花    57





馬鹿だなぁ、って思いました
だって近藤先生は、
これからも、ずっとずっと、
土方さんともみんなとも、
一緒に居られるんですよ。

それなのに、
この世の終わりみたいな顔をして。
正直、腹だって立ってきました。

剣が振るえなくなったのなんか、
私だって同じです。
そのうえ、私はもう。

……もう…。




 怖い顔をして、布団の上で固く握りこぶしを作って、また一言も口を聞かなくなった近藤に、沖田は言った。

「何が、あったんですか? 土方さんと」
「…何もないよ」

 一瞬黙っただけで、近藤はすぐにそんな嘘を吐いた。天井を向いたまま口を引き結んで、それ以上何も言わない彼の横で、沖田はゆっくり息を整え、少しでも多く力を蓄えた。沢山話す、ということだけで、今の彼には苦行なのだ。それでも言わねばならなかった。

「また、だんまりですか。私だけ、除け者にするんですか」
「総司、そんなことは」
「じゃあ何故隠すんですか…っ? 何も無くて、土方さんにあんなこと、先生が言うわけがないでしょ。仲間に、ましてや土方さんに、あんなことを言う先生は初めてです。それに、先生のことをあんな風に見る土方さんも、初めて見ました。絶対、何かがあったんだ。そうでしょうっ?」
「……」

 やっと其処まで言った沖田に、近藤はただ口を引き結んで、黙っているだけだ。

「どうしても、教えてくれないんだったら、もういいですよ…」

 其処まで言う間に、沖田の息は浅く速くなっていて、喉の奥からはひゅうひゅうと細い音が鳴っていた。興奮したせいもあるだろう。息をするだけのことも、上手くは出来なくて、簡単には起き上がれない身で、布団の中で足掻いて足掻いて、そのせいで沖田は咳をついた。

「う…ぅッ、げほっ、ごほ…っ。先生が、教えてくれないなら、土方さんに聞きます。い、今から此処を出て、屯所まで、走ってッ」

 痩せた両手を布団について、がくがくと震えて、ただ立ち上がることすら出来ない沖田。近藤は焦って、動かせる片腕だけで急いで立って、なんとか沖田を宥めようとする。

「総司、総司、喋るのをやめるんだ…っ。誰か…、来てくれ、誰かっ」
「こんどう…先生こそ、ひ、人を呼ぶのはやめて下さい。私にも話しにくい話だったら、他の人がいたら、もっと、言えなくなる…っ。」
「総司…ッ」
「そんなに、大事にしてくれなくたっていい、駄目になったって、もう、いいんですよ、こんな体。相談事のひとつすら、して貰えない身に、なり下がったんだったら、もうこんな、病んだ体なんて…」

 言葉よりも、ひゅうひゅうと鳴る息の音の方が大きいほどの声だった。そんな沖田に慄いて、近藤はとうとう言ったのだ。

「そんなことは言わないでくれ。俺はお前がここで生きててくれるだけで、充分…っ。あぁ…そうか…」
「近藤、先生?」
「…そうか、わかった。あいつも、だから、よかった、と」

 沖田はじっと近藤の目を覗き込み、それから、ふうっ、と力を抜いて、布団の上に横になった。体の片側を下にして、背を丸め、薄く開いた目で近藤を見たまま、息を震わせながら、ゆっくり、ゆっくりと、吐いて、吸う。百もそれを繰り返し、ようやっと、ひゅうひゅういう音が静まっていく。

「だい、じょうぶ、なのか…?」

 近藤が酷く不安げにそう言うと、沖田はうっすら、笑って見せた。

「…えぇ。なにしろもう、ずいぶんながいこと、この病に付き合って、いますから」
 
 そんなに前からか、と近藤は思った。心配かけないように、元気なふりをして見せていたのか、と。こんなにも苦しそうで、なのに、うっすらとだけでも笑っている沖田を見て、近藤は自分が恥ずかしくなった。恥じて項垂れる近藤の顔を見上げて、沖田は確かに、笑っている。

