の本心だったろう。だけれど、そう言った時、近藤が自分を見た目が土方の脳裏に焼き付いた。怒りをぶつける目だった。胸でぐつぐつと煮え滾るような、激しい不信と怒りの目。
「…勇さ…」
「よかった? 何がいいんだ、歳」
ぎろりと睨んでくる目に、言葉を返そうとした時、良順が割って入った。
「薬を渡すから、別室へ来てくれ、土方。化膿止めに痛み止め、解熱剤も渡しとこう。風呂は傷がきっちり塞がってから。包帯と晒は毎日変えてな」
土方は、ひとつひとつの良順の言葉に頷いて、気になることはどんな些細なことでも問い返し、必要なことは紙に写した。大事そうに薬を受け取り、それをしっかりと抱えながら、土方は近藤のいる部屋に戻ったのだが、その時もう近藤は、そこには居なかった。
他の隊士に籠を呼ばせ、土方を其処に置いたまま、近藤は先に行ってしまったのだった。
「勇さん、まだ、怒ってるんだな…」
診療所でのことを思い出し、土方は唇を噛む。男として、武人として、組の頭として、もう二度と刀を振るうことが出来ないと言われた近藤の気持ちを、ちっとも考えずに、あんなことを言った。勿論、それは近藤が、刀を握れなくなったことに対して言ったのではないけれども。
顔を見たくない、と、言われた。随分長い近藤との付き合いで、そんなことを言われたのは初めてだ。何故そう言われたのか、その理由もわかる。土方があまりに無神経なことを言ったからだ。
「だって…」
薄暗がりの部屋の中に、ほろりと、言葉が零れた。
「本当にあの時、俺は、心底ほっとしたんだよ」
続
もうちょっと先まで書きたかったんですけど、長くなりすぎるので断念しましたぁあぁぁ。このあと斎藤さんも出てくるので、本当に書きたかったんですけどねっ。あと、沖田と近藤さんのシーンももう少し書きたかったな…。またきっと次回はかなり先っ。来年なのは間違いないですっ。いつもいつも本当に、すみませんっっ。
2023.11.04
