花    55






考えてしまったんです
もしかしたら
みんなで多摩に帰れるんじゃないかって
あの頃に戻れるんじゃないかって

…なんて
自分勝手なんだろう

夢を追い掛ける近藤先生の顔
ずっとそれを支えてきた土方さんの顔も
今は辛くて見られない

私が身勝手だからこんなことが
起こってしまったんじゃないでしょうか
全部私が悪いんじゃないでしょうか




 朝になっても、夜になっても、近藤は別邸に訪れなかった。また次の朝も夜も来なかった。そんな日がもう随分続いて、ひとりで床についている沖田は、寝返りばかり打って、寝返り打つだけで苦しくなる胸に、ただただ苛立ちばかり強めていた。そんなある日、そうっと障子が開いて、案じる顔をした井上がそこから顔を覗かせた。

「あぁ…っ。源さんっ」

 焦って起き上がろうとして、布団の中でもがく沖田を、慌てて入ってきた井上が、この上ないぐらい思いやり溢れた両手で支えた。

「無理に起きなくてもいいよ、総司。俺だけなんだからなんにも気を遣わなくていい」

 そんな言葉など聞こえていない風に、沖田は井上の胸に取り縋って、間近からその目を覗き込んだ。

「近藤先生は、どうして来ないんですかっ」
「忙しくしておられるんだよ。総司はあの話は聞いたのかい」

 大政奉還のことだとすぐに察して、こくこくと彼は頷いた。半月程前、それとももっと前だったかに、見舞いに顔を出した永倉が話してくれた。とうとう徳川さまはお役を手放され、天子様に「せいけん」をお返しなされた、と。元々沖田には、政治のことがよく分からない。だけれど分からないなりに「それじゃあもう、新選組の仕事が無くなるのでは」と思ったのだ。

 その時、心の中に溢れ出した想いは誰にも話せないでいる。罪深くって愚かで酷いことなのに、それが未だに胸の奥に沈んで痛んでいる。

「…き、聞きましたよ。永倉さんが、見舞いに来てくれて、それで」
「そうか。ならわかるだろう、あの日からと言うもの近藤局長も土方副長も、我らの身で何かできることは無いかと、少しでも支えになれないだろうかと、身を粉にして奔走しているよ」
「…そう、ですか…」

 あぁほら、やっぱり、
 私みたいな酷いこと、
 誰一人として、
 考えちゃいないんだ。

 元々紙のように白い顔色で居るのに、井上の話を聞いて沖田はますます青ざめた。浅くて速い呼吸がますます速くなって、気付いた井上が沖田を寝かせようとする。

「横になりなさい、総司。お前が少しでも元気でいたら、局長たちも安心するんだから」

 そうだ。これ以上足手まといになるわけに行かないと、沖田は言われるまま布団に横になり、床に入ったままで井上を見送ったのだった。近藤の別邸のこの家は、しばしば新しい出来事に取り残される。その次に彼らを襲った恐ろしい事でさえ、起こったのち数日経って、やっと彼の耳に入った。

 今度も来てくれたのは井上で、彼は病床の沖田と同じほどに青い顔をしていた。

「落ち着いて聞きなさい、総司。あぁ、寝たままで構わないから。局長がうたれたんだ」

 うたれた。という言葉は、音だけで聞けば幾種もの意味を持つ。「討たれた」という最も悪い意味に捉えて、その一瞬に、彼は自分の命までもが、その瞬間にふっつりと途絶えたかと思った。目の前が、真っ暗になった。

 表情を凍り付かせた沖田の前で、井上の言葉は続いている。

「京から帰る途中、物陰から狙われていて、ここに一発、銃弾を。会津様のお計らいで、局長はすぐ大阪の松本良順先生の医学所に行ってな。しっかり治療を受けて、今夜には此処へ戻るとのことだから。…総司?」
「…やめ、て下さいよ、源さん。うたれた、なんていうから、私はてっきり」

 近藤先生が、死んだのかと。

 見れば、沖田ははらはらと涙を流していた。皆まで言わずとも井上にも沖田の心情が分かったらしい。己の言葉足らずを真っ直ぐ詫びて、青ざめたままの顔に、それでも小さな笑みを浮かべた。

「すまん、万が一にもそれは無い! 局長は気丈にも落馬すらせず、そのまま駆け通して難を逃れたんだ。さすがは我らの大将だ」

 井上はそう言って、己自身と沖田とをはげましたが、それでも頬を流れる沖田の涙は止まらなかった。彼の手は震えるままに井上の腕を握り、ぽつり、ぽつりと、言えるはずの無かった罪を懺悔した。

「…それ、私のせいかもしれない…。徳川さまが『まつりごと』から離れられたと聞いた時、私、思ってしまったんです。じゃあ…もう、此処に居なくて良くなるんじゃないか。みんなで多摩の田舎に帰って、昔とおんなじに、これからはずっと一緒に居られるんじゃないか、って…。私がそんな勝手を思ったから…先生の身に、悪いことが」
「…総……」

 井上の腕を握っている、沖田の痩せた手。震えるほど力を込めているのだろうに、簡単に振り払ってしまえるほどしか力の無いその指。青い血管の浮き出たその手は今、きっと使い慣れた木刀すら、まともに振ることが出来ないだろう。

 沖田を思った土方の考えで、少しでも彼の気持ちが安らぐように、気力の僅かでも戻る様にと、近藤と寝起きを共に出来るようにし、隊士たちが鍛錬する声や物音が聞こえるよう道場をこの傍に借りて。それでも、彼は結局はひとりぼっちだったのだ。一日の大半を何も出来ずに過ごして、もう二度と元のように戻れないだろう、その日々。