「何が『わかった』のか、わかる気がします。…ねぇ? 近藤先生は、私がこんなでも、生きててくれて嬉しいって、思ってくれていますよね? 剣が振れない、戦うことも出来ない。どころかろくに布団から出ることも出来ない、こんなぼろぼろな私でも、死なないでいてくれてよかった、って思ってくれますよね?」

 近藤はただ、頷いた。これを教えるために、ずっと隠してきた今の自分の体の弱さ、脆さを、沖田は隠さず見せたのかもしれない。何かが込み上げて来そうで、大きな声を上げてしまいそうで、近藤は顔に力を入れて、震えていた。

「ふ、ふふ…っ。先生のそんな顔、初めて、見ました…。土方さんにも、見せたいなぁ。呼んで下さいよ、ねえ、近藤先生」
「…いや。もう、夜も遅い、明日に」
「駄目です。今がいい。それともやっぱり私が行きましょうか?」

 そう言って、沖田はまた無理に起き上がろうとする。近藤は焦ってそんな沖田の体を布団に押し戻し、頷いた。

「わかったよ。そしてちゃんと話をするよ。そうしろと言っているんだろう?」
「えぇ、そうです。…よかった。やっぱり近藤先生は、近藤先生ですよね、ちゃんとするべきことをわかってる」
「…お前のお陰でわかったんだよ」
「私にもまだ、やれることがあったんですね…」

 


 土方の部屋の外に、気配が立った。気配だけで誰か分かった気がして、でもそんな筈はないと、土方は首を横に振る。

「誰だ。今、誰も呼んでいない」

 すると障子の外で、うっすらと影が動く。

「俺だよ」
「勇さんっ?!」

 急いだせいで文机に足をぶつけ、からの湯飲みを畳の上に転がしてしまいながら、土方はすぐにも障子を開いた。細い月を背後に、影になった近藤の顔はよく見えず、土方はさらに狼狽する。

「どうしたんだ、なんで此処にっ? もしや、そんなに肩が痛むのか? 人を寄越してくれればいいのに…っ」

 驚いて、いつも通りに話してから、土方の胸は急に冷えていく。顔を見たくないと言われたのは、つい数刻前のことなのだ。

「すぐに、医者を…」
「いや、いいんだ。少しは痛むが、最初に比べれば随分楽だ。お前のお陰だと良順先生が言っていた」
「俺は何も」

 土方からは近藤の顔が良く見えないが、近藤には土方の顔が良く見えた。目の下の隈が酷い。何日も寝ていない顔だとすぐに分る。それもこれも、自分を案じているからに他ならない。こんなにも思ってくれている相手に、俺は、何を言ったのだろう。

「歳、来てくれ。総司が呼んでるんだ」
「総司が…? いったい、どうして」
「いいから、来てくれ」

 聞けば近藤は、別邸から此処まで、一人で歩いてきたのだという。そんな危険なことをと声を荒立てそうになって、土方は懸命に心を落ち着けた。月あかりの下を歩きながら、近藤の横顔を盗み見ようとするが、彼は口をぐっと口を引き結んで、先へ先へと歩いていく。

「い、いさ…勇さん」

 前に見える大きな背に、声をかけるのは勇気が必要だった。そしてその先を言うのには、もっと。

俺は…
あんたの気持ちを少しも考えず、
酷いことを言った。
簡単に解ける怒りではあるまいが、
詫びだけでも、聞いて欲しい。

「俺が悪か…っ」
「……」

 ぴたり、と近藤が足を止めた。体ごと振り向いて、彼は土方を真っ直ぐに見る。

「いいや、悪いのは、俺だ」

 仁王のように、強い姿で近藤は立っている。淡い月明かりでは望めぬような、濃く黒い影が地面に伸びて、いっそう彼は強く見えたが、今の彼は以前ほど強くはない。剣を振るう腕を失い、そんな自分に落胆して、項垂れて。唯一無二の片割れとも思っている男の、言葉の意味を取り違えて激高し、それを相手にぶつけて遠ざけて。