 そんな沖田が、懐かしい多摩での、昔のままの賑やかな暮らしに焦がれて、其処へ戻れるかもしれないと期待して、なんの罪があるだろう。それなのに彼は、そんなことを期待した己を、ひとりでこんなに恥じて。

「…馬鹿を言うんじゃないよ。そんなわけがないだろう…ッ。お前のそういう気持ちと、近藤さんが怪我をしたことは、万が一にだって何の関係もないッッ」

 思い余って揺さぶって、その体の細さ軽さに、井上は苦しかった。

「乱暴をして済まない。とにかく、今夜から近藤局長は此処に戻ってくるよ。久しぶりで嬉しいだろう。まだ治療をしたばかりの局長が無理をしないように、お前が見張っておいてくれ。そうしてお前も無理はいけないよ。いいね、総司」

 小さな子供にそうするように、井上は沖田の頭を撫でてやった。そうして彼は出て行ったが、それと入れ違うようにして、今度は土方がその部屋を訪れた。

「騒がしくして悪いな、総司。源さんから聞いただろうが、夜には局長が此処に戻ってくる。お前と一緒に暫し療養するから、総司もそのつもりでな」

 土方は両腕で大事そうに、近藤の二本を抱いていた。それを丁寧に、部屋の刀掛けに置こうとして躊躇い、思い直してやはり置き、置いた後にまた迷うように手に取ろうとした。

「なに、してるんですか…? 土方さん」
「うん? いや、何でもないんだ。何でもない」

 やっと総司の方へと向けた土方の顔は、どうしてか随分強張って見えた。

「暫く来られなくて悪かったな。どうなんだ、その…具合は。無理してないか。ちゃんと薬を飲んで、くれぐれも、大事にするんだぞ、総司」

 無理やりに平気そうな顔をして、無理やりに笑みを貼り付けた顔だと沖田は思った。いつもみたいに笑って軽口を叩いて、元気にしていなくちゃと思うのに、沖田は笑うことが出来なかった。ただ、部屋の外に静かな気配がひとつあって、そのことに少しほっとした。

 其処に居るんですね、
 斎藤さん。
 なら、少しはよかった。

 冬は日が落ちるのが早い。まだ夕暮れに差し掛かったばかりだというのに、部屋が薄暗くて、土方は灯りを灯そうとしたのだ。彼がふと目をやった行燈の上の蝋燭は、まだ半分近く残っているのに、どうしてかわざわざそれを、新しいものに換えていった。

 部屋から出て、屯所へと戻る途中、土方は少し後ろを歩いている斎藤に聞いた。

「なんでわざわざ、ついて来たんだ」
「…あんなことがあった後だ。一人では不用心だろう」

 斎藤の言うのは、近藤が狙撃されたことだ。反論の余地など何もない。それでも土方は彼の言葉に問いを重ねる。

「今の俺に、一人歩きはさせられないか。そのぐらいおかしいか」
「別に」

 何処もおかしくはない、と斎藤は言えなかった。正直、平素の彼には程遠い。上擦った声、細かく震えている体。元々月のおもてのように白い顔が、透けて向こうが見えそうなほど、今の土方は儚く見える。

「早く屯所に戻らないと」
「……」
「やることは幾らもある。局長が不在になる分、あれも、これも、俺が。居ないことは外部に悟られないようにしなければならない。その為に、今夜のうちに手回しして。それから、あとは…。…ッ…離せ」

 通行人が途切れて、二人になったその一瞬、斎藤は後ろから土方の腕を掴んだ。離せ、と鋭く言われながら、強引に路地の奥へと引き込み、彼の体を腕の中へと抱き込んだ。

「何、しやが…ッ」
「何も見るな」
「斎…ッ」
「今だけでいい。何も聞くな。……俺の鼓動だけ、聞いていろ」
「そんな暇っ、今…ッ」

 捩じ切るほどの力を込めて、斎藤は土方の顎を捕え上を向かせた。上背のある斎藤が、己を見下ろしている顔だけが、土方の視野にあった。射貫くような目をして、斎藤は彼の内心を見透かしている。

「…ん……」

 息の付けなくなるような接吻が、ひとつ、落とされた。

「なんで」
「したくなった、それだけだが」
「…馬鹿。見境のねぇ」

 腕を解くと、土方はもう普段の彼だった。少なくとも、彼を深く知るもの以外には、怜悧で揺るぎのない、鬼の副長に戻って見える。

「屯所に、帰る」
「…あぁ」

 どこか遠くで、犬が遠吠えしている。濃くなり始めた二つの影は、屯所への帰り道、ぴたりひとつに、重なっていた。












 54話書いてから55話まで一年と一か月も間が空くとか。駄目過ぎるっ。別の新選組小説を書き始めてしまったのが理由のひとつですけど、もう一つ、史実が難し過ぎるところに来てて、もうほんと困り果てたってのもあるんです。

 いや、ここら辺の新選組の年表見ると、いろんなことが起こり過ぎてるんですよ。大政奉還からの近藤狙撃と次の戦いと、ってね。その直前っていうか、大政奉還と斎藤の帰営(伊東の所からの)も重なってるしで、もうこれ、えっ?どう、したら…って。

 捏造は別としても、史実通りでは正直ないです。全然ないです。ごめん。無理だから。でも頑張ったんですよぉぉぉ。ですっ。はい。



2023.02.12