 そして、そのことを、沖田に教えられた。
 
「そうだ、俺が悪い。弱くて、愚かだったんだ。悪かった、歳」

 近藤はそう言って、頭を下げた。そして顔を上げて、また真っ直ぐに土方を見る。

「醒ヶ井からここまで、案外遠い。ゆっくり歩きながら考えたよ。総司の気持ち、お前の気持ち。何も分っていなかった自分の愚かさ。総司が身をもって、俺に教えてくれたんだ。自分にとって、大切な誰かが例えば、死んだかもしれなかった時、生きて戻ってくれただけで、よかったと思うのが当たり前だ。お前はその気持ちを言葉にしただけだ。なぁ、そうなんだよなぁ」

 言われて、一瞬で土方の顔はくしゃくしゃに歪んだ。これほどきれいな目鼻立ちでも、こんなときはそうなるのだと、近藤は思って、ただ力無く身脇にぶら下げられていた土方の腕を掴んだ。
 
「面白い顔になった、歳にしては珍しい顔だ。よし、総司にも見て貰おう!」

 こんなふうに手を取って、土方の前を走ったことが、ずっと以前にあったのを、朧げながら思い出す。浮かんでくるのは多摩の風景、ずうっと続く薄が、風で揺れていて、あの頃、武士になるという遠い夢を、それぞれの胸に抱いていた。

 遠い夢だ。
 本当に、遠い、遠い、夢。
 叶うと思えたのに、また遠ざかる。

 それでも、
 あの頃に戻ることはもう、出来ない。
 
「歳よ」
「うん、勇さん」
「これから、俺たちはどうなっていくんだろうな」

 もうすぐ沖田の待つ別邸へと戻る。こんな言葉は、総司には聞かせられないと分かっていて、近藤は今聞いたのだろう。

 目的の為に手段を選ばず、ひたすら進み続けてきた。その為に仲間の命さえ幾つも斬り捨てた。そして今、隊で一番の腕の持ち主は病に倒れ、何があっても折れてはならない大将の自分までが、剣で戦う術を失った。


 もしかしたら、天が、
 言っているのかもしれない。

 もうお前たちの夢は潰えたのだ。
 諦めて、時代の波に飲まれてしまえ。

 と。


 けれど、土方は言ったのだ。折れぬ目をして、言ったのだ。 


「どうなるもこうなるもない。ただ…前へ、進むだけだ」

 少し黙った後、そう、土方はさらに続ける。

「前へ。ずうっと進んできた。進むと決めてから、今日までずっと。決めたことを違えるのは、武士のすることじゃない、だろ? なぁ、勇さん」

 死にたくなるような屈辱を味わっても、仲間が死んで手足をもぎ取られたように苦しくても、守ると決めたものが揺らいでも、例えそれがぽきんと折れてしまっても、それでも。

 進める限りは、前へ。




「連れて来たぞ、総司」

 そう言いながら部屋に入った時、近藤はまだ土方の手首を握っていた。それを見た沖田は、芯から笑顔になった。 

「仲直りした姿、見せに来てくれて、ありがとうございます。近藤先生、土方さん。総司は嬉しいです、病気なんかどこかへ飛んでいきそうなぐらい、本当に嬉しいですよ」

 疲れたのか、総司は布団に横になって、起き上がれもせずに、そう言った。










 斎藤さんが不在で、とっても焦っています。こんなはずでは。次回はきっと冒頭から出ると思うのでっっ、許して頂こう(斎藤さんに)と思っています。それにしても本当に史実の展開が鬱です。私だったら気が変になるかもしれないなっていうぐらい鬱だ!

 書けるのか? 私。ぬぬぅ。またまたとっても悩みそう…。またしても間が空きすぎましたが、なんとか書けて良かったです。頑張れ私っ。



2025.02.